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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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仮面の奥

 夜の王都は、昼間より静かだった。


 馬車の車輪が濡れた石畳を低く鳴らし、窓の外では街灯の光が夜霧の中へ滲んでいる。揺れる灯りが硝子窓を流れるたび、隣へ座るセレネの横顔へ淡い光が差した。


 肩へ掛けた黒布の下から、赤と黒のドレスがわずかに覗いている。胸元には青薔薇。


 向かい側では、シオンが赤薔薇を指先で弄んでいた。その色は、腹立たしいほどこの場所へ馴染みそうだった。


「……そんな怖い顔しなくても、ちゃんと仕事するよ」


 軽く笑いながら言うシオンへ、ルシアンは短く息を吐く。


「お前が楽しそうなのが気に入らないだけだ」


「誤解だなぁ」


 シオンは肩を竦める。


 赤薔薇と青薔薇。


 胸元へ揺れる色だけで、この夜会では意味が変わる。


 馬車がゆっくり止まった。


 扉が開くと、冷えた夜気が頬を撫でる。湿った土と花の匂いが薄く漂い、庭園奥では噴水の水面が灯りを揺らしていた。その向こう、半ば開いた屋敷の扉から、遅い旋律が夜へ滲み出している。


 正面玄関ではなく、裏庭から客を入れているらしい。


 仮面をつけた男女が噴水脇を歩き、誰も本名を呼ばない。互いを薔薇の色で呼び、笑いながら擦れ違っていく。顔を隠しているくせに距離だけが妙に近かった。


 入口へ近づいた瞬間、給仕の視線がセレネの肩へ掛けられた黒布へ止まる。


「申し訳ございません。夜会の規則上、お預かりしております」


 丁寧な口調だった。


 だが、拒否を許さない響きでもある。


 ルシアンの眉間へ皺が寄った。


「……規則?」


「肌を隠しすぎる装いは禁止されておりますので」


 胸の奥が冷たく苛立つ。


 こういう場所だとは分かっていた。だが実際に言葉へされると、不快感は別だった。


 セレネは静かに黒布へ触れる。


「ルシアン」


 落ち着いた声だった。


 任務だ。


 分かっている。


 それでも、指先だけが妙に離れがたかった。


 ルシアンは数秒遅れて黒布を受け取り、給仕へ押しつけるように渡す。


 露わになった白い肩へ、周囲の視線が一斉に集まった。


 その瞬間、ルシアンは無言のままセレネの腰を引き寄せる。細い身体が自然にこちらへ寄った。黒手袋越しに伝わる体温が、妙に熱い。


「……見られています」


 セレネが小さく呟く。


「放っておけ」


 低く返し、そのまま背へ手を添えたまま歩き出す。


 入口で仮面と薔薇を確認され、3人は屋敷の中へ通された。


 会場内は、外よりずっと空気が濃い。


 甘い香水。琥珀色の酒。熱を持った灯り。人の体温。遅い三拍子の旋律が、水面みたいに何度も同じ音を揺らしている。


 普通の夜会より、露出は明らかに多かった。肩を大胆に晒したもの、背中を大きく開いたもの、薄布越しに肌を透かせるもの。灯りへ照らされた肌へ、男たちの視線が粘つくように絡みついている。


 半面仮面で目元だけを隠した女が、知らない男へ笑いかける。その唇は笑っているのに、隠れた目元の感情は分からない。


 年嵩の男が若い令嬢の腰を抱いて笑っていた。その少し離れた場所では、彼と同じ家紋を扇へ入れた女が、別の男へ寄り添っている。互いに気づいていないふりをしたまま。


 婚約印らしい指輪を外し、鎖へ通して首元へ隠している女もいた。


 名前も関係も曖昧にして、今夜だけを楽しむ場所。


 その空気が妙に気味悪い。


 会場へ入った瞬間から、青薔薇の2人へ視線が集まり始めていた。


 赤薔薇ばかりが揺れる中、青は異様なほど目立つ。しかもルシアンとセレネは、仮面をつけていても距離が近い。赤と黒で揃えた衣装に、胸元へ揃う青薔薇。周囲から囁きが落ちる。


「恋人かしら」


「夫婦?」


「青薔薇で来るなんて珍しいわね」


 その声が耳へ入るたび、ルシアンの機嫌は静かに悪くなった。


 人混みが近づけばセレネを引き寄せ、男の視線が長く留まれば、その間へ自然に身体を入れる。背へ添えた手は離さないままだった。


 セレネは周囲を静かに見渡していた。


 香水の濃さ。仮面越しの笑み。近すぎる男女の距離。耳元へ落とされる囁き。誰もが笑っているのに、その笑みだけが妙に薄い。


 海色の瞳がわずかに細められるたび、この空間の違和感を拾っているのが分かった。


「俺は動くよ」


 シオンが赤薔薇へ軽く触れる。


「2人はそのままでも十分目立つから」


「さっさと行け」


「はいはい」


 シオンは笑い、そのまま女たちの輪へ溶け込むように入っていった。


 そこに不自然さはない。


 女たちはすぐに笑いかけ、1人がグラスを差し出す。シオンも慣れた手つきで受け取り、軽く身を屈めて何かを囁いた。赤薔薇が灯りの下で揺れる。


 あの男は、この手の場所へ馴染みすぎている。


「青薔薇なんて、久しぶりに見たわ」


 不意に声が落ちた。


 振り向けば、仮面をつけた女がグラスを傾けながら立っている。年齢は30前後だろうか。肩を大胆に出した深紫のドレスを纏い、胸元には青薔薇が揺れていた。隣へ立つ男とは距離が近すぎるわりに、互いへ向ける視線は驚くほど冷めている。


「珍しいのか」


 ルシアンが低く返すと、女は小さく笑った。


「ええ。この夜会へ青をつけて来る人は少ないもの」


 女はグラスの縁を指先でなぞる。


「青薔薇なのに、随分仲が良いのね」


 視線が、ルシアンの腰へ回された手へ落ちた。


 ルシアンは無言のままセレネを引き寄せ直す。


 女はその様子を面白そうに見ていた。


「ここでは名前を聞かないのが礼儀よ。夫婦でも婚約者同士でも、今夜だけは別人になれる場所だから」


「随分歪んだ礼儀だな」


「だから人気なのよ」


 女は肩を竦める。


 その時、セレネが静かに口を開いた。


「最近、エルグラン家の方を見かけませんか」


 女の指先が、グラスの縁で止まった。


「……バルト様のこと?」


「知っているのか」


「有名だったもの。贈り物を配るのが上手で、女を退屈させない人だったわ」


 女は小さく笑う。


「でも最近は見ないわね」


「最後に来たのはいつだ」


「さあ……少なくとも最近ではないと思う」


 女は少し考えるように視線を流したあと、不意に声を落とした。


「ただ、その方の周りで少し変わった子がいるって話は聞いたわ」


 セレネの瞳が静かに細められる。


「どのような?」


「夜会慣れしていないのに、何度か来ていて……いつも誰かを探してるみたいなの」


「名前は」


「知らないわ。ここでは聞かないもの」


 そう言って、女は肩を竦めた。


「ただ、今夜も来てるみたい」


 その時だった。


「……珍しいですね」


 別の声が落ちる。


 振り向けば、青薔薇をつけた男が立っていた。


 灯りの反射で、藤灰色の髪だけが妙に白く浮いて見える。柔らかく微笑んでいるのに、仮面の奥の視線だけが動かなかった。


「本当に青薔薇をつけている人を見るのは久しぶりです」


 穏やかな声だった。


 だが、何故か背筋へ薄い冷たさが走る。


 男の視線が、ルシアンとセレネの間をゆっくり滑った。


「……珍しい」


 小さく呟き、男はわずかに目を細める。


「本当に、隣が決まっている人達だ」


 意味の分からない言葉だった。


 だが、その響きだけが妙に耳へ残る。


 しばらくして、青薔薇の女は別の客へ呼ばれ、人混みの中へ消えていった。


 藤灰色の男も、それ以上は何も言わない。ただ静かに一礼し、人波の奥へ溶けるように消えていく。


 入れ替わるように、シオンが戻ってきた。片手には半分ほど減ったグラスが残っている。


「……今の、誰?」


 人混みの奥を見たまま、シオンが小さく眉を寄せた。


「知らん。向こうから話しかけてきた」


 そう返した直後だった。


 シオンの視線が、遠ざかる背中を追うように止まる。


 いつもの軽さが、一瞬だけ消えた。


「どうしました」


 低く零れた声へ、セレネが視線を向ける。


「……いや、今の奴、どこかで見た気がする」


 シオンは小さく眉を寄せる。


「髪色と、背格好だけだけど」

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