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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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届いた手紙

 今朝、亡くなられました。


 クライヴの声が落ちたあと、執務室は静まり返った。窓の外は白み始めている。明け方まで積み上がった報告書が机の上へ広がったまま、薄い朝の光を受けていた。例の夜会へ出入りした馬車、レーヴェル子爵家の家族構成、エルグラン家との交友、贈答記録。情報は集まっている。だが、ビアンカとバルトを結ぶ一本だけが、どこにも見つからない。


 ルシアンは立ったまま動かなかった。眠っていない頭の奥で、昨夜の馬車の灯りが揺れる。赤いリボンへ触れた白い指先。誰から、いただいたのでしょう、と答えを持たないまま夜霧へ消えた女の名が、今ようやく形になった。ビアンカ・レーヴェル子爵令嬢。昨夜、彼らが帰した女だった。


「……警邏隊は」


 ようやく出た声は低かった。


「すでにレーヴェル子爵家へ入っています。特務隊の確認班も向かわせました」


 クライヴは一睡もしていない顔だった。それでも乱れはない。夜を徹して動き続けた実務の硬さだけが残っている。


「家人への聞き取りも始まっています。婚約話があった気がする、と証言する者が複数。ただ、相手の名を誰も言えません」


 昨夜と同じだった。婚約していた気がする。贈り物を受け取っていた気がする。だが、誰と結ばれていたのか、その部分だけが綺麗に抜け落ちている。


 セレネが静かに頁を閉じた。彼の外套はまだ肩へ掛かったままだった。黒い布が赤黒のドレスへ沈み、夜会の名残だけが、この執務室へ残されている。


「……私が、もう少し早く気づいていれば」


 小さな声だった。


 ルシアンは奥歯を噛む。


「昨日は、あれ以上踏み込めなかった」


 あの場で無理に連れ出せば、保護ではなく拘束になる。王家の名を使えばできた。だが、そのための根拠は昨夜の時点ではまだ足りなかった。それは理解している。それでも、ビアンカは死んだ。


 机へ積まれた報告書の上へ、薄茶の瞳が重なる。思い出そうとして、思い出せなかった顔。名を失った婚約。喉元へ残っていた、細い線。


 沈黙を破ったのは、セレネだった。


「シオン」


 窓際にいたシオンが振り返る。夜会の時の軽さは消えていた。赤薔薇だけが、まだ胸元へ残っている。


「乙女ゲームでは、事件はどのように起きていましたか」


 シオンはすぐには答えなかった。翠の瞳が机へ散った報告書へ落ちる。婚約の空白と死の報告が並ぶ紙面に、記憶の奥の何かが引っかかったようだった。


「……手紙だ」


 低い声だった。


「たしか、届くんだよ。恋文みたいな、でも後から見ると予告状みたいな手紙だった。誰かが物語になぞってるなら、わざとその形を使っているのかもしれない」


 ルシアンはすぐクライヴを見る。


「バルト・エルグランにも、そういう話はなかったか」


 クライヴは資料をめくった。


「あります。酒席で、妙な手紙を受け取ったと本人が話していた証言が残っています。悪ふざけか、女からの恋文だろうと笑っていた、と」


 バルトへ届いていたという手紙と、ビアンカから抜け落ちていた婚約の記憶が、ルシアンの中でゆっくり重なっていく。誰も相手の名を思い出せず、人と人を結んでいたはずの関係だけが、そこだけ綺麗に消えていた。


「……似すぎています」


 セレネの声は静かだった。


「完全に乙女ゲームの物語から外れているわけではないのかもしれません。ただ、同じ形が繰り返されています。誰かが利用しているのか、偶然なのかは、まだ分かりません」


 婚約も、贈り物も、名前さえも、人と人を結んでいたものだけが先にほどけていく。その先を考えた時、昨夜ビアンカの喉元へ残っていた細い線が、妙に鮮明に浮かび上がった。


 ルシアンは無意識に拳を握る。


「シオン。覚えている人物を書き出せ」


「分かった。攻略対象と、王太女の候補は分ける」


 ペン先が紙を擦った。


 ミア・ベルティエ。


 シオンはその名を書いた時、ほんのわずかに口元を歪めた。かつて現れるはずだったヒロイン。けれど、現実では物語の外で自分の人生を選んでいた女。


 続いて、ラザール・ヴェルモンド。イリス・カリオスト。ユリウス・サンドレール。ノア・レヴァンティス。


 シオンは次の紙へ移った。


 王太女アリアナ・レヴァンティスの婚約者候補。


 クライド・オルディーン。


 セドリック・ヴァレンティ。


 そこで一度、羽ペンが止まる。


 シオンは何も言わず、次の名を書いた。


 マティアス・グランヴィル。


 また、止まる。


 エリオット・サリオ。


 インクが紙へ少しだけ濃く滲んだ。


 最後に、シオン・アステリオス。


 自分の名を書いたところで、シオンは小さく息を吐いた。


「……俺も、もしかしたらまだ狙われてるのかなぁ」


 冗談のような声音だった。だが、翠の瞳は笑っていない。


 ルシアンは紙へ落ちたその視線を見る。シオンは、自分が知っていたはずの形が、現実で別のものへ変わっていくことを恐れている。


 その時だった。


「……髪だ」


 シオンが顔を上げる。


「何だ」


「昨日の青薔薇の男。藤灰色の髪だっただろ」


 昨夜、人波の奥へ消えた男の姿が脳裏をよぎる。


「レヴァンティスでは、王族や、王族から嫁いだ公爵家に、紫みを帯びた灰色の髪が出ることがある」


 ルシアンは黙ったまま、その言葉を反芻した。昨夜、人波の奥へ消えた青薔薇の男を思い出す。仮面の奥の目も、声も、今となっては曖昧だった。だが、レヴァンティスの名が出た途端、あの髪色だけが妙にはっきり浮かび上がる。


「……だからといって、今の段階で結びつけるのは早いか」


 半ば自分へ言い聞かせるように呟いてから、ルシアンはクライヴへ視線を向けた。


「クライヴ。レーヴェル家の婚約記録と贈答控えを最優先で洗え。現物が消えていても、納品記録や招待状の控えは残る。バルトの手紙も追え」


「承知しました」


「警邏隊には現場維持を徹底させろ。机や文箱は、特務隊が確認するまで触らせるな」


「すでに伝令を出しています」


 返答と同時に、廊下の向こうで足音が止まった。


 扉が叩かれる。


「入れ」


 若い隊員が一礼する。外気を含んだ湿った空気が、わずかに流れ込んだ。


「殿下。レーヴェル子爵家より続報です」


 ルシアンは視線を向ける。


「言え」


「ビアンカ嬢の机の引き出しから、手紙が一通見つかりました」


 室内の空気が張り詰める。セレネの指が紙の端で止まり、シオンの羽ペンも動かなくなった。


 隊員は低く続ける。


「封は切られていました」


 そして。


「差出人の名は、ありません」


 報告が終わったあとも、誰もすぐには口を開かなかった。差出人のない手紙という形だけが、執務室へ重く残る。


 ルシアンはゆっくり息を吐いた。


「本文は」


「未確認です。警邏隊は保全したまま、特務隊の到着を待っています」


「勝手に開かせるな」


「はっ」


 隊員はすぐ頭を下げた。


 クライヴが資料を抱え直す。


「現場側へは、こちらで追加指示を出します。レーヴェル家の出入り記録と婚約関連の控えも洗わせましょう」


「ああ。贈答品が絡んでいるなら、商会側にも記録が残っているはずだ」


「承知しました」


 短いやり取りのあと、再び沈黙が落ちる。


 シオンが小さく息を吐いた。


「嫌だなぁ……」


 軽く言おうとしているのに、声は少し掠れていた。


「恋文みたいな手紙が届いて、婚約者の名前が分からなくなって、そのあと死ぬとか、趣味悪すぎる」


「乙女ゲームでも、そこまでだったのか」


 ルシアンが問うと、シオンは眉を寄せた。


「いや……たしか、そんな風な手紙だった。恋文みたいで、でも後から思えば予告状にも見える。そこをなぞっているなら、わざとだろうね。けど、婚約者の名前が分からなくなるなんて、そこまで露骨じゃなかった」


 似ているのに、違う。


 そのずれが、かえって現実へ入り込んだ誰かの手つきを思わせた。


 ルシアンは昨夜のビアンカを思い出した。忘れているはずなのに、赤いリボンへ触れた指だけは妙に大事そうだった。名前を失っても、感情までは消えきっていないように見えた。それが、余計に気味が悪い。


 セレネは何も言わなかった。ただ、昨夜から読み続けていた資料へ静かに手を置く。その白い指先へ、自分の外套の黒が落ちているのを見て、ルシアンはわずかに視線を止めた。


 まだ返されていない。


 その事実が、妙に胸へ残る。


「……俺も、もう少し思い出してみるよ」


 シオンが紙へ視線を落としたまま言う。


「ゲームの中で、こういう時に何が起きてたか。まだ抜けてる部分がある気がする」


 ルシアンは短く頷いた。


「無理に掘り返すな」


「分かってる。でも、放っておくと余計気持ち悪いんだよ」


 シオンは苦く笑う。


 クライヴは何も言わない。前世だの乙女ゲームだのという話を知らない彼にとって、今必要なのは現実の記録整理だけだった。


 夜明けの光が、机へ広がった紙の端を白く照らしている。


 その中で、差出人のない手紙だけが、ひどく黒く見えた。


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