青薔薇
薔薇の夜会。
その名が執務室へ落ちたあと、空気は目に見えない泥みたいに重く沈んでいた。
クライヴが机上へ資料を並べる横で、若い隊員がわずかに視線を逸らす。知らない名ではない。むしろ逆だった。王都の貴族なら、一度は耳にしたことがある。だが、公の場で口にするにはあまりにも後ろ暗い。王宮もまた、その存在を知らないふりで腐らせ続けてきた。
「正式な招待状は存在しません」
クライヴが低く言う。
「紹介制です。場所も毎回変わる。王宮側も把握はしていますが、公式記録には残されていない」
「残せない、の間違いじゃない?」
シオンが壁へ寄りかかりながら肩を竦めた。
「裏取引、愛人探し、秘密の縁談、脅迫材料の売買。昼間は優雅な顔してる貴族ほど、夜になると面白いくらい本音を出すからね」
軽い口調だった。だが翠の瞳だけは笑っていない。
ルシアンは小さく舌打ちした。
仮面で顔を隠し、名前も立場も曖昧にしたまま欲望をぶつけ合う場所など、好きになれるはずがない。
「薔薇の夜会と呼ばれる理由は、その規則にあります」
クライヴが資料の一角を指差した。
「参加者は必ず薔薇を身につける。造花でも刺繍でも構いませんが、色によって意思表示が変わります。赤薔薇なら相手を求める。青薔薇なら求めない」
「女側も同じだよ」
シオンが続ける。
「赤なら誘い歓迎。青ならお断り。でも青薔薇で来る人間は少ない。せっかく顔を隠して遊びに来るのに、最初から拒絶する意味ないからね」
「女性側の条件は」
セレネが静かに問う。
クライヴがわずかに言葉を選ぶ。
「……肌を隠しすぎると入れません。肩、背中、デコルテ。どこかは開ける必要があります。夜会側の規定です」
短い沈黙が落ちた。
近くにいた隊員が気まずそうに視線を下げる。誰もセレネを見ない。見られない。ルシアンは数秒遅れて息を吐き出した。
くだらない。
本気でそう思う。
だが、バルトの贈答記録へ何度も現れていた以上、婚約者候補を探すには潜るしかない。
「行く必要があります」
セレネが静かに言った。
海色の瞳は揺れない。ただ必要だから進む。その顔を見るたび、止めろと言えなくなる。
嫌だと思う。
こんな場所へ入れたくない。
他の男の視線へ晒したくない。
なのに彼女自身が止まらない以上、自分だけ安全な場所へ置いていくこともできなかった。
「……分かった」
低く吐き出す。
「クライヴ、場所を押さえろ。今夜潜る」
「はい」
「案内役は俺がやる」
シオンが軽く言った。
「慣れてるからね、ああいう場所」
その言葉が妙に癪へ障る。だが裏社交へ詳しいのは事実だった。
執務室が再び慌ただしく動き始める。紙を繰る音、報告、足音。窓の外では昼の光が白く広がっていたが、この部屋だけはもう夜の匂いを引きずっていた。
その中で、ルシアンはしばらく黙っていた。
誰かとの婚約関係が消える。
名前ではなく、結びつきだけが抜け落ちる。
そんな異常が起きている今、仮面を被って関係を曖昧にする夜会へ潜ることに、言いようのない嫌悪感があった。
ルシアンは小さく息を吐き、ようやく口を開く。
「……セレネ、来い」
それだけ告げて執務室を出た。
セレネは何も聞かなかった。星見宮へ戻る理由も、ルシアンが妙に黙っている理由も。そのまま静かに歩幅を合わせてくる。
昼の光が差し込む回廊を、2人で並んで歩く。侍女たちが頭を下げ、遠くでは庭師が枝を整えていた。王宮はいつも通りだった。だがルシアンの胸の内だけが落ち着かない。
薔薇の夜会という名、仮面で隠された顔、酒に濁った呼吸、そして布越しに肌を値踏みするような視線。そのすべてが、今夜セレネを連れて行かなければならない場所の輪郭として、胸の奥へ重く沈んでいった。
星見宮へ入った瞬間、ようやく少しだけ呼吸が楽になる。他人の目がない。ただそれだけで空気が変わる。
ルシアンは上着を脱ぎながら奥の収納棚へ向かい、しばらく無言で探したあと、黒布へ包まれた細長い箱を取り出した。
机上へ置く。
セレネは静かにそれを見ていた。
「開けても?」
「ああ」
白い指先が布を解く。
現れたのは、赤と黒を基調にしたドレスだった。
夜を溶かしたみたいな黒布へ、深い赤が静かに差し込んでいる。灯りの下では赤が濃く沈み、歩けば黒の奥からゆっくり滲むように色が浮かぶ。背中は大きく開き、肩から腰へ落ちる線が細く整えられていた。裾へ施された銀糸の蔓薔薇は光を受けるたび鈍く揺れ、薔薇の夜会という場所へ相応しい美しさと、どこか危うい色気を同時に宿している。
セレネはすぐには口を開かなかった。
白い指先が静かに布地を撫でる。柔らかな絹が指先を滑るたび、赤が微かに色を変えた。
「……最近急いで仕立てたものではありませんね」
海色の瞳が静かに上がる。
「前から、用意していたんですか」
ルシアンは少しだけ視線を逸らした。
「……一応な」
本当は別の夜会で渡すつもりだった。
もっと穏やかな灯りの下で。こんな、仮面を被った連中が欲望を垂れ流す場所へ着せるためではない。
セレネは何も追及しなかった。ただ静かに布を撫で、それから小さく目を伏せる。
「綺麗です」
その声が、妙に胸へ落ちた。
ルシアンはそれ以上何も言えず、短く息を吐く。
「支度しろ。侍女は呼んである」
「はい」
そこから夜までは、思っていたより長かった。
西日が窓へ差し込み、やがて赤く沈み、星見宮へ灯りがともる。侍女たちが静かに行き交い、髪を結う音、衣擦れ、香油の甘い匂いが薄く漂う。
ルシアンは別室で支度を整えながら、何度も時計へ視線を向けていた。
黒を基調にした礼装へ、深い赤が静かに差し込まれている。上着の縁へ施された銀糸はセレネのドレス裾と同じ蔓薔薇で、留め具へ使われた暗銀の装飾まで揃えられていた。並べば嫌でも分かる。最初から対になるよう誂えられた衣装だった。
馬鹿みたいだと自分でも思う。
それでも、彼女の隣へ並ぶ姿を想像しながら選んだ。
落ち着かない。
まだかと思うたび、自分で自分へ呆れる。だが今さら否定もできなかった。
セレネが綺麗なのは知っている。
知っているのに、今夜はそれを他人へ見せなければならない。
ようやく侍女たちが退出し、扉が静かに閉じられる。
「ルシアン」
柔らかな声に振り返った瞬間、ルシアンは言葉を失った。
赤黒のドレスを纏ったセレネが、灯りの中へ立っていた。
黒髪が背へ流れ、白い肌が淡く浮かぶ。深い赤が揺れるたび海色の瞳が静かに際立ち、腰から裾へ落ちる黒布が夜の影みたいに広がっている。
そして、その色はルシアン自身が選んだ色だった。
黒髪へ映えるように。
海色の瞳が沈まないように。
白い肌が最も綺麗に見えるように。
そう考えて選んだ色を、彼女が今、自分のために纏っている。
だから目を逸らせなかった。
セレネの視線がルシアンの礼装へ落ち、それから自分の袖口を見る。銀糸の蔓薔薇、赤と黒の色味、暗銀の留め具。同じ意匠で揃えられていることへ気づいたのだろう。
何も言わない。
だがその沈黙が、妙にルシアンを落ち着かなくさせた。
「……似合いますか」
静かな問いだった。
ルシアンは数秒遅れて息を吐く。
「似合いすぎてる」
思ったより低い声が出た。
セレネがわずかに目を細める。
その顔を見た瞬間、胸の奥が熱を持つ。
ルシアンは引き寄せられるみたいに近づいた。
あと数歩。
触れられる距離。
セレネは避けない。
長い黒髪を指先でそっと横へ流す。露わになった白い背中へ視線が落ちる。細い肩。呼吸に合わせてわずかに動く肌。綺麗だと思う。見せたくないと思う。なのに、自分の目だけは逸らせなかった。
気づけば、唇がその背中へ触れていた。
小さく息を呑む気配。
だがセレネは逃げない。
肩がわずかに震え、白い指先がドレス布を静かに握る。
薄く触れるだけの口づけなのに、妙に熱かった。
「……ルシアン」
低く名前を呼ばれる。
ルシアンは背中へ額を寄せたまま、小さく息を吐く。
「……本当は、こんな場所へ行くために渡したかったわけじゃない」
それが本音だった。
セレネはすぐには答えなかった。ただ静かに呼吸を乱し、そのまま距離を取らない。長い沈黙のあと、ようやくゆっくり振り返る。
海色の瞳が真っ直ぐこちらを見る。
以前みたいな遠さは、もうない。
「……ありがとうございます」
柔らかな声だった。
ルシアンは返事の代わりに小さく息を吐き、机上へ置いていた黒布を手に取る。
「これを羽織れ」
今度は肩へ静かに掛けた。
「露出が多い」
「夜会側の条件でしょう」
「最低限でいい」
自分でも理不尽だと思う。だが他の男の視線を想像するだけで腹が立った。
セレネは小さく目を細め、そのまま肩へ掛けられた布へ触れる。まるで先ほどの口づけごと包み隠すみたいだった。
ルシアンは小箱を開き、中から深い青の薔薇飾りを取り出した。相手を求めない印。だが今の自分たちがそれを身につければ、他はいらないという意味にしかならない。
ルシアンはセレネの肩口へ青薔薇を留める。指先が布越しに触れても、セレネは逃げない。静かに視線を上げ、それから今度は自分の手で、ルシアンの襟元へ青薔薇を留め返した。
互いの胸元へ揃った青が、灯りの下で静かに揺れる。
仮面を手に取り、2人は並んで星見宮を出た。
夜の王都は穏やかな顔をしている。石畳へ馬車の車輪が静かに響き、窓の外では無数の灯りが夜霧の向こうで揺れていた。
だが今から向かう場所には、仮面の奥へ欲望を隠した人間たちが集まっている。
揺れる馬車の窓へ、青薔薇が静かに映っていた。




