赤いリボン②
ルシアンは周囲へ視線を走らせた。誰もこちらを気にしていないふりをしている。だが、いくつかの仮面の奥の目が、こちらを見ては逸れる。夜会では、他人の痕跡に踏み込まない。それが礼儀であり、逃げ道でもある。誰かが誰かに何をしたか。誰と来て、誰と消えたか。見ないふりをすることで、この場所は成り立っている。
吐き気がするほど、よくできた沈黙だった。
強制的に連れ出すべきか。
だが、何を理由にする。
令嬢は歩ける。会話もできる。
首元の線は不穏だが、この夜会では決定的な傷害の証拠とは言い切れない。こちらは潜入中で、身分を明かして騒ぎを起こせば、今夜拾えるはずの線がすべて切れる。何より、令嬢本人が助けを求めていない。求めるべき状況にいることすら、理解できていない。
ルシアンの奥歯が、かすかに鳴った。
「……今夜は、少し空気が悪い」
言葉を選ぶように告げると、令嬢がゆっくり顔を上げた。
「空気……」
「酒も香も強い。思い出そうとして気分を悪くするくらいなら、一度席を外した方がいい」
命令ではなく、提案に聞こえるように声を抑えたつもりだった。だが、内側に残る苛立ちは消えない。すぐにでもこの場から連れ出したい。そう思うのに、仮面の男として踏み込める線はあまりに細かった。
令嬢は迷うように扇を握り直した。赤いリボンに触れかけた指が、小さく震える。けれど、彼女はその手を途中で止め、扇を胸元へ寄せた。
「でも、私は何かを……」
「探し物なら、会場に残る者が見ておけます」
セレネが静かに引き取った。
「今のあなたは、無理に思い出そうとしない方がいい。帰るのが難しければ、馬車までお送りします」
冷たく聞こえない、けれど余計な感情も混ぜない声だった。令嬢はセレネを見つめる。仮面越しでも、その言葉にすがるような間があった。
「……少し、外の空気を吸いたいです」
「ええ」
「ご迷惑では」
「迷惑ではありません」
セレネは短く答えた。
ルシアンは近くの使用人へ視線を向け、呼び止める程度に手を上げる。
「こちらのご令嬢が気分を悪くされている。馬車を確認してくれ」
使用人は一礼した。
「お連れの馬車は」
令嬢はぼんやりと考え込んだ。答えられない。ルシアンが眉を寄せるより早く、別の使用人が控え札を確認して戻ってきた。彼は声を落とし、周囲へ響かせないように告げる。
「レーヴェル子爵家のお馬車が、裏手に控えております」
レーヴェル。
ルシアンはその家名を胸に刻んだ。少なくとも、夜が明ける前に辿るべき場所は決まった。
裏庭へ出ると、屋敷内の熱が嘘のように薄れた。夜気は冷たく、湿った土と花の匂いが戻ってくる。噴水の水音が、遠くで静かに響いていた。屋敷の灯りを背に受けた赤いリボンの令嬢は、会場の中よりもさらに頼りなく見えた。首元の線は濃茶の髪に半ば隠れ、見えたり見えなかったりした。それなのに、一度見てしまえば、ルシアンの目から消えなかった。
馬車の扉が開かれる。令嬢は乗り込む前に、一度だけ振り返った。
「これは」
彼女は髪の赤いリボンに触れた。
「誰から、いただいたのでしょう」
令嬢のなんとも言えない質問に、誰も答えなかった。
答えられる者が、そこにはいなかった。
馬車の扉が閉まる。御者が小さく鞭を鳴らし、車輪が湿った砂利を踏んだ。夜霧の中へゆっくり消えていく窓の奥で、赤いリボンが一瞬だけ揺れる。それから灯りも、音も、白い霧の向こうへ沈んだ。
ルシアンはしばらく動かなかった。セレネも隣で沈黙している。シオンだけが小さく息を吐いた。
「嫌な感じだね」
「今さらだな」
「今夜の中でも、特にって意味」
シオンの声には、いつもの甘さがなかった。
ルシアンはセレネを見た。預けさせられた黒布を取りに戻るより先に、彼は自分の外套を外していた。夜気に晒された肩は、灯りの下で見るよりも白く冷えて見えた。セレネが避けないことを確かめてから、彼女の肩へ掛ける。セレネはわずかに目を上げたが、拒まなかった。その沈黙を確認してから、ルシアンは前を合わせた。
「お前は何を見た」
セレネは馬車が消えた方を見ていた。
「まだ、形になっていません」
「そうか」
「ですが、忘れている、というより、結び目だけがほどけているように見えました」
声は静かだった。
「赤いリボン、贈り物、指輪、婚約。断片はあるのに、互いにつながっていません」
「暗示か」
「その可能性はあります。薬や香の可能性もあるかもしれません」
「記録の方もか」
セレネは小さく頷いた。
「本人の記憶だけではなく、周囲の認識も同じように崩れているなら、記録を確認すべきです」
ルシアンは息を吐いた。
「戻るぞ。クライヴに調べさせる」
「はい」
屋敷の中では、まだ夜会が続いていた。誰かが笑い、誰かが囁き、誰かが名を捨てたふりをして欲を拾う。赤いリボンの令嬢が去ったことに、少なくとも振り返る者はほとんどいなかった。薔薇の夜会とは、そういう場所だった。
シオンも夜会に残るとは言わなかった。あの藤灰色の男の影は、すでに人波の奥から消えている。今夜これ以上追っても空を掴むだけだと判断したのか、黙って馬車へ向かった。
王城へ戻った頃には、夜はさらに深くなっていた。
特務隊の執務室には灯りが残っていた。クライヴは外套も脱がずに入ってきたルシアンたちを見て、すぐに姿勢を正す。既婚者らしい落ち着きと、実務に慣れた目が、三人の服装と表情を素早く拾った。青薔薇。赤黒の礼装。セレネの肩に掛けられたルシアンの外套。シオンの胸の赤薔薇。余計なことは聞かない。だが、何かあったことだけは理解している顔だった。
「クライヴ」
「はい」
「例の夜会へ出入りしたレーヴェル家の令嬢を洗え。濃茶の髪、赤いリボン。バルト・エルグランの名に反応した。婚約記録、贈答控え、馬車の出入り、招待筋を確認しろ。記録に空白があれば最優先で持ってこい」
クライヴの目がわずかに細くなる。
「では、エルグラン家の関係者として洗います」
「ああ。それと、同じ令嬢について複数の客が赤いリボンを覚えていた。誰かを探していたが、自分でも誰を探しているのか分かっていない様子だったらしい」
「承知しました」
ルシアンは椅子へ腰を下ろさなかった。座れば、今夜見たものが身体に沈み込んでしまいそうだった。
「まだ何も断定しない。だが、放っておくには嫌な材料が多すぎる」
セレネが隣に立ったまま、静かにルシアンを見た。
「殿下」
「何だ」
「今夜の段階で、連れ出せるだけの根拠はありませんでした」
慰めではなかった。事実の確認だった。だからこそ、少しだけ胸に刺さる。
「分かってる」
「ただ、朝を待たずに確認を進めるべきです」
「ああ」
クライヴが深く頭を下げた。
「すぐに動かします」
夜会帰りの馬車を追える者、貴族家の控えを調べられる者、記録庫に走れる者。クライヴは短く指示を飛ばし、室内の空気を一気に実務へ変えた。
シオンは窓際に立ち、夜の王城を見下ろしていた。赤薔薇はまだ胸にある。だが、先ほどまでの夜会に馴染む男の気配は消えている。
「俺も、あの藤灰色の男を思い出してみるよ」
ルシアンは横目で見る。
「思い出せるのか」
「分からない。でも、忘れたふりをするよりはましだろ」
シオンの声は軽い。だが、瞳は笑っていなかった。
その夜、ルシアンはほとんど眠らなかった。
執務室の灯りは明け方まで消えず、書類と報告が何度も運ばれてきた。例の夜会に出入りした馬車。レーヴェル子爵家の家族構成。エルグラン家の交友関係。バルトが過去に贈った品の噂。情報は集まる。だが、集まるほど、彼女とバルトを結ぶ一本だけがどこにも見当たらなかった。
窓の外が薄く白み始めた頃、ルシアンはようやく椅子へ腰を下ろした。セレネは向かいで資料に目を落としている。彼の外套はまだ彼女の肩にあり、黒い布が赤黒のドレスの上で静かに沈んでいた。疲れているはずなのに、彼女はいつものように背筋を伸ばしている。ただ、頁をめくる指先が、ほんのわずかに遅い。
「少し休め」
ルシアンが言うと、セレネは顔を上げた。
「資料を確認してからにします」
「それは休む気がない奴の言い方だ」
セレネは何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ目を伏せる。その沈黙が、彼女なりの疲労の表れだと今のルシアンには分かる。以前なら見落としていた。今は、見落としたくなかった。
声をかけようとした時、廊下の向こうで足音がした。
早い。迷いがない。報告を持つ者の足音だった。
扉が叩かれる前に、ルシアンは顔を上げていた。
「入れ」
クライヴが入ってくる。夜を徹した顔だった。だが、乱れてはいない。乱れていないからこそ、その表情の硬さが目立った。
「殿下」
声が低い。
「昨夜のレーヴェル家の令嬢についてです」
赤いリボン。夜霧へ消えた馬車の灯り。答えを持たないまま揺れていた、薄茶の瞳。眠っていない頭の奥で、それらが一度に結び直される。
ルシアンは立ち上がった。
「名は」
「ビアンカ・レーヴェル子爵令嬢」
クライヴの声が、そこでわずかに沈んだ。
「今朝、亡くなられました」




