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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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異郷の記憶

 翌日の午前、フェリクスの研究室には前夜の現場記録が並べられていた。古い羊皮紙と乾いた革表紙の匂いが、朝の光の中に薄く沈んでいる。


 机の中央には、婚約証書の写しが置かれていた。署名欄を欠いたその紙は、白い光を受けても、そこにあったはずの名を返しはしない。セレネはルシアンの隣で静かにそれを見下ろしていた。黒髪はきちんと結われ、深い海色の瞳に乱れはない。


「現場記録は以上です」


 クライヴが記録帳を閉じた。


「助かった。外を固めろ。許可なく誰も入れるな」


「承知しました」


 クライヴは一礼し、余計なことは尋ねずに退室した。扉が閉まってから、紙をめくる音さえ少し遠くなるような沈黙が落ちた。


 ほどなくして、扉が叩かれた。


 入ってきたのは、シオンだった。


 いつものように整った姿をしていた。けれど、その笑みは薄く、目元には疲労が沈んでいる。シオンは椅子へ座る前に、静かに口を開いた。


「先に、二つ頼みがある」


 ルシアンは黙って続きを促した。フェリクスは机の端に腰を預け、いつもの緩い笑みを浮かべていたが、目だけは笑っていなかった。


「これから話すことは、この部屋の外に出さないでほしい。少なくとも、俺とセレネの許可なく、誰にも」


 その言葉に、ルシアンは隣のセレネを見た。セレネは否定しなかった。ただ、机上の紙へ視線を落としたままだった。


「もう一つ。途中で、事件と関係ないと思っても切らないで。全部聞けば繋がる」


「内容次第だ」


 ルシアンは低く返した。


「俺は王族だ。王国に害がある話なら、外へ出さないなどと軽々しく約束できない」


「分かってる。王国を裏切る話じゃない。けど、セレネにも関わる」


 室内の空気が、わずかに重くなった。


 シオンはそこでようやく椅子を引いた。座る動きはいつも通り優雅だったが、指先だけが一度、背凭れの縁を強く掴んだ。すぐに離されたその動きを、ルシアンは見逃さなかった。


「フェリクス殿下。前世の記憶を持つ人間について、記録を見たことはある?」


 唐突な問いだった。


 前世。輪廻。主神教会の教義には、魂が巡るという考えがある。死者の魂は主神の御手に還り、清められ、再び新たな命として世へ降りる。葬儀の祈りにも含まれる、ごく当たり前の信仰だ。


 だが、前の生を記憶したまま生まれるなど、普通は怪談か、聖者伝か、異端審問の記録に出てくるものだった。


 フェリクスは驚かなかった。ただ、少しだけ目を細める。


「あるよ。多くはないけどね」


 ルシアンは兄を見た。


「あるのか」


「記録としてはね。主神教会の古い覚書、修道院の告白録、辺境伯家の古文書に数例。もっとも、ほとんどは夢見や神託、前生の残り香として扱われている。具体的な地名や生活習慣まで語ったものは少ない。だから真偽は判断しづらい」


「信じてるのか」


「研究者は、信じるかどうかより先に、記録があるかを見るんだよ」


 フェリクスは机の上に置かれた古い冊子を指先で軽く叩いた。


「ただ、完全にないとは言えない。極めて稀な伝承としてなら、存在する」


「シオン」


 ルシアンは低く名を呼んだ。


「お前は何を言おうとしている」


 シオンはすぐには答えなかった。椅子の背に触れていた指が、一度だけ強くなる。いつものように笑おうとして、けれど口元に浮かびかけた笑みはすぐに消えた。


「……こんな話を、真面目にする日が来るとは思わなかった」


「シオン」


「分かってる」


 シオンは小さく息を吐き、顔を上げた。


「俺には、前の人生の記憶がある」


 沈黙が落ちた。


 窓辺の光の中で、積まれた古書の埃だけが静かに揺れていた。ルシアンは、シオンの顔を見た。冗談を言う時の目ではなかった。女を口説く時の目でも、こちらを挑発する時の目でもない。


 疲れた人間が、それでも最後の一線を越える時の目だった。


 シオンの話は、奇妙なほど淡々としていた。


 前の人生での彼は、日本という場所で生きていたという。夜でも街が明るく、手紙より早く言葉が届き、馬車ではない鉄の箱が道を走る場所。ルシアンには、その光景がまるで想像できなかった。


 前のシオンは、女に夢を見せる夜の店で働いていたらしい。酒を注ぎ、笑い、相手が欲しがる言葉を探し、少しの間だけ現実を忘れさせる。酒場をもっと華やかにし、客を女性だけにしたような場所で、そこで働く男を、あちらではホストと呼ぶのだとシオンは説明した。


 相手の感情を読み、欲しい言葉を選び、距離を詰める。甘さを武器にし、軽さで本心を隠す。その説明を聞けば、ルシアンにも、シオンという男の輪郭が少しだけ見えた気がした。


「お客さんの女の子から教わったものに、乙女ゲームっていうのがあってさ」


 乙女ゲーム。


 聞き慣れない言葉だった。


 どうやらそれは、女が主人公の恋物語らしい。何人もの男が現れ、主人公はその中から一人を選ぶ。選ばれた男と心を通わせ、特別な結末へ辿り着く。その男たちを、攻略対象と呼ぶのだとシオンは言った。


 攻略、という言葉だけが、妙に耳に残った。


 人を口説くための言葉にも、砦を落とすための言葉にも聞こえる。少なくとも、恋や婚約を語るにはひどく物騒だった。


 シオンは、その乙女ゲームというものから、人を口説くための言葉や、女の心を動かす仕草を仕事のために覚えていったらしい。


「でも、やっているうちに気づいた。あれはただの恋物語じゃない。誰が誰を選ぶのか、誰が選ばれないのか、どの言葉で心が動き、どの選択で結末が変わるのか。人の感情まで筋書きにされているものなんだよ」


 筋書き。その言葉が、ルシアンの耳に残った。


 シオンが前の人生で知っていた乙女ゲームには、レヴァンティス王国によく似た舞台のものがあったという。王太女、伴侶候補、真実の愛、政略婚約。今の事件に絡む言葉が並ぶその物語の中で、隣国から来た女好きの留学生として配置されていた男。


 シオンはそこで、苦く笑った。


「それが俺だった」


 その乙女ゲームでは、女の主人公がいて、シオンは18歳から19歳の頃に必ずその少女と出会うはずだったという。けれど、現実はそうならなかった。


「ヒロインは現れなかった。少なくとも、俺が知っていた通りには。イベントも起きない。選択肢もない。誰かが俺を選ぶこともない」


 シオンの声が少しだけ低くなった。


「俺は、攻略対象として動く必要なんかなかった。現実はゲーム通りには進まなかったんだ」


 ルシアンはすぐには口を挟まなかった。


 あまりにも荒唐無稽な話だった。前世、日本、乙女ゲーム、攻略対象。どれもこの国の言葉ではないように響く。けれど、その一つ一つが、シオンの軽さと、レヴァンティスの事件と、どこかで嫌な形に繋がっていく。


 フェリクスも黙って聞いていた。普段なら未知の文明について興味を示しそうな兄が、この場では余計な質問をしない。それだけで、シオンの話がただの奇談ではないことが分かる。


「そのまま外れた話なら、俺だって笑って終わりにできた」


 シオンは机の上に置かれた婚約証書の写しを見た。


「でも、起きたんだよ」


「何が」


「真実の愛。偽りの伴侶。3日目の死。伴侶候補。首のない死体。名前の消える記録」


 その言葉が、研究室の空気を冷やした。


 それらは、シオンが前の人生で知っていた乙女ゲームの中で、レヴァンティス王国に起こる事件だったという。ゲームというものがどれほど精巧な物語なのか、ルシアンには分からない。シオンの説明によれば、そこに本物の死体が横たわるわけではないらしい。血の匂いも、腐臭も、遺族の声もない。ただ物語の筋として、人が死に、犯人が明かされ、選ばれた者が真実へ辿り着く。


 シオンは、その犯人を知っていた。


「だから、止められると思ってた」


 シオンの声は低かった。


「物語通りに進んでいなくても、この事件が起きてるなら、俺の知識で先回りできるかもしれない。そう思ってたんだ」


 犯人として定められていたのは、レヴァンティス王国の王太女アリアナの婚約者候補の一人、セドリック・ヴァレンティだった。


 だが、そのセドリックが死んだ。


 犯人として名を暴かれる前に、首のない死体として。


 フェリクスの指が、机の上で止まる。


「筋書きでは犯人だった男が、被害者になったわけだね」


「ああ」


 シオンは笑わなかった。


「そのあと、王太女アリアナの婚約者はクライド・オルディーンに決まった。残っていた婚約者候補たちは、セドリックの死で危険を感じて、それぞれの領地や国へ帰った。俺も、その一人だ」


「だが、お前は帰ってからも追っていた」


 ルシアンが言うと、シオンは頷いた。


「レヴァンティスでは、そのあとも元婚約者候補だった男たちが次々に死んでる。首を落とされて、名前を抜かれて、周りから少しずつ忘れられていく」


「忘れられる?」


「その男が死んだことは覚えてる。でも、王太女の婚約者候補だったことを忘れる。最後に会った日が曖昧になる。証書や記録から名前が消える。まるで、そいつが最初からその関係にいなかったみたいに」


 シオンは、そこで初めてわずかに視線を伏せた。


「でも、俺だけは覚えてる」


 ルシアンはシオンを見た。


「なぜだ」


「分からない。前世の記憶があるせいなのか、ゲームの知識があるからなのか、それとも俺もまだ物語の中に残ってるからなのか」


 軽い言葉ではなかった。


 シオンは、自分でも答えのないものを口にしている顔をしていた。


「物語とは完全に違う。犯人のはずだった男は死んだ。ヒロインも現れない。なのに事件だけが続いてる。しかも、王都でも同じことが起きた」


 シオンはルシアンを見た。


「俺も、狙われてるかもしれない」


 その一言だけは、冗談にしなかった。


「だから、特務隊に依頼したい。これはもう、俺一人で追える話じゃない」


 沈黙が落ちた。


 その瞬間のシオンは、恋敵ではなく、助けを求める当事者だった。笑みを残しているのは余裕ではなく、崩れないための癖に見えた。


 ルシアンは、机の上に置かれた婚約証書の写しを見た。


 署名欄を欠いた紙。名前を失った誓約。犯人であるはずなのに首を失った男。周囲の記憶から抜け落ちていく婚約者候補たち。


 人間の犯行として考えることはできる。


 噂を作り、恐怖を煽り、記録を改竄し、証言を混乱させる。王位や婚約に絡む派閥争いなら、動機も作れる。だが、それだけでは説明しきれない穴がある。少なくとも、シオンだけが覚えているという一点は、単なる作為では片づかない。


「……正式な依頼として受ける」


 ルシアンは低く言った。


 シオンの肩から、ほんのわずか力が抜けた。だが、安心しきった顔ではなかった。むしろ、ここからが本題だと分かっている顔だった。


 ルシアンは、その変化を見逃さなかった。


「だが、まだ終わっていないな」


 シオンが目を伏せる。


「何が」


「お前が最初に言った。俺とセレネの許可なく外へ出すな、と」


 ルシアンは、机の縁に触れていた指を静かに離した。


「お前の前世の話だけなら、セレネの許可という言葉は出ない」


 シオンは、ほんの少しだけ笑った。


 今度の笑みは、痛みをごまかすためのものに見えた。


「本当に、嫌なところで鋭いよね」


「答えろ」


 シオンはセレネを見た。


 その視線を追って、ルシアンもセレネを見る。セレネは逃げなかった。深い海色の瞳は静かに伏せられていたが、顔色は変わらない。ただ、紙片を押さえていた指先だけが、ほんのわずか白くなっていた。


 シオンは、もう茶化さなかった。


「俺とセレネが共有してる秘密っていうのは、このことだよ」


 ルシアンの胸が、静かに冷えた。


「どういう意味だ」


「俺だけじゃない」


 シオンの声は、ひどく静かだった。


「セレネも、日本を知っている」


 ルシアンは反射的にセレネを見た。


 セレネは、否定しなかった。


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