真実なき誓い
南区へ近づくにつれ、王都の空気はゆっくり色を変えていった。
昼間は人で溢れている通りも、夜更けになると別の街のように静まり返る。閉ざされた酒場の扉。人気の消えた石畳。軒先へ吊るされた灯りだけが風に揺れ、細い路地へ弱い光を落としていた。
馬車の窓から外を見ていたルシアンは、無意識に肘掛けへ指先を打ち付ける。
シオンの言葉が頭から離れなかった。
向こうだけで終わると思っていた。
あれは、ただの推測ではない。
何かを知っている声音だった。
向かいへ座るセレネは静かだった。先ほど星見宮で見せた不安定さはもう消えている。薄い灰色の外套へ着替えた姿はいつも通り落ち着いて見えたが、馬車の揺れに合わせて窓の外へ向けられる視線は、周囲の気配を探るように細かく動いていた。
やがて馬車が止まる。
南区外れの倉庫街だった。
運河沿いへ並ぶ古い倉庫群は、夜になるとほとんど人の気配が消える。積み上げられた木箱。濡れた縄。湿気を吸った木材の匂い。古い埃の臭気が夜気へ混ざり、息を吸うだけで喉の奥がざらつくようだった。
警邏隊が周囲を封鎖している。
集まった野次馬達も妙に静かだった。低い囁きだけが暗がりを這うように流れている。誰もが倉庫の奥を気にしながら、けれど近付きたくはないという空気を漂わせていた。
ルシアンが馬車を降りると、警邏隊の男がすぐ頭を下げた。
「第三王子殿下」
「状況は」
「遺体は中です。検視官が確認を進めています」
男は緊張した顔のまま続ける。
「周辺の聞き込みも行いました。被害者はここ数日、かなり派手に飲み歩いていたようです」
「名前は」
「バルト・エルグラン。子爵家次男です」
聞き覚えのある名だった。
派閥争いで婚姻を利用しているという話を何度か耳にした家だ。真面目な評判は聞かない。
「婚約者とは政略か」
「はい。周囲もそう認識していたようです」
男は少しだけ声を落とした。
「……女性関係もかなり派手だったとか」
横で聞いていたクライヴが小さく眉を寄せる。
アルヴェリアでは、婚約後の不貞は軽く見られない。特に貴族社会では、家同士の信頼へ直結する。
「酒場で婚約者の愚痴をよく話していたそうです。愛のない婚約だ、自由がない、真実の愛でもない、などと」
警邏隊員はそこで一度言葉を切った。
「数日前、酒場で騒いでいた時に、妙な手紙を見せびらかしていたそうです」
ルシアンの視線が上がる。
「手紙?」
「はい」
男は布へ包まれた紙片を差し出した。
紙は何度も折り畳まれていた。深く残った折り跡。端へ滲んだ黒い染みは酒だろうか。酔った男が卓の上で笑いながら広げた光景が、妙にはっきり想像できた。
書かれていた文字は短い。
『偽りの誓いを結ぶ者へ。3日目に死を』
風が吹く。
積み上げられた木箱のどこかで、乾いた軋みが鳴った。
「本人は何と言っていた」
「婚約者に呪われたかもしれない、と笑っていたそうです」
男の声にはわずかに嫌悪が混じっていた。
「周囲も冗談半分で聞いていたとか。本人もかなり酔っていたらしく……真実の愛だなんだ、面倒な女は嫌だと騒いでいたそうです」
ルシアンは紙片を見つめたまま何も言わなかった。
その翌日から男は姿を消した。
そして数日後、首のない死体で発見された。
「婚約者は」
「当初は疑われました」
警邏隊員は続ける。
「ですが、証言がおかしいんです」
「どういう意味だ」
「婚約者本人が、最後に会った時期を曖昧にしか答えられない。周囲の使用人達も同じです」
男は困惑したように眉を寄せた。
「誰もが最近見ていない気がすると言うのですが、いつからなのかが噛み合わないんです」
ルシアンは無意識に紙の端を押さえていた。
そこまでは、人間の犯行で説明がつく。
つくはずだった。
「その後、婚約者も屋敷から姿を消しました」
「……そして死体で発見された」
「はい」
倉庫街へ沈黙が落ちる。
夜風が吹き抜けるたび、積み上げられた縄が小さく揺れた。灯具の光は弱く、倉庫の奥までは届かない。木箱の隙間だけが黒く沈み、どこまで奥行きが続いているのか分からなかった。
ルシアンは隣へ視線を向ける。
セレネはまだ手紙へ触れていなかった。
代わりに、倉庫の空気を確かめるように周囲を見ている。海色の瞳が暗がりをゆっくりなぞった。
「どう思う」
問いかけると、セレネはすぐには答えなかった。
わずかな沈黙のあと、静かに口を開く。
「……噂が広がるのが早すぎます」
低い声だった。
「しかも、真実の愛や3日目など、条件が整理されすぎています」
ルシアンは頷く。
「誰かが怪異らしく見せている」
「はい。条件がはっきりしている噂ほど、人は自分へ当てはめます」
セレネは続けた。
「特に今回は婚約や伴侶に関わる内容です。貴族社会では、噂だけでも十分に恐怖になります」
理屈は通っている。
だが。
「……それにしては妙だな」
ルシアンが低く呟く。
「婚約者まで消える必要がない」
警邏隊員も重い顔で頷いた。
「我々もそう考えています」
その時だった。
倉庫の奥から別の隊員が駆けてくる。
「隊長」
「どうした」
「遺体の確認ですが……婚約証書が見つかりました」
空気がわずかに張る。
「どこだ」
「遺体のすぐ傍です」
隊員は青ざめた顔で続けた。
「ただ、署名欄だけが破られていました」
ルシアンの眉が寄る。
「名前が分からないのか」
「いえ……片方の名前だけ、綺麗になくなっているんです」




