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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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それでも、私は…

 特務隊の仕事を終えて、その足で星見宮へ戻った。


 廊下の灯りは落とされ、窓の外には薄い月が浮かんでいる。遠くで近衛の足音が一度だけ響き、すぐに静けさへ沈んだ。ルシアンはセレネの部屋の前で足を止める。


 昼間、セレネは日本を知っていると認めた。前の人生の記憶があると、静かに頷いた。けれど、その中身については、まだ何も聞いていない。


 扉を叩く前に、ルシアンは一度だけ息を吐いた。責めるために来たわけではない。問い詰めるためでもない。そう分かっているのに、胸の奥は妙に落ち着かなかった。


 軽く扉を叩くと、少し間を置いて、セレネの声がした。


 「どうぞ」


 中へ入ると、部屋には淡い灯りがひとつだけ残されていた。机の上には茶器が用意されている。茶は淹れ直されたばかりなのか、薄い香りがまだ残っていた。隣には閉じられた本が置かれていたが、しおりは最初の方で止まっている。読んでいたというより、ただ手元に置いていただけに見えた。


 セレネは窓辺に立っていた。夜の光を受けた黒髪が、静かに青みを帯びている。昼間と同じように整っていたが、室内着の柔らかな布と、肩にかけた薄い羽織のせいで、いつもより少しだけ近い人間に見えた。


 ルシアンは扉を閉めた。


 「待たせたか」


 「いいえ」


 セレネは首を横に振った。


 「何から話せばよいのか、考えていました」


 その言い方が、いかにも彼女らしかった。泣き言でも、弁解でもない。話す内容を整理し、順番を探していたのだろう。だが、机の端に触れていた指先が、わずかに強張っている。


 「座るか」


 「はい」


 二人は向かい合うように腰を下ろした。茶器の間には、かすかな香りだけが漂っている。ルシアンはそれを急かさなかった。急かせば、セレネは話すだろう。必要なことを、必要なだけ、正確に。だが今夜聞きたいのは、報告ではなかった。


 しばらくして、セレネが口を開いた。


 「私の前の人生は、日本という国にありました」


 ルシアンは黙って頷いた。


 「シオンが話していたように、今のこの国とは違うものが多い場所です。夜でも街が明るく、遠くの人ともすぐに言葉を交わせました。便利で、貧しい国ではなく、自由に生きられる場所だと思っている人も多かったのだと思います」


 そこで、セレネは一度だけ視線を落とした。


 「けれど、私にはあまり自由ではありませんでした」


 その声に、異郷への懐かしさはなかった。


 「両親は、優秀な人たちでした。仕事もできましたし、周囲からの信頼もある方たちだったと思います。生活に困ったことはありません。学ぶ場所も、必要なものも与えられていましたので……」


 そこでセレネは、一度だけ視線を落とした。


 「恵まれていなかった、とは言いにくいのです」


 けれど、と続けるまでの間に、茶器から立つ湯気が細く揺れた。


 「ただ、私に向ける時間は、ほとんどなかったのだと思います。私が何を考えているのか、何が嫌なのか、何が怖いのか。そういうことを、尋ねられた記憶はあまりありません」


 ルシアンの指が、膝の上で静かに曲がる。


 「私は、子どもの頃から少し変わっていると言われていました。表情が乏しい。反応が薄い。何を考えているか分からない。そう言われることが多かったです」


 「今と変わらないな」


 思わず言うと、セレネがわずかに目を上げた。


 ルシアンは、苦く息を吐く。


 「悪い意味じゃない」


 「分かっています」


 その返答は短かったが、少しだけ部屋の空気が緩んだ。だが、次に続く言葉で、また静けさが戻る。


 「子どもの頃から、いつも一緒にいた人がいました。明るくて、可愛らしくて、誰からも好かれる人でした。その人は、私のことを親友だと言ってくれていたんです。その人の隣にいれば、私も少しだけ普通の輪の中にいられる気がしていました」


 ルシアンは黙って聞いた。


 セレネは茶器の縁へ視線を落としたまま、ゆっくりと言葉を選んでいる。


 「その人に頼まれれば、私はできることなら何でもしました。勉強も、作業も、その人が困っていることは、できるだけ手伝いました。親友だと言われていたので、頼られているのだと思っていました。私も、その人にとって必要な人間なのだと」


 そこで、ほんの短い沈黙が落ちた。


 月明かりが窓硝子を通り、彼女の白い頬へ薄く落ちている。その横顔はいつも通り静かで、感情の揺れなどほとんど見えない。だが、茶器のそばに置かれた手が、羽織の端をわずかに掴んでいた。


 「……けれど、それは違いました」


 ルシアンの眉が動く。


 「私が一人になるようにしていたのは、その人でした。周りが私を少し変わっていると見るように、私がその人以外と親しくなりにくいように、少しずつ、そういう空気を作っていたのだと思います」


 「……どういう意味だ」


 声が低くなった。


 セレネは驚かなかった。ただ、睫毛を一度伏せる。


 「私は、あの人の隣に置くには都合がよかったのでしょう。少し変わっていて、目立ちすぎず、けれど勉強や作業はできる。頼めば断らない。そういう相手として、見られていたのだと思います」


 腹の底に、冷たい怒りが溜まっていく。


 相手はもう、この世界のどこにもいない。ルシアンが剣を向けることも、咎めることもできない。それでも、その女がセレネの隣で笑っていたのだと思うと、指先に力が入った。


 「友人でもなんでもない」


 ルシアンの声は低くなっていた。


 「そんなものを、親友とは呼ばない」


 セレネはすぐには答えなかった。少しだけ考えるように、視線を手元へ落とす。


 「……今なら、そう思います」


 当時は、そう思えなかったのだ。


 その言葉にならない部分が、ルシアンには分かった。


 「仕事をするようになってからも、あまり変わりませんでした」


 セレネは続けた。


 「資料や記録を扱う仕事に就きました。今と変わらず、そういうものを見るのは得意でした。書類のずれを見つけたり、言葉の矛盾を拾ったりすることは、苦ではありませんでした」


 そこでセレネは、一度だけ指先を重ね直した。


 「けれど、それも結局は、一緒に働いていた人たちにとって、便利に使えるという意味でしかなかったのだと思います」


 彼女の声は乱れない。


 「断らない人間だと思われていたのでしょう。頼られているのだと、また勘違いしていました。何かを指摘しても、変わっている人間の言うことだからと、軽く扱われることもありました」


 ルシアンは、ようやく分かった気がした。


 セレネがなぜ、記録を疑うのか。証言をそのまま信じず、人の表情の裏を見ようとするのか。怪異より先に人間の手を疑うのか。


 彼女は、ずっと見てきたのだ。


 優しい顔の裏。親しげな言葉の裏。必要とされているように見える関係の、都合のよい使い方を。


 「何を望んでいいのか、分からなくなりました。誰かに何かを求めれば、重いと思われるかもしれない。少し違うだけで、人は離れていく。そう思っていました」


 「だから、何も求めなかったのか」


 セレネは答えなかった。


 その沈黙が、答えだった。


 ルシアンの胸の奥が、静かに軋む。あの夜、彼女は一人でいると落ち着かないと言った。もう少しだけ一緒にいてほしいと、いつもより不器用な言葉で頼んだ。あれが、どれほど彼女にとって珍しいことだったのか、今になって思い知る。


 「こちらへ生まれて」


 セレネの声が、少しだけ低くなる。


 「よかったと思っています」


 ルシアンは息を止めた。


 「この国にも、不自由はあります。貴族社会の決まりも、王宮のしがらみも、危険な事件もあります。それでも、ここでは私の考えを使うことを許されました。記録を見ることも、証言を疑うことも、現場へ行くことも、あなたは止めませんでした」


 そこで彼女は一度、言葉を止めた。


 「……ルシアンは」


 二人きりの部屋で、その名が落ちる。


 「私が考えることを、無駄だと言いませんでした」


 ただそれだけの言葉なのに、ルシアンは胸を掴まれたような気がした。


 セレネは、何か大きなものを求めていたわけではないのだろう。華やかな愛の言葉でも、誰もが羨む贈り物でもない。ただ、自分が見ているものを否定されないこと。考えることを許されること。そこにいていいと扱われること。


 その程度のものすら、前の人生では得られなかったのか。


 「祝宴で、シオンに言われました」


 セレネは、膝の上で重ねていた指先を見下ろした。


 「あなたは、前の記憶がありますね、と」


 ルシアンは、あの夜の舞踏を思い出した。シオンに手を取られたセレネの足運びが、ほんの一瞬だけ乱れたこと。ほとんど誰にも気づかれない程度の小さなずれだったが、ルシアンには妙に引っかかっていた。


 「……あれは、そのせいか」


 「はい」


 短い返事だった。


 「そのあと、二人で話した時に、シオンから聞かれました。ルシアンは知っているのか、と」


 そこで、セレネの睫毛が一度だけ伏せられる。


 「その時初めて、あなたが知らないということが、怖いことなのだと思いました」


 ルシアンは動けなかった。


 「前の記憶があると知れば、あなたが私をどう見るのか分からなかった。変わり者だと思われるだけなら、慣れています。けれど、あなたが離れていくかもしれないと思うと、どうしても言えませんでした」


 セレネは、静かに息を吸った。


 「私は、あなたに知られるのが怖かったのだと思います」


 その言葉で、ルシアンは立ち上がっていた。


 椅子が床を擦る音が、静かな部屋に響く。ルシアンは向かいのソファへ歩み寄った。数歩の距離が、やけに長く感じられた。


 セレネの前で足を止めると、彼女が静かに顔を上げる。逃げる気配はない。ただ、その瞳の奥に、昼間より深い影があった。


 「俺が」


 声が低くなる。


 「その程度で、お前を離すと思っていたのか」


 セレネは答えない。


 怒りはあった。だが、それはセレネへ向かうものではなかった。彼女にそう思わせた過去へ。何かを求める前に諦める癖を植えつけた人間たちへ。そして、今までその深さに気づけなかった自分へ向かっていた。


 「正直、全部を理解できたとは言えない」


 セレネの睫毛がわずかに揺れた。


 「日本のことも、前の人生のことも、俺には想像できないものが多い。お前がそこで何を見て、何を失ったのか、聞いただけで分かったとは言えない」


 ルシアンは、ゆっくり手を伸ばした。


 触れていいか、一瞬迷う。だが、セレネは動かなかった。拒まない沈黙を受け取って、彼は彼女の頬へ指先を添えた。


 「だが、俺が見てきたお前まで変わるわけじゃない」


 その瞬間だった。


 セレネの瞳から、音もなく涙が落ちた。


 泣き崩れたわけではない。声も出さない。ただ一筋、月光を受けた雫が白い頬を滑り、ルシアンの指先に触れた。彼女自身も少し遅れて気づいたように、目を伏せる。


 「……すみません」


 声はほとんど震えていなかった。


 「泣くつもりは、ありませんでした」


 「謝るな」


 ルシアンは短く言った。


 それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。胸の奥が痛い。けれど、その痛みを言葉にすれば、セレネがまた謝りそうで嫌だった。


 だから、ルシアンは彼女の隣に腰を下ろした。


 ソファがわずかに沈む。セレネがほんの少しだけこちらを見る。その距離を確かめてから、ルシアンは彼女を抱き寄せた。


 羽織越しに触れた肩の細さは、もう知らないものではなかった。けれど今夜は、その細さの奥に、彼女が長く隠してきた孤独まで触れてしまった気がした。


 セレネは一瞬だけ息を止め、それからゆっくりと力を抜いた。逃げない。押し返さない。やがて、ルシアンの上着を掴む指が、ほんの少しだけ強くなる。


 「お前は便利だからここにいるんじゃない」


 ルシアンは彼女の髪に頬を寄せるようにして言った。


 「引き立て役でもない。俺が、お前にいてほしい」


 腕の中で、セレネがわずかに身じろぎする。


 「……私は」


 「今は答えなくていい」


 ルシアンは低く遮った。


 「求めていい。言えないなら、袖でも掴め。離れるなと言えないなら、黙って近くにいろ。俺は、それで困ったりしない」


 セレネは何も言わなかった。


 ただ、上着を掴む指が、もう一度だけ強くなった。


 ルシアンはその小さな力に、息を吐いた。胸の奥で燻っていた怒りも、悔しさも、どうしようもない痛みも、すぐには消えない。けれど、今はこの細い指が離れないことの方が大事だった。


 しばらくして、セレネが小さく言った。


 「……もう少しだけ」


 ルシアンは彼女を抱いたまま、耳を傾ける。


 「このままで、いてもよろしいですか」


 答える代わりに、ルシアンは彼女の黒髪へ唇を落とした。


 触れたのは一瞬だった。深い口付けではない。熱を奪うようなものでもない。ただ、そこにいると確かめるための、静かな接触だった。


 「好きなだけいろ」


 そう言うと、腕の中のセレネが、ほんのわずかに息を吐いた。安心したのか、疲れたのか、ルシアンには分からない。ただ、その吐息が彼の胸元に触れた時、彼女がまだここにいることだけは分かった。


 月明かりの薄い部屋で、二人はしばらくそのまま動かなかった。事件も、怪異も、消えた名前も、レヴァンティスの筋書きも、扉の外で静かに息を潜めている。


 今だけは、何も問い詰めなかった。


 ルシアンはただ、セレネが掴んだ上着の皺を見下ろしながら、その指が離れるまで待つつもりでいた。


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