三日目の前に
目を覚ました時、窓の外はまだ薄く白み始めたばかりだった。夜明け前の王宮は不思議なほど静かで、遠くを巡回する近衛の靴音だけが、時折石廊下へ乾いた反響を落としている。昨夜消しきれなかった卓上灯の淡い灯りが、ソファ脇へ長い影を残し、閉じられたレースの向こうでは、夜の名残を含んだ空がゆっくりと色を失い始めていた。
ルシアンは浅く息を吐き、肩へ預かったままの重みへ視線を落とす。セレネが眠っている。黒髪が肩口へ静かに流れ、長い睫毛が頬へ淡い影を落としていた。昨夜泣いた痕はまだわずかに残っていたが、張り詰めていた空気は少しだけ柔らかい。呼吸は深く穏やかで、昨夜まで小さく強張っていた肩の力も抜けている。
目元へ当てた布の冷たさや、黒髪へ櫛を通した感触がまだ指先に残っていた。呼吸が落ち着くまで隣にいるつもりだったのに、結局そのまま夜明けまで席を立てなかったらしい。
ソファへ身体を預けたままの姿勢はさすがに肩が重い。もっとも、不快ではなかった。昨夜は、セレネを一人にしたくなかったのだ。泣いたあとで「大丈夫です」と言われても、そのまま部屋を出る気にはなれなかった。だが本来なら途中で寝台へ運ぶべきだったのだろう。疲れていたはずなのに、結局こんな場所で眠らせてしまったことへ、ルシアンは内心で小さく舌打ちした。
それでも、肩へ寄りかかったまま眠る穏やかな寝息を聞いていると、自分を責める言葉も長くは続かなかった。
ふと、握ったままだった手がわずかに動く。細い指先が、小さくこちらへ力を返した。眠りが浅くなったのだろう。ルシアンは反射的にその手を包み直す。
「……起きたか」
低く落とした声に、セレネの睫毛がゆっくり震えた。深い海色の瞳が、まだ眠気を残したまま静かに開かれる。数秒、自分がどこへ寄りかかっているのか理解していなかったらしい。視線がゆっくり動き、それからようやく、ルシアンの肩へ額を預けたまま眠っていたことへ気づく。
わずかに目が見開かれた。
「……申し訳ありません」
起き抜けの声で、彼女は真っ先にそう言った。
ルシアンは半ば呆れたように息を吐く。
「何でお前が謝る」
「ルシアンを、こんな場所で眠らせてしまいました」
「眠ったのは俺の勝手だ」
むしろ問題があるなら、自分の方だ。昨夜は途中で自室へ戻るつもりだった。それなのに、セレネの呼吸が落ち着くまで隣にいたくて、そのまま自分まで眠るなど我ながらどうかしている。
だがセレネはそんな内心を知らないまま、小さく視線を伏せた。
その目元を見る。昨夜ほど赤くはない。
「……少しは眠れたか」
問いかけると、セレネは数秒黙っていた。それから、小さく頷く。
「……久しぶりに、よく眠れました」
小さな声と一緒に落ちた息は、昨夜までよりずっと柔らかかった。張り詰めていた糸が少しだけ解けたみたいに見えて、ルシアンはようやく胸の奥の力を抜く。
窓の外は、もう完全に朝へ近づいていた。薄青い光がレース越しに差し込み、卓上灯の灯りを少しずつ薄めていく。さすがに、このまま部屋へ居座るわけにもいかない。昨夜はセレネを一人にしたくなくて残ったが、本来なら、とっくに自室へ戻る時間だった。侍女たちが動き始める前に出なければ、余計な噂にもなる。
ルシアンは小さく息を吐く。
「……俺は一度戻る」
そう告げると、セレネが静かに顔を上げた。その海色の瞳がほんのわずかに揺れ、言葉にならない沈黙だけが二人の間に落ちる。それだけで、ルシアンは危うく戻れなくなりそうになった。
セレネは何か言いかけ、結局言葉にはしなかった。その代わり、立ち上がろうとしたルシアンの袖へ、細い指先がほんの少しだけ触れる。
無意識だったのかもしれない。本人も触れてから気づいたらしく、すぐに離そうとした。
だが、その前にルシアンは袖を掴んだままの細い手へ、自分の手をそっと重ねた。
「……セレネ」
名前を呼ぶと、長い睫毛がわずかに揺れる。昨夜までなら、こんな風に引き止めるような仕草はしなかった。その変化が嬉しいと思った瞬間、自分でも驚くほど簡単に理性が揺らいだ。このまま戻るのをやめて、もう一度抱き寄せたくなる。髪へ触れたい。まだ少し眠気の残る声で、自分の名を呼ばれたい。
朝から随分と余裕がない。昨夜泣いた相手へ向ける感情としては、あまり健全とも言えなかった。
ルシアンは誤魔化すように息を吐き、それでも手を離さないままセレネを見下ろす。
「……お忙しいのではありませんか」
遠回しに戻れと言っているのだろう。だが、袖へ触れていた指先はまだ完全には離れていない。
ルシアンは危うく笑いそうになる。
「忙しいな」
「では」
「だから戻る」
低く返しながら、重ねた手の下で小さく震えた指先へ親指を滑らせる。セレネの呼吸がほんの少しだけ乱れた。
「朝食後、兄上たちと合流する。お前も来い」
セレネは小さく頷く。
ルシアンはそこでようやく手を離した。離れた瞬間、妙に名残惜しい。だが今は仕事へ戻らなければならない。立ち上がったあと、乱れた上着の皺を軽く整える。先ほどまで肩へ触れていた黒髪の感触がまだ残っている気がして、胸の奥に昨夜の静かな熱が蘇りかけた。
そのまま部屋を出るつもりだった。
だが、扉へ向けた足が止まる。
理由は自分でもよく分からなかった。ただ、朝の淡い光の中でこちらを見ている海色の瞳を残したまま、このまま部屋を出る気になれなかった。黒髪は夜の名残を溶かしたみたいに静かに青く透けている。いつもなら月に似て冷たく見えるその色が、今朝だけは触れれば壊れそうなほど柔らかかった。
ルシアンは数秒だけ黙り込み、それから諦めたようにセレネの傍へ戻る。
「……ルシアン?」
二人きりの部屋で、その名を呼ばれる。
それだけで、胸の奥がひどく揺れた。
答える代わりに、ルシアンはそっと黒髪へ触れた。指先で一房を掬い、朝の光を含んだ髪へ静かに口づけを落とす。羽に触れるような、短い口づけだった。
セレネの呼吸がわずかに止まる。長い睫毛が小さく震え、膝の上に置かれていた指先へ、ほんの少しだけ力が入った。だが逃げなかった。拒まなかった。ただ、どう受け取ればいいのか分からないまま、それでもそこにいるように、静かにルシアンを見上げていた。
離した直後、もう一度触れたくなる衝動をどうにか飲み込み、ルシアンは浅く息を吐く。
「行ってくる」
今度こそ部屋を後にした。
廊下へ出た瞬間、王宮の冷えた空気が肌へ触れた。星見宮の静けさはまだ夜の余韻を残していたが、私室の扉が背後で閉まると、先ほどまで指先へ残っていた体温が急速に遠ざかっていく気がした。遠くでは侍女たちの足音が少しずつ増え始めている。朝が来る。王宮が動き出す。その当たり前の気配が、昨夜から続いていた柔らかな時間を容赦なく終わらせていった。
そして、自室前にはすでにクライヴが立っていた。
ルシアンの姿を認めた瞬間、クライヴの視線が一度だけこちらの上着へ落ちる。すぐに何事もなかったよう表情を戻したが、その僅かな間で大体察したらしい。
ルシアンは無言で眉を寄せる。
やましいことは何もない。だが、夜明けにセレネの部屋から出てきたというだけで、余計な説明をしたくなる程度には気恥ずかしかった。
「何か言いたそうだな」
低く睨むと、クライヴは即座に首を振った。
「いえ。何も」
その返答が逆に怪しい。
だが、クライヴの表情はすぐに硬くなった。からかう気配は一切ない。むしろ、いつも以上に張り詰めている。その顔を見た瞬間、胸の奥に残っていた穏やかな熱が、一気に現実へ引き戻された。
「どうした」
低く問うと、クライヴは周囲を確認してから声を落とした。
「第二被害者のバルト・エルグランの記録に異常が出ました」
その一言だけで、空気が変わる。
アルヴェリアで起き始めた事件は、昨夜の穏やかな時間を簡単に押し流すほど冷えていた。首のない死体が見つかり、婚約の記憶だけが周囲から薄れていく。証書には空白が残り、三日目には、残された婚約者が死ぬ。
それ以上を思い返す必要はなかった。
もし筋書きが本当に続いているなら、今日の日没までに見つけなければならない。
バルト・エルグランの婚約者を。




