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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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名を失くした部屋

 夜明けの光が、執務室の窓へ薄く差し込み始めていた。


 明け方まで消えなかった燭台の火は小さく痩せ、机の上には報告書と控えが重なっている。夜会へ出入りした馬車、レーヴェル子爵家の使用人名簿、贈答控え、エルグラン家との交友記録。夜を徹して集められた情報は多い。だが、紙が増えるほど、肝心の一本だけが見えなくなっていた。


 婚約者がいたはずなのに、誰も名前を言えない。


 贈り物を受け取っていたはずなのに、相手の顔を思い出せない。


 昨夜、赤いリボンへ触れながら、誰からもらったのか分からないと呟いた女は、今朝死んだ。


 ルシアンは机へ片手をついたまま、冷えた茶の残るカップを見た。薄く膜を張った茶だけが、夜が終わったことを静かに示している。


「クライヴ」


「はい」


 クライヴはすぐ顔を上げた。机の端には書き留めた覚書が重なり、乾ききらないインクの匂いがまだ残っている。


「レーヴェル家の婚約記録と贈答控えを最優先で洗え。現物が消えていても、商会側や招待状の控えは残るはずだ。バルトの手紙についても追え」


「承知しました」


「警邏隊には現場維持を徹底させろ。文机と手紙には、特務隊が確認するまで触らせるな」


「すでに伝令を出しています」


 ルシアンは数秒考え、それから口を開いた。


「フェリクス兄上にも頼む」


 クライヴが視線を上げる。


「婚約者や恋人の記憶だけが曖昧になる事例を洗ってほしい。薬、香、暗示、過去の貴族事件、修道院記録、何でもいい。表に出なかった話も含めて探らせろ」


「承知しました」


「表向きは記憶障害の調査で通せ。余計な噂は広げるな」


 クライヴは短く頷いた。


 その横で、シオンが頬杖をついたまま小さく息を吐く。


「俺は王城残り?」


「ああ。思い出せることがあるなら整理しておけ」


「了解。……正直、思い出したい内容じゃないんだけどね」


 軽い口調だった。だが、翠の瞳の奥には薄く疲労が残っている。前世で知っていた“物語”が、現実の死と似た形で重なり始めている。その気味悪さを、シオン自身が一番理解している顔だった。


 ルシアンはそこでようやくセレネを見る。


 彼女は昨夜の赤黒のドレスの上に、ルシアンの外套を羽織っていた。夜会用の濃い色彩は朝の薄明かりの中で沈み、黒い外套の裾が椅子の背へ静かに落ちている。背筋は崩れていない。だが、頁へ置かれた指先の動きは遅く、海色の瞳の奥には徹夜の疲労が薄く滲んでいた。


「お前は休め」


 セレネは顔を上げ、静かに首を横へ振った。


「嫌です」


 間を置かない返答だった。


 ルシアンは短く息を吐く。


「言うと思っていた」


 昨夜から彼女は一度も眠っていない。夜会の熱と香を浴び、報告書を読み、ビアンカの死を聞いた。そのまま首のない遺体がある場所へ連れて行きたくはなかった。


 それでも、現場へ向かうと考えた瞬間、セレネが何を見るかを考えてしまう自分がいる。


「……だったら、せめて湯を使え」


 セレネの睫毛がわずかに動いた。


「夜会帰りのまま連れて行く気はない。俺は先に向かう」


 数秒の沈黙のあと、セレネは小さく頷く。


「……分かりました」


 その返答を確認してから、ルシアンは執務室の椅子へ掛けられていた王族特務隊の上着を取った。黒を基調にした実務用の上着は、夜会用の礼装よりはるかに軽い。袖を通し、襟元を整える。布の重みが肩へ乗った瞬間、頭の奥に残っていた夜会のざわめきが少し遠ざかった。


 王城の回廊には、朝の冷えた空気が流れ始めている。夏の朝は早い。それでも石壁にはまだ夜の冷たさが残り、窓から差し込む湿った光と混じり合っていた。


 馬車へ乗り込む。


 車輪が石畳を踏む振動が、徹夜明けの身体へ鈍く響いた。


 以前なら、セレネが危険な現場へ来ることをここまで気にしなかった。隣にいるのが自然だったからだ。だが最近は違う。疲れた顔を見れば休ませたくなるし、血の匂いのする場所から遠ざけたくもなる。


 それなのに結局、自分は待っている。


 海色の瞳が、何を見つけるのかを。


 ルシアンは窓の外へ視線を向けた。薄曇りの空の下、白い街並みは湿気を含んだ朝の光にぼんやり滲んでいる。昨夜会った女が首を失って死んだことなど、この街の大半はまだ知らない。


 馬車が速度を落とした。


「殿下、到着しました」


 レーヴェル子爵家の屋敷は、王都西区の静かな通りに建っていた。白い石壁と手入れされた低木のある、ごく普通の貴族屋敷だ。だからこそ、門前に並ぶ警邏隊の馬と、落ち着かない様子で行き来する使用人達だけが妙に浮いて見えた。


 ルシアンが馬車を降りると、警邏隊員がすぐ頭を下げる。


「殿下」


「状況は」


「部屋は封鎖済みです。特務隊の確認を優先し、ご遺体もまだ移送しておりません」


「家人は」


「応接室に。婚約者についてお聞きすると反応はされますが、どなたも名を言えません」


 隊員自身も言いながら眉を寄せていた。


 ルシアンは短く頷き、屋敷へ入る。


 床は磨かれ、壁の装飾も乱れていない。どこにでもある貴族家の朝だった。だが、屋敷の中の空気は妙に重い。誰も泣き叫ばない。その代わり、廊下に立つ使用人達の視線が落ち着かず、言葉を探すたび口元だけが強張る。


 悲しみより先に、思い出せないことへの怯えがそこにあった。


 二階へ続く階段を上がる途中、廊下の奥から低い声がした。


「運びます」


 数人の隊員が、白布を掛けた担架を持って現れる。足取りは重かった。誰も白布へ視線を落とさない。


 ルシアンはそこで足を止めた。


 白布の下は不自然に平らだった。肩の先にあるはずの重みがなく、布は途中で落ちるように沈んでいる。


 喉の奥が冷えた。


「下ろせ」


 低く命じると、隊員達は無言で従った。担架の脚が床へ置かれる音だけが、静まり返った廊下へ響く。


 ルシアンは数秒黙ったまま白布を見下ろし、それから布へ手を掛けた。


 布は朝の湿気を吸い、わずかに冷たい。ゆっくり持ち上げる。


 まず鎖骨が見え、次いで白い首筋が現れた。そして、その先がない。


 切断面は異様なほど綺麗だった。乱暴に裂かれた痕ではない。細い首筋を、迷いなく断った跡だけが静かに残されている。


 昨夜、ビアンカの首元に見えた赤黒い線が脳裏を過った。あの線が、今目の前にある断面と重なって見えてしまう。


 ルシアンは無意識に奥歯を噛んだ。昨夜、自分はそれを見ていた。見ていて、連れ出せなかった。


「……首は」


 声が低く落ちる。


「未発見です」


 警邏隊員が答えた。


 ルシアンは白布を戻しきらず、亡骸を見下ろしたまま黙る。


 身元を隠したいだけなら、他にも方法はある。顔を潰すことも、焼くこともできる。


 なのに、なぜ首を持ち去る。


 なぜ、こんな殺し方をする。


 喉の奥へ沈んだ怒りが、ゆっくり熱を持っていく。


「運び出す前に、搬送経路と発見時の位置を記録しろ。首の捜索は屋敷内だけで終わらせるな。庭、馬車置き場、井戸、排水路も確認しろ」


「はっ」


「騒がせるな。だが手は抜くな」


 隊員達が深く頭を下げる。


 ルシアンは廊下の奥へ視線を向けた。


「部屋を見せろ」


 案内された扉の前には、警邏隊員が二人立っていた。封鎖用の紐が取っ手へ掛けられている。


 扉が開いた瞬間、微かな花の香りが流れ出た。


 中は、驚くほど普通の令嬢の部屋だった。整えられた寝台、窓辺の花瓶、読みかけの本、化粧台に並ぶ小瓶。暮らしていた人間の気配はある。


 ルシアンはゆっくり部屋の中へ入った。床板は軋まず、薄いカーテン越しの朝の光が文机を白く照らしている。


 机の上には、封を切られた手紙が一通だけ置かれていた。

 紙は上質で、淡い香りだけが僅かに残っている。


「開くぞ」


 そばの隊員が頷いた。


 ルシアンは手袋をはめ直し、手紙を取る。紙の折り目は丁寧だった。乱暴に開いた形跡はない。


 手紙を広げる。


 文字は癖の少ない整った字だった。


 『忘れてしまっても構いません。


 あなたが私の名を思い出せなくても、結び目は消えません。


 今度こそ、迎えに行きます。』


 手紙にはそれ以上何も書かれておらず、署名はなかった。恋文の形をしている。だが、読むほど胸の奥が冷えていく。


 手紙には殺すとは書かれていない。けれど、「迎えに行く」という言葉だけが、首のない遺体を見たあとでは別の意味を持って響いた。


「……ふざけるな」


 低く漏れた声に、そばの隊員が肩を強張らせる。


 ルシアンは紙を握り潰しそうになる指先へ力を込め、そのまま机へ戻した。


「写しを取れ。筆跡、紙質、香、封蝋の成分も調べる」


「承知しました」


 その時、廊下の向こうで足音が止まった。続いて、控えめなノックの音が響く。


「殿下」


 扉の外から隊員の声がする。


「ヴァルキュリア侯爵令嬢がお着きです」

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