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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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言えなかったこと

「セレネも、日本を知っている」


 シオンの言葉が落ちたあと、フェリクスの研究室はひどく静かになった。


 窓から差し込む朝の光が、机の上を細く横切っている。その光の端に、署名欄を欠いた婚約証書の写しが白く浮かんでいた。そこにあるはずの名前は、いくら光を浴びても戻らない。紙の上に残された空白だけが、先ほどシオンが口にした異郷の名と、妙に重なって見えた。


 セレネは否定しなかった。


 それが、何よりも重かった。


 ルシアンはすぐに彼女へ問いかけなかった。問いたいことはあった。いくらでもあった。なぜ黙っていたのか。いつから覚えていたのか。どこまで知っているのか。シオンと何を話したのか。だが、そのすべてをこの場でセレネへ向ければ、彼女を追い詰めることになる。


 だから、ルシアンはシオンを見た。


「なぜ、お前にそれが分かる」


 声は思ったより低く出た。怒りではない、と自分へ言い聞かせる。少なくとも、怒りだけではなかった。胸の奥で疼いているものは、嫉妬よりも、もっと形の悪いものだった。


 自分が知らなかったものを、シオンは知っていた。


 その事実が、喉の奥に冷たい棘のように残っている。


 シオンは机上の紙片から視線を上げた。いつものように軽く笑おうとして、けれど途中で諦める。


「子供の頃から、セレネは時々、この世界にはない言葉をこぼしてた」


 ルシアンの眉が動いた。


「この世界にはない言葉?」


「そう。意味を聞くと、少し考えてから別の言葉に言い換えるんだ。本人も無意識だったんだろうね。周りは、ヴァルキュリア侯爵令嬢は変わった言い回しをする子だ、くらいにしか思ってなかった」


 シオンはそこで、ほんのわずかにセレネを見た。


「でも、俺には引っかかった。俺も同じだったから」


 その声には、勝ち誇る響きはなかった。


 かつてのシオンなら、ここでルシアンを挑発したかもしれない。セレネのことを自分だけが知っていたと、甘く笑って言葉を選んだかもしれない。だが今の彼は、疲れた目をしていた。秘密を握る男というより、同じ場所に落ちてしまった人間の痕跡を、子供の頃から見つけてしまっていた男の顔だった。


 ルシアンは、セレネを見た。


 彼女はルシアンの隣にいたが、いつもより半歩だけ机に近かった。問い詰められる側ではなく、資料を読む者としてそこに立とうとしているように見えた。深い海色の瞳は机の上へ落ち、白い手袋に包まれた指先は、婚約証書の写しの端に静かに添えられている。


 そういえば、とルシアンは思った。


 セレネは昔から、時々妙な言葉を使うことがあった。


 学園の図書室で、午後の光が長机を斜めに切っていた。積まれた証言書を前に、セレネは羽根ペンを置き、紙の束を迷いなく並べ替えていた。証言の食い違いを見つけた彼女は、聞き慣れない短い言葉をひとつこぼした。


 ルシアンが聞き返すと、セレネは羽根ペンの先を止めた。


 ほんの少し考えてから、分類の仕方です、と言い直した。


 別の日、騎士団の訓練記録を読んでいた時もそうだった。被害が広がる可能性を話す中で、セレネはこの国の言葉ではない響きを口にした。意味を問えば、失敗した時の損害の大きさです、と淡々と置き換えた。


 当時のルシアンは、それをヴァルキュリア侯爵家の教育か、セレネ独特の思考癖だと思っていた。彼女は昔から、年頃の令嬢らしい話題よりも、記録、証言、時系列、矛盾の方をよく見ていた。だから、少しくらい聞き慣れない表現をしても、そういう女なのだと受け流していた。


 だが今、その小さな違和感が、ひとつずつ音もなく繋がっていく。


 遠いものを見るような目。時折言葉を選ぶ間。この国の習慣を知っているのに、どこか少しだけ外側から眺めるような静けさ。怪異よりもまず人間の手を疑う、あまりにも冷静な視線。


 ルシアンの指が、机の縁に触れた。


 知らなかったのではない。


 見ていたのに、意味を知らなかった。


「セレネ」


 名を呼ぶと、彼女は静かに顔を上げた。逃げる気配はなかった。けれど、まっすぐ向けられた海色の瞳の奥に、いつもより深い影が沈んでいるように見えた。


「……私は」


 その声は、普段とほとんど変わらない。だが、言葉と次の言葉の間に、ごくわずかな間があった。


「今までお話しできず、申し訳ございませんでした」


 謝罪は、それだけだった。


 深く頭を下げることも、言葉を重ねることもしない。セレネは姿勢を崩さず、ただ一度だけ睫毛を伏せた。膝の上で重なった指先が、ほんの少し強くなる。


 ルシアンは、その指先を見た。


 彼女はいつもそうだ。泣かない。乱れない。言葉を荒げない。どれほど内側で何かが揺れていても、外へ出るのは、呼吸の浅さや、指先の強張りや、睫毛が一度伏せられる程度の変化だけだ。


 だからこそ、見逃してはいけない。


「お前も、前の人生の記憶があるのか」


 問いは静かに出た。


 セレネは、少しだけ沈黙した。


「……はい」


 その一音で、ルシアンの中にあった最後の逃げ道が消えた。


 生まれ変わりの教義そのものには、驚かない。主神教会の祈りは、幼い頃から耳にしてきた。魂は巡る。死は終わりではなく、別の始まりへ続く。それはこの国では珍しい考えではない。


 だが、記憶を持っているとなれば話は違う。


 しかも、この世界ではない場所の記憶を。


 シオンとセレネが、同じ名の異郷を覚えているなど。


 ルシアンは、すぐに理解できなかった。理解できるはずがない。だが、目の前のセレネが嘘をついていないことだけは分かった。彼女の声も、目も、沈黙も、嘘を飾るためのものではなかった。


 フェリクスが、静かに口を開いた。


「確認してもいいかな、セレネ嬢。君は、日本を知っている。乙女ゲームというものも知っている。けれど、シオンが話したレヴァンティスの物語そのものは知らない。そういうことだね」


 セレネはすぐには答えなかった。机上の婚約証書の写しへ視線を落とし、ほんの短い間だけ沈黙する。


「……はい」


 セレネは、答えたあとで一度だけ睫毛を伏せた。


「私は、レヴァンティス王国を舞台にした乙女ゲームを知りません。ただ、乙女ゲームというものがどういうものかは知っています。シオンが知っている筋書きについて、私は答えを持っていません」


 そこで一度、彼女の指先が紙の端から離れた。


「私が見ているのは、今ここにある証言と記録です」


 その言葉は、ルシアンの胸へ静かに落ちた。


 シオンは物語を見ていた。筋書き、役割、攻略対象、犯人。前の人生で知っていた物語の輪郭を、現実に重ねようとしていた。


 セレネは違う。


 彼女は物語を見ていなかった。最初からずっと、人間を見ていた。証言を、記録を、矛盾を、現実の裂け目を見ていた。


 だから、怪異を前にしても怯えなかったのか。


 いや、違う。


 怯えなかったのではない。怯えるより先に、確かめようとしていたのだ。人が何を隠し、何を消し、何を怪異の名で覆い隠そうとしているのかを。


「詳しい話は、あとで聞く」


 ルシアンが言うと、セレネの睫毛がわずかに揺れた。


 フェリクスが何も言わずに目を伏せる。シオンはわずかに口元を動かしたが、茶化すことはしなかった。


 セレネはルシアンを見た。


「……はい」


 短い返事だった。


 ルシアンは、言葉を足した。


「責めるためじゃない」


 セレネの指先が止まる。


「お前の話を聞きたいと思っている」


 その瞬間、セレネの瞳の奥で、ほんのわずかに光が揺れた気がした。涙ではない。安堵とも違う。ただ、張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ息をしたような変化だった。


 シオンが、静かに視線を逸らす。


 フェリクスは机上の資料を指先で寄せた。


「では、使える情報を分けようか。シオンの知識は、壊れた筋書きだ。鵜呑みにするには危険だけど、無視するには条件が重なりすぎている。セレネ嬢の知識は、その物語そのものではなく、形式の理解に近い」


「形式?」


 ルシアンが問うと、フェリクスは頷いた。


「恋物語の形を借りた怪談は、人に自分を当てはめさせやすい。真実の愛、偽りの伴侶、3日目、名前の消失。これらが誰に恐怖を向ける言葉なのかを整理する必要がある」


 セレネは小さく頷いた。


「承知しました」


 会議は、再び事件へ戻った。


 だが、先ほどまでとは空気が違っていた。シオンは差し出された紙に、覚えている名を書き始める。羽根ペンの先が紙を引っ掻く音だけが、しばらく続いた。セレネはその横で、噂の条件を別の紙へ静かに分けていく。


 真実の愛。偽りの伴侶。3日目。名前。


 彼女の筆跡は、こんな時でさえ乱れなかった。


 フェリクスは輪廻の記録と、名前が消える怪異譚を探すと言い、古い冊子を数冊抱えて書架の奥へ向かう。乾いた紙が擦れる音が、研究室に細く残った。


 ルシアンは資料へ目を落としながらも、意識の一部をずっとセレネへ向けていた。彼女は必要な箇所だけを拾い、無駄なく筆を進めている。その姿は見慣れているはずだった。


 だが、今は少し違って見える。


 彼女の中には、自分の知らない国がある。


 夜でも街が明るく、手紙より早く言葉が届き、馬車ではない鉄の箱が走るという、日本という異郷。そこで彼女が何を見て、何を失い、何を抱えてこの世界へ来たのか、ルシアンはまだ何も知らない。


 知らないまま、隣に立っていた。


 そのことに気づくと、胸の奥で息が詰まった。


 やがて、シオンが覚えている名を書き出し終えた頃、研究室の光は少しだけ傾いていた。短い会議ではなかった。だが、本当に聞くべき話はまだ何も聞いていない気がした。


 シオンは立ち上がる時、ルシアンへ視線を向けた。


「……俺が言うのも癪だけど」


「何だ」


「逃がさないであげて」


 ルシアンの目が細くなる。


 シオンは軽く笑った。今度の笑みには、いつもの軽さが少しだけ戻っていた。けれど、そこに滲むものはからかいではなかった。


「セレネは、平気な顔で一人になれるから」


 それだけ言って、シオンは研究室を出て行った。


 フェリクスは奥の書架から戻らない。気を利かせたのか、本当に調べ物へ沈んだのかは分からない。どちらにせよ、ルシアンはそれ以上この場でセレネへ踏み込まなかった。


 研究室を出ると、廊下の空気は少しだけ冷たかった。


 高窓から差す光が、磨かれた床に長く伸びている。セレネはその光の端を踏まないように、静かに歩いていた。いつものように一歩後ろを歩くその距離が、今はひどく遠く感じられる。


「セレネ」


 呼ぶと、彼女は足を止めた。


 黒髪が肩先でわずかに揺れる。振り返った海色の瞳は、やはり落ち着いて見えた。だが、ルシアンにはもう、その落ち着きだけを信じることはできなかった。


「今夜、少し話せるか」


 問いかける声は、思ったより穏やかだった。もっと責めるような声になるかと思った。もっと焦りが滲むかと思った。だが、口から出たのは、ただ彼女を逃がさないための低い声だった。


 セレネはすぐには答えなかった。


 その沈黙を、ルシアンは待った。


 やがて彼女は、ほんの少しだけ目を伏せる。


「……はい」


 それだけの返事を聞いて、ルシアンはようやく息を吐いた。


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