空白の婚約者
星見宮の回廊は、朝の淡い光に静かに染まっていた。高窓から差し込む薄青い陽光が白い石床を冷やし、夜の名残を少しずつ押し流していく。遠くでは侍女たちの足音が重なり始め、王宮はいつも通りの日常へ戻ろうとしていた。だが、隣を歩くクライヴの歩幅は、いつもよりわずかに速い。ルシアンはその乱れを聞き取り、自然と眉を寄せた。
「それで」
短く促すと、クライヴは周囲を確認してから声を落とした。
「第二被害者、バルト・エルグランの件です。婚約関係の記録が、崩れ始めています」
昨夜まで存在していた婚約者名が、今朝確認すると空白になっていたという。
婚約者がいたことだけは分かる。だが、誰だったのか、その女がどの家の者で、どのような経緯でバルトと結びついていたのか、その輪郭だけが霧へ沈んだみたいに曖昧になる。記録を見た者ほど、奇妙なほど思い出せない。
「……もう時間がないな」
低く零すと、クライヴは否定しなかった。
首なし死体が見つかってから、すでに3日目へ入っている。
嫌な沈黙が落ちた、その時だった。
「朝から随分険しい顔してる」
前方から軽い声が飛ぶ。
見上げた先、回廊の奥から赤銅色の髪を朝日に淡く光らせた男が歩いてきた。いつものように柔らかな笑みを浮かべている。だが、翠の瞳だけは妙に張り詰めていて、朝の気紛れで登城したわけではないことが分かった。
シオン・アステリオス。
ルシアンの視界が、わずかに冷えた。
朝から面倒な男に会った、というだけではない。この男はセレネを昔から名前で呼ぶ。呼吸をするみたいに距離を詰め、女の手を取ることに躊躇がない。そういう男だと分かっているだけで、胸の奥に硬いものが沈む。
「……何でお前がいる」
「依頼した側としては、さすがに気になるよ」
軽く返しながらも、シオンの視線はすぐクライヴへ向いた。
「異常、出たんでしょ」
クライヴが小さく頷いた瞬間、シオンの笑みがわずかに薄れた。
「やっぱり始まったか……」
低く零れた声に、ルシアンは視線を細める。
「何を知ってる」
シオンは数秒だけ黙った。回廊の窓から差し込む朝日が、翠の瞳へ細い影を落とす。いつもなら軽口で誤魔化す男が、珍しく視線を逸らさなかった。
「……執務室で話す」
その声だけで、冗談では済まない内容だと分かる。
3人はそのまま特務隊執務室へ向かった。
朝の執務室は、すでに張り詰めていた。机上へ積まれた書類、慌ただしく動く隊員たち、低く交わされる報告。その中心でクライヴが1枚の記録を机上へ広げる。
視線を落とした瞬間、ルシアンはわずかに息を止めた。
婚約者名が記されるはずの場所だけが、不自然なほど白く空いている。
削った跡も、塗り潰した痕跡もない。ただ最初から、その場所へ名前など存在しなかったみたいに、そこだけぽっかり抜け落ちていた。
「昨夜は記載があったんだな」
「はい。確認しています」
「名前は」
その瞬間、クライヴの眉がわずかに寄った。
「……昨夜、確かに確認しました」
一度言葉を切る。
「ですが、輪郭だけ抜け落ちたように思い出せません」
執務室へ沈黙が落ちた。
クライヴは記録違いを起こす男ではない。まして、一度確認した名前を忘れるような人間でもなかった。だからこそ気味が悪い。
確かに誰かがいたはずなのに、その輪郭だけが綺麗に抜け落ちている。
「クライヴ。追加確認を進めろ」
「はい」
クライヴは追加資料を抱え、隊員たちへ短く指示を飛ばしながら執務室の奥へ消えていく。
その背を見送った直後、執務室の扉が静かに叩かれた。
入ってきた黒髪を見た瞬間、張り詰めていた空気へわずかに温度が戻る。
セレネだった。
朝の淡い光を吸った深緑がかった灰色のアンサンブルが静かに揺れる。白いレースを重ねた立ち襟のブラウスに、動きやすさを優先した落ち着いた色合いの上着。華美ではない。だが、黒髪と海色の瞳を不思議なほど静かに際立たせていた。
昨夜より顔色は戻っている。
それでも、目元へ残るわずかな赤みを見つけた瞬間、胸につかえていた硬いものが少しだけ下りた。無意識に肩の力が抜ける。彼女が大丈夫と言ったから大丈夫なのだと、もう簡単には思わない。けれど、自分の目で確かめられる距離に彼女がいることだけで、呼吸がほんの少し楽になる。
「お待たせしました、殿下」
その声が落ちた直後。
「セレネ」
シオンがいつもの調子で近づいた。
嫌な予感しかしない。
案の定、シオンは自然な動作でセレネの手を取り、その甲へ軽く唇を落とす。
「昨日より顔色が良くて安心した」
女慣れした男の、呼吸みたいに滑らかな所作だった。
ルシアンの眉間へ勝手に皺が寄る。
だがセレネは一瞬だけ視線を伏せ、それから静かに手を引いた。
拒絶するほどではない。
けれど、歓迎もしていない。
そのまま迷いなくルシアンの隣へ立つ。
肩が触れるほどではない。だが、以前のセレネなら選ばなかった距離だった。誰に促されたわけでもない。誰の視線を気にしたわけでもない。ただ自分の意思で、彼の隣を選んだ。
胸の奥へ、静かな熱が落ちた。
一瞬だけ、シオンの翠の瞳が細められる。
「……へぇ」
意味深に笑うシオンを無言で睨み返したが、本人は楽しそうに肩を竦めるだけだった。
だが、すぐにその笑みが薄れる。
「……ふざけてる場合じゃないか」
シオンは机へ寄りかかり、小さく息を吐いた。執務室の奥では、クライヴが別の隊員に指示を出している。こちらの声までは届かない距離だ。シオンはそれを確認してから、声を低めた。
「ゲームでも同じだった」
その言葉が落ちた瞬間、ルシアンの胸の奥がわずかに冷えた。
前世。日本。乙女ゲーム。攻略対象。
知ってはいる。セレネの口から聞き、シオンの言葉でも繋げた。荒唐無稽だと切り捨てるには、あまりにも現実と噛み合いすぎていた。だが、理解したわけではない。この国のどの記録にもない言葉が、今こうして目の前の事件を動かしている。その感覚は、冷たい水へ指先を沈めるのに似ていた。
しかも、その言葉を自然に共有できるのは、セレネとシオンだけだ。
ルシアンはその事実を飲み込み、表情を動かさなかった。
「続けろ」
シオンは、わずかに目を伏せた。
「婚約者の名前と関係だけが消える。でも、全部が消えるわけじゃない」
「何が残る」
「贈り物の記録」
指先で机上の紙を軽く叩く。
「ゲームでも、そこから婚約者を探してた。名前は消えても、何を買ったか、どこで買ったか、どこへ届けたかは消えない。婚約関係そのものは抜け落ちても、物の動きまでは完全に消えないんだ」
セレネの海色の瞳が静かに細められる。
「流通記録、ということですか」
「そう。贈答品そのものは残る。だから、店の帳簿、支払い、届け先を辿れば、相手へ行き着ける可能性がある」
ルシアンは小さく息を吐いた。
正直、気に入らない。
シオンの言うゲームの知識へ頼るみたいで。
だが、今は気に入るかどうかを選んでいる時間ではない。この異常が本当に3日目に女を殺すなら、使えるものは何でも使うべきだった。
ルシアンはすぐ執務室の奥へ声を飛ばす。
「クライヴ。バルト名義の流通記録を洗え。贈答品、支払い、届け先、店の帳簿まで全部だ」
奥で資料を繰っていたクライヴが顔を上げる。
「承知しました」
それだけ答えると、クライヴは隊員たちへ短く指示を出し、記録庫側へ向かった。
執務室へ紙を繰る音だけが広がる。窓の外では朝の鐘が鳴り始めていた。王宮が完全に目を覚ます音だったが、この部屋だけは、夜の続きを引きずっているみたいに空気が重い。
セレネは黙って机上の空白を見ていた。
その横顔は静かだった。だが、指先が書類の端へ触れるまでに、ほんのわずか間がある。ルシアンはそれを見逃さない。彼女は恐怖を顔には出さない。けれど、この事件が何を奪うのか、誰より冷静に見ている。
婚約者の名が消える。
関係だけが抜け落ちる。
誰かと誰かが結ばれていた事実だけが、紙の上から削られるのではなく、人の記憶からも薄れていく。
ルシアンは、隣に立つセレネの気配を意識した。彼女が自分の隣を選んだばかりだからこそ、その異常が妙に腹立たしかった。誰かが誰かを選んだ事実を奪うなど、許されるはずがない。
しばらくして、クライヴが追加資料を抱えて戻ってきた。
「殿下。流通記録を確認しました」
机へ広げられた紙を見た瞬間、ルシアンは思わず眉間を押さえた。
酒場の女、踊り子、令嬢、愛人候補。バルト・エルグラン名義の贈答先だけで20件以上ある。薄い紙の上には、香油、絹の手袋、髪飾り、宝石を留めたリボン、甘い果実酒、夜会用の靴、花束、首飾りといった文字が並んでいた。どれも女の気を引くために選ばれたものばかりで、紙面から香水と酒の匂いが立ちのぼってくるようだった。
「……最悪だな」
女関係が派手とは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。
本当に婚約していた相手を、この中から探さなければならない。
しかも、時間はほとんど残っていない。
シオンが資料へ視線を落とし、珍しく茶化さずに息を吐いた。
「これだけばら撒いてたなら、恨まれても仕方ないね」
「殺されても仕方ない理由にはならない」
「分かってるよ」
シオンの返答は軽くなかった。
クライヴは1枚の紙を差し出した。
「ですが、一件だけ共通点があります」
「何だ」
「届け先です」
紙面を指し示す。
「複数の女性へ贈られていますが、その中で同じ夜会名が繰り返し記録されています」
ルシアンは紙へ目を落とした。
薔薇の夜会。
その名を見た瞬間、執務室の空気がわずかに沈んだ。
クライヴが言葉を止める。近くにいた隊員の視線が一瞬だけ逸れた。誰かが知らない名ではない。むしろ逆だった。知っている。だが、王宮の廊下で堂々と口にするものではない。そういう沈黙が、机の上に落ちた紙を囲んでいた。
「……王宮正式記録には存在しない夜会です」
クライヴが声を低めた。
存在しない。
だが、皆が知っている。
貴族たちが欲望を隠して集まる、深夜の社交場だった。




