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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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大袈裟に扱われる夜

 セレネが掴んだ上着の皺は、しばらく戻らなかった。


 月明かりの薄い部屋で、ルシアンはセレネを抱いたまま動かなかった。腕の中のセレネは、もう声を漏らしてはいない。けれど、時折吸い込む息がわずかに浅く、泣き止んだあとの名残だけが、静かに胸元へ触れていた。


 セレネは、声もなく泣いた。


 崩れることも、縋ることもなく、ただ静かに涙をこぼした。その静けさが、ルシアンにはかえって痛かった。


 「……もう、大丈夫です」


 腕の中で、セレネが小さく言った。


 その言葉を聞いた瞬間、ルシアンは低く息を吐いた。


 「大丈夫かどうかを、お前がすぐ決めるな」


 セレネがわずかに顔を上げる。泣いたせいで、海色の瞳の縁がほんの少し赤い。本人はおそらく気にしていない。いや、気づいていたとしても、いつものように何もなかったことにするつもりなのだろう。


 ルシアンは腕を緩めた。セレネの指が上着から離れかけ、そこで止まる。ルシアンはその指を見て、胸の奥にまた鈍いものが沈むのを感じた。


 「少し待っていろ」


 「殿下?」


 「ルシアンでいい。今さら戻すな」


 言ってから、自分でも少し乱暴だったと思った。だが、セレネはほんの短く瞬きをしただけで、逆らわなかった。


 「……ルシアン」


 その呼び方だけで、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。ルシアンはそれをごまかすように立ち上がり、洗面台へ向かった。銀の水差しと洗面鉢は、夜の支度を終えたまま置かれている。傍らに畳まれていた清潔な布を取り、水を含ませて軽く絞った。


 侍女を呼べば早い。だが、この時間に人を入れる気にはなれなかった。今夜のセレネを、他人の目に触れさせたくないという感情もあった。


 冷たすぎないよう手の甲で確かめてから戻ると、セレネはソファに座ったまま、膝の上で指を重ねていた。いつもの姿勢だ。背筋は伸び、表情は静かで、まるで先ほどまで泣いていたことなど最初からなかったかのように見える。


 それが、余計に腹立たしかった。


 自分の涙まで、何もなかったことにするな。


 ルシアンはセレネの隣に腰を下ろした。ソファがわずかに沈み、その揺れにセレネがこちらを見る。


 「目を閉じろ」


 「必要ありません。少し赤くなっただけです」


 「閉じろ」


 セレネは一度だけ迷うように沈黙し、それから静かに目を閉じた。ルシアンはセレネの頬に指を添え、ほんの少しだけ顔を上向かせる。長い睫毛が、白い頬へ影を落とした。


 畳んだ布を目元へ当てると、セレネの肩がわずかに揺れる。


 「冷たいか」


 「いえ」


 「なら、そのままにしておけ」


 「……大袈裟です」


 小さな声だった。いつもの平坦な調子に戻ろうとしているのに、どこか少しだけ力がない。


 ルシアンは布を押さえたまま、眉を寄せた。


 「お前は大袈裟に扱われるくらいでちょうどいい」


 セレネは何も言わなかった。


 布の下で、セレネの睫毛が動いた気配だけがある。その沈黙に、ルシアンは少しだけ声を落とした。


 「今まで、雑に扱われすぎたんだろうが」


 それは、責めるための言葉ではなかった。だが口にした途端、胸の奥でまた怒りが燻った。セレネを一人で平気なものとして扱った者たちに対して。そして、今夜までそれを知らずにいた自分に対して。


 「雑に、というほどでは」


 「俺がそう思った」


 ルシアンが短く言うと、セレネはそれ以上反論しなかった。


 しばらく、部屋には水を含んだ布がわずかに衣擦れする音だけが残った。窓の外の月は薄く、遠い。灯りの影が、セレネの黒髪を柔らかく照らしている。泣いた時に伏せていたせいか、その髪は肩のあたりで少し乱れていた。


 ルシアンは布を片手で押さえたまま、もう一方の手で、頬にかかった髪をそっと避けた。指先に黒髪が触れる。絹よりも細く、夜よりも深い色。そのまま少し整えようとした時、指が小さな絡みに引っかかった。


 セレネが、ほんのわずかに眉を動かす。


 ルシアンはすぐに手を止めた。


 「悪い」


 「痛くはありません」


 「そういう問題じゃない」


 ルシアンは髪から指を離し、少し考えてから尋ねた。


 「梳いていいか」


 布の下で、セレネが目を開けようとした気配があった。ルシアンはそれを軽く押さえる。


 「目は閉じたままでいい」


 「……そこまでしていただかなくても」


 「俺が引っかけた」


 「それは、私の髪が乱れていたからです」


 「なら、なおさら俺が直す」


 理屈になっていない自覚はあった。だがセレネはしばらく黙ったあと、ごく小さく頷いた。


 「……はい」


 その返事を受けて、ルシアンは布をセレネ自身の手へ預けた。


 「押さえていろ」


 セレネは素直に布を受け取り、目元に当てたまま動かない。ルシアンは鏡台に置かれていた細い櫛を取った。以前なら、女の髪を梳くなど考えもしなかった。侍女の仕事だ。婚約者とはいえ、男が軽々しく触れるものではない。


 だが今は、不思議とためらいよりも、丁寧に扱いたいという気持ちの方が強かった。


 黒髪を一房すくう。月光を含んだように青く光るその髪へ櫛を入れると、細い歯が静かに通った。絡んでいたところに差しかかると、ルシアンは力を抜き、少しずつ解いた。セレネの肩は最初、硬かった。けれど何度か櫛を通すうちに、ほんの少しだけ力が抜けていく。


 それが分かるほど、近い。


 「自分でできます」


 目元を布で押さえたまま、セレネが小さく言った。


 「知ってる」


 ルシアンは髪を梳きながら答えた。


 「お前が大抵のことを一人でできるのは、知ってる。だから今くらい、俺にやらせろ」


 櫛が、また静かに黒髪を流れる。


 「できることと、やらせることは別だ」


 セレネは黙った。


 セレネは、できることをできると言う女だ。だからこそ、周囲は任せる。頼る。使う。セレネ本人もそれを拒まない。拒まないまま積み重なっていったものが、セレネをどれほど静かに疲弊させたのか、ルシアンは今夜ようやく知った。


 「もう少し、俺に甘えろ」


 言ってから、ルシアンは自分の声が思ったより低くなったことに気づいた。


 セレネは布を押さえたまま動かない。


 「甘える、というのは」


 言いかけて、セレネは止まった。


 ルシアンは小さく息を吐く。


 「分からないなら、今は黙って梳かれていろ」


 それは慰めというより、命令に近かった。けれどセレネは反論しなかった。布の下で、セレネの呼吸が少しだけ深くなった。拒んではいない。ただ、どう受け取ればいいのか分からないまま、それでも逃げずにそこにいるように見えた。


 ルシアンはもう一度、櫛を通した。


 黒髪が整うにつれ、部屋の空気も少しずつ静かに落ち着いていく。灯りの橙と月光の青が、セレネの髪の上で淡く重なっていた。セレネは目元を冷やされ、髪を梳かれ、何もすることを許されずに座っている。その姿は、普段のセレネからすればひどく珍しい。


 だが、悪くない。


 むしろ、もっと早くこうすればよかったと思った。


 調査の時、セレネは誰よりも頼りになる。記録を読み、証言を拾い、怪異の名の裏に隠れた人間の悪意を暴く。だが、それとセレネを休ませないことは同じではない。セレネが強いことと、傷つかないことも同じではない。


 「ルシアン」


 セレネが名を呼んだ。


 「何だ」


 「迷惑では、ありませんか」


 櫛を動かす手が止まった。


 ルシアンは、しばらく答えなかった。怒鳴るほどではない。けれど胸の奥で何かが強く軋む。


 「迷惑なら、こんな時間にここにいない」


 セレネは黙っている。


 「俺がしたいからしている。お前が気にすることじゃない」


 「……そうですか」


 「そうだ」


 ルシアンは再び櫛を動かした。


 最後の絡みが解け、黒髪が肩から背へ滑る。ルシアンはそれを手のひらで軽く整えた。触れすぎないようにと思いながらも、指先は離れがたかった。髪を梳くという行為が、これほど静かで、これほど近いものだとは知らなかった。


 「もういい」


 そう言って櫛を置くと、セレネは布を少しだけ外そうとした。


 「まだだ」


 「もう十分です」


 「俺がまだだと言ってる」


 「……そこまで」


 「言うな」


 先に遮ると、セレネは口を閉じた。外しかけていた布は、そのまま目元へ戻る。


 セレネ自身が気づいているかは分からない。だがセレネは今、ルシアンが差し出したものを拒まなかった。


 それだけで十分だった。


 やがて目元の赤みが少し落ち着いた頃、ルシアンは布を受け取り、机の端へ置いた。セレネの瞳はまだわずかに潤んでいたが、先ほどより呼吸は穏やかになっている。


 「少し休めるか」


 セレネは目元から離れた布の名残を確かめるように、軽く瞬きをした。


 「ここで、ですか」


 「寝台へ行くか、このままソファで休むか。どちらでもいい」


 セレネは少しだけ考えた。膝の上に置いた指が、羽織の端を小さく掴む。


 「……ここで、少しだけ」


 「分かった」


 ルシアンは傍らにあった膝掛けを取り、セレネの肩へかけた。


 「そこまで……」


 「言うな」


 また先に遮ると、セレネは今度こそ何も言わなかった。


 ソファの背にもたれるように体を預けたセレネの動きは、いつもよりゆっくりだった。疲れているのだろう。前世の話をするだけでも相当な負担だったはずだ。そのうえ泣いた。セレネ自身は認めないだろうが、心も身体も消耗していないわけがない。


 ルシアンはセレネの手元へ視線を落とした。


 先ほどまで上着を掴んでいた指が、今は膝掛けの端に触れている。離れまいとするような力はない。けれど、何かを探しているようにも見えた。


 ルシアンは迷わず、その手を取った。


 セレネの瞳が、わずかに上がる。


 「眠るまでだ」


 「……はい」


 手袋越しではない、細い指の感触が掌に収まる。冷たい。ルシアンは眉を寄せ、包むように握り直した。


 「冷えてる」


 「そうでしょうか」


 「そうだ。自分のことにも気づけ」


 「努力します」


 その返答があまりにもセレネらしくて、ルシアンは少しだけ息を吐いた。努力するものなのか、それは。そう言いかけて、やめる。今夜は言い争うためにここにいるのではない。


 セレネは目を閉じた。


 月明かりと灯りの間で、セレネの睫毛が頬に影を落とす。整えたばかりの黒髪は乱れず、膝掛けの上で静かに流れていた。目元を冷やしたせいか、先ほどより表情は穏やかに見える。


 ルシアンはその横顔を見ながら、胸の奥で静かに決めた。


 もう、平気な顔で一人にさせない。


 セレネが自分で大丈夫だと言っても、その言葉だけを信じない。涙をなかったことにさせない。眠れない夜を、一人で処理させない。求めていいと分からないなら、分かるまで何度でも手を伸ばす。


 どれだけ大袈裟だと言われても。


 「ルシアン」


 目を閉じたまま、セレネが呼んだ。


 「どうした」


 ルシアンは握った手に、ほんの少しだけ力を込める。


 「いるぞ」


 「……はい」


 返事は、それだけだった。


 しばらくして、セレネの呼吸が少しずつ深くなる。完全に眠ったのかどうかは分からない。だが、手の中の指が力を抜き、それでも離れずに残っている。


 やがて、眠りに沈みかけたセレネの指が、ほんのわずかに握り返してきた。意識しているのか、無意識なのかも分からないほど小さな力だった。


 ルシアンはその小さな力を、逃がさないように包み込む。


 「それでいい」


 眠りかけたセレネにだけ届く声で、そう呟いた。


 今夜は、それだけで十分だった。

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