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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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赤いリボン①

「髪色と、背格好だけだ」


 シオンはそう言ったきり、しばらく人波の奥を見ていた。赤薔薇を胸に挿した男たちと、薄布を纏った女たちが幾重にも重なり、藤灰色の髪をした青薔薇の男はもうどこにも見えない。香水と酒と花の匂いが熱を帯びて流れ、仮面の奥の視線だけが、名も身分も失った夜の中で妙に生々しく光っていた。


 ルシアンはセレネの背に添えていた手をわずかに動かし、人混みの流れから彼女を庇う位置へ立った。露わになった白い肩へ、いくつもの視線が触れては離れる。その一つ一つが、まるで薄く濡れた指先のように不快だった。セレネは顔色ひとつ変えなかったが、彼女の呼吸がほんの少し浅くなったことを、ルシアンは見逃さなかった。


「知っている男か」


「さあね。仮面越しじゃ断定できない」


 シオンはいつものように笑った。だが、その笑みは薄い。翠の瞳だけが、まだ人波の隙間を探っている。グラスを持つ指先が一度だけ硝子を強く鳴らし、その小さな音は、周囲の笑い声にすぐ呑まれた。


「ただ、レヴァンティスで似た後ろ姿を見た気がする。気のせいならいいけど」


「お前がそう言うと、気のせいで済まなさそうだな」


「俺だって、今夜くらいは気のせいで済ませたいよ」


 軽い口調だった。けれど、そこに残る硬さが消えない。ルシアンはそれ以上追及しなかった。今この場で、消えた男の名を追いかけても仕方がない。薔薇の夜会では、名を求める者ほど無粋とされる。仮面の下に誰がいるかではなく、今夜どの薔薇を選んだかだけが意味を持つ。そういう歪んだ礼儀が、この場所全体を柔らかく腐らせていた。


 シオンは手にしていたグラスを軽く揺らした。中身はほとんど減っていない。女たちに囲まれていた時の甘い笑みは消え、今は赤薔薇を胸に挿した情報屋の顔になっている。


「それと、別件。女たちの間で、少し妙な話を聞いた」


「何だ」


「バルト・エルグランの話を出すと、反応が割れた。贈り物が上手い、退屈させない、最近見ない。そこまでは普通の女遊びの噂だった」


 そこでシオンは、わずかに声を落とした。


「ただ、何人かが赤いリボンの令嬢を見たと言っていた。夜会慣れしていないのに、何度か来ている。誰かを探しているようで、声をかけると、自分でも誰を探しているのか分かっていない顔をするらしい」


 ルシアンはセレネを見た。


「青薔薇の女も似たことを言っていたな」


「はい」


 セレネは会場の奥へ視線を向けた。


「バルト様の周囲に、少し変わった令嬢がいると。夜会慣れしていないのに何度か来ていて、いつも誰かを探しているようだと」


「赤いリボンの話は?」


「聞いていません」


「なら、特徴が一つ増えたわけだ」


 ルシアンは会場を見渡した。赤薔薇、青薔薇、白薔薇。仮面。薄布。酒杯。笑い声。探すべきものは分かった。


「探すぞ」


 ルシアンが低く告げると、シオンはグラスを近くの盆へ置いた。


「了解。俺は少し離れて見る。こういう場所で馴染めていない子は、近づきすぎるとかえって固まるからね」


 セレネが静かに頷いた。


「人の流れが切れる場所、柱際、庭へ続く扉の近く。逃げ道に近い場所にいる可能性があります」


「分かった」


 ルシアンはセレネの背へ手を添え直した。夜会の熱気が、肌へまとわりつく。彼女の白い肩へまた男の視線が滑ったため、ルシアンは一歩だけ位置をずらし、その視線を遮った。


 赤黒のドレス。銀糸の蔓薔薇。白い背中。青薔薇。自分で選んだ色が、セレネをこれほど目立たせていることに、ルシアンは今さら苛立ちにも似た感情を覚えた。綺麗だと思う。誰よりもそう思う。だからこそ、この場の男たちの視線に晒していることが腹立たしかった。


 こんな場所でなければ、違う感情で見ていられたのかもしれない。だが今は任務中だ。青薔薇を互いにつけ合った意味を、この夜会の連中に説明する必要はない。ただ、彼女へ向かう視線との間に立つだけでいい。


 会場の奥へ進むほど、空気は濃くなった。薔薇の花弁を浮かべた酒杯、香油を塗られた肌、深く開いた背中、隠しきれていない指輪の跡。男は女の耳元で囁き、女は扇の陰で笑う。その笑みの多くは、昼の社交界で見るものよりも正直で、だからこそ醜かった。


 やがて、セレネの足がわずかに緩む。


「殿下」


 静かな声だった。彼女は前方を見ている。ルシアンも視線を向けた。


 庭へ続く硝子扉の近く、太い柱の影に、一人の令嬢が立っていた。


 黒に近い濃茶の髪を、夜会らしく緩く結い上げている。肌は白い。白すぎるほどではないが、会場の熱に馴染まず、どこか冷えた陶器のように見えた。身につけているドレスは規則に従って肩と首筋を出しているものの、周囲の女たちのようにそれを武器として使う余裕がない。


 胸元の赤薔薇は、この夜会の約束事としてそこにあった。けれど、髪に結ばれた赤いリボンだけは違う。夜会の飾りではなく、彼女の記憶に食い込んだまま抜けない棘のように見えた。


 令嬢は扇を握りしめていた。開くでも閉じるでもなく、ただ指先で骨を押さえ続けている。その動きは落ち着きがなく、けれど怯えて逃げ出すほどでもない。誰かを待っているようで、誰を待っているのか分からなくなっているようにも見えた。


 ルシアンは小さく目を細めた。自分たちも、この夜会では十分に異物だ。青薔薇をつけ、赤黒の揃い衣装で並び、誰にも渡す気がないと示すように立っている。だが、柱際の令嬢が纏う違和感は、それとは質が違った。彼女は目立とうとしているのではない。隠れようとしているのでもない。ただ、ここに立つ理由を失ったまま、帰り道だけ忘れたようにそこにいた。


「あの令嬢ですね」


 セレネが言った。


「だろうな」


 シオンは少し離れ、周囲の視線を拾う位置へ回った。ルシアンはセレネの半歩後ろへつく。


「今夜は、少し人が多いですね」


 セレネは、まるでただ隣に立っただけのように言った。赤いリボンの令嬢が、びくりと肩を揺らす。振り向いた仮面の奥の瞳は、薄い茶色だった。焦点が合うまでに、ほんのわずかな遅れがある。


「……ええ。そう、ですね」


 声は小さい。高くも低くもない。ただ、言葉が自分のものではないように、少し遅れて口から落ちる。


「どなたかをお探しですか」


 セレネの問いに、令嬢の扇を握る指が止まった。


「探して……」


 彼女は繰り返す。仮面の奥の瞳が、会場を漂った。笑う女。赤薔薇の男。青薔薇を挿した客。銀の盆を運ぶ使用人。誰を見ても、彼女の目はそこに留まらない。


「分かりません。ただ、来なければいけない気がして。来なければ、何かを忘れたままになるような気がしたのです」


「誰かに招かれたのですか」


「招かれた、のだと思います」


 曖昧な返事だった。ルシアンは眉を寄せる。酒に酔っている様子は薄い。香の影響か、暗示か。あるいは、ここへ来る前に何かを飲まされたか。肌の色、呼吸、視線、指の震え。決定的な異常はない。だが、まともではない。


 セレネは急かさなかった。冷たいほど落ち着いた横顔で、ただ静かに令嬢を見ている。


「贈り物を、受け取られましたか」


 その問いに、令嬢の指が動いた。無意識に、髪の赤いリボンへ触れる。


「贈り物……」


「赤いリボンですか」


 令嬢の唇がわずかに開いた。答えようとして、言葉が出ない。彼女は自分の髪へ触れたまま、ひどく困ったように目を伏せた。


「これは、いただいたものです」


「どなたから」


「……どなた、から」


 同じ言葉が、空の器の中で反響するように返ってくる。令嬢の喉が小さく動いた。扇を握る手に力が入る。白い指の関節が、ほんの少し浮いた。


 ルシアンは声を落とした。


「バルト・エルグラン」


 その名を出した瞬間、令嬢の表情が止まった。


 会場の音が、妙に遠くなる。酒杯の触れ合う音。女の笑い声。低い囁き。香水と薔薇の匂い。それらが一枚薄い布の向こうへ退き、赤いリボンだけが灯りの下で鮮やかに見えた。


「……バルト」


 令嬢はゆっくりと名をなぞった。


「ご存じですか」


 セレネが尋ねる。


「知って、いるはずです」


「はず?」


「ええ。知っているはずなのです。だって、私は……」


 そこまで言って、彼女は口を閉ざした。眉がわずかに歪む。困惑ではなく、痛みに近い表情だった。


「私は、何だったのでしょう」


 ルシアンの胸の奥に、冷たいものが落ちた。


「何だった、とは」


「誰かと、婚約していた気がするのです」


 令嬢はゆっくり言った。自分の言葉を確かめるように、一語ずつ。


「家の者が、悪くない話だと……そう言っていたような気がします。私は頷いた気がします。でも、誰に頷いたのかが分かりません」


「指輪は」


 ルシアンが尋ねると、令嬢は自分の手元を見た。細い指には何もない。手袋の上からでも、指輪を外した跡は見えなかった。彼女は不思議そうに、自分の薬指を撫でる。


「見た気がします。赤い石だったのか、金だったのか……いいえ、違うかもしれません。誰かが、指輪の話をしていて」


 声が小さくなる。


「私のものだったのでしょうか」


「バルト・エルグランの顔は思い出せますか」


 セレネの声は静かだった。


 令嬢は目を閉じた。長い睫毛が仮面の下で震える。しばらく沈黙が落ちた。彼女は何かを追いかけている。夜会の灯りでも、目の前の人間でもない。もっと内側にあるはずの記憶を、手探りで掴もうとしている。


 だが、掴めない。


「笑っていた気がします」


 やがて彼女は言った。


「誰にでも、同じように。……いいえ、それも誰かから聞いた話かもしれません。私は、その人を見たのでしょうか。見ていないのでしょうか」


 扇の骨が、彼女の指の下できしりと鳴った。


「顔が、思い出せません」


 ルシアンはセレネを見た。彼女は令嬢を見つめたまま、わずかに目を細めている。驚きではない。恐怖でもない。何かが、彼女の中で静かに繋がりかけている顔だった。


「無理に思い出さないでください」


 セレネが言った。


「ですが」


「思い出そうとするほど、輪郭が崩れています。今は追わない方がいい」


 令嬢は息を止めたようにセレネを見た。その瞳に、ほんの少しだけ安堵が揺れる。誰も彼女の混乱を笑わない。責めない。狂っているとも言わない。ただ、今は触れるなと告げる。その冷静さが、かえって彼女を落ち着かせたのかもしれなかった。


「私、おかしいのでしょうか」


「少なくとも、あなた一人の問題として片づけるには早いと思います」


 セレネの声は低かった。ルシアンだけが、その言葉の重さを聞き取る。


 記憶そのものが失われている、というより。バルトという名、婚約という事実、贈り物の断片。それぞれは残っているのに、それらを繋ぐ糸だけが切られているように見える。人間の暗示でそこまでできるのか。薬なら、なぜ特定の関係性だけが曖昧になる。記録改竄と証言操作なら、なぜ本人の内側までこうも綺麗にほつれる。


 怪異の名を口にするのは簡単だ。だが、その言葉で思考を止めるつもりはなかった。


 その時、令嬢がふと首を傾けた。髪に結ばれた赤いリボンが揺れ、首元にかかっていた濃茶の髪が肩へ滑り落ちる。


 白い肌の上に、赤黒い線があった。


 痣というには細く、傷というには皮膚が乱れていない。首筋を横切るように、薄く、しかし妙にまっすぐ残っている。薔薇の夜会の灯りの下では、赤い絹糸を一度だけ押し当てたようにも見えた。


 ルシアンの背筋に、冷たいものが這った。


 それは傷というより、印だった。


 喉を飾るものではない。喉を測るものに見えた。


「そこに線がある」


 ルシアンの声に、令嬢が瞬きをする。


「線……?」


 彼女は自分の首へ手を当てた。指先が赤黒い線に触れる。痛みはないらしく、表情は変わらない。


「いつからだ」


「分かりません」


「何かを巻かれた覚えは」


「……分かりません」


「痛みは」


「ありません」


「気分は悪いか」


「少し、ぼんやりします。でも、いつもと同じです。たぶん」


 その、たぶん、がひどく頼りなかった。



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