結び目
「通せ」
ルシアンが短く告げると、扉の向こうで金具が擦れ、控えていた隊員が一歩下がった。開かれた隙間から、廊下に残っていた朝の湿り気と、拭き取った血の匂いが細く流れ込んでくる。
入ってきたセレネは、昨夜の夜会の装いではなかった。
薄墨色のワンピースは余計な飾りを削ぎ落とし、夏用の軽い布が歩みに合わせて膝のあたりで静かに揺れている。腰には細い黒のベルト。黒髪は低い位置で結び直され、首筋には昨夜の疲れを隠しきれない淡い影が落ちていた。
ルシアンの視線は一瞬、止まった。
王城の執務室で、彼の外套を羽織ったまま報告書に目を落としていた姿が、机上の紙束越しに蘇る。あの時より顔色は戻っている。髪も整っている。けれど、白い頬の薄さも、指先が袖口へ触れるまでのわずかな遅れも、眠れた者のものではなかった。
「少しは休めたか」
「眠ってはいません」
予想していた返答だった。ルシアンは眉間へ指を当てかけ、途中でやめる。怒っても、休めと言っても、この女は必要だと判断したものから退かない。
「ですが、湯を使いました。頭は鈍っていません」
「そういう問題じゃない」
「身体も動きます」
「なお悪い返しだな」
セレネは返答に困ったように、ほんの少しだけ睫毛を伏せた。その仕草で、かえって疲労の色が濃く見えた。彼女は弱音を吐かない。だからルシアンは、言葉より先に、目元の色や呼吸の浅さを見る癖がついてしまっていた。
「無理はするな」
「はい」
素直な返事だけが戻ってきた。
だが、その視線はすでにルシアンの肩越しへ流れている。廊下の奥、白布を掛けた担架が置かれている方角だ。彼女の瞳に余計な揺れはない。ただ、見なければならないものを見に行く目をしていた。
「ご遺体は」
「廊下にある。俺が一度確認した」
セレネの睫毛がわずかに動いた。
「首は」
「ない。捜索は始めさせている」
言葉にしても、喉の奥に残る冷えは薄れなかった。昨夜、ビアンカの首元に見えた薄い線。今朝、白布の下で途切れていた白い首筋。見えていたものが、後から意味を変えて戻ってくる感覚が、ルシアンの奥歯へ力を入れさせる。
セレネは小さく頷いた。
「確認してもよろしいですか」
「ああ」
ルシアンは机の端から手袋を取り、扉へ向かった。廊下へ出ると、石壁に染みた湿り気が肌へまとわりつく。朝の光は窓から斜めに差しているのに、床石の継ぎ目には夜の水分がまだ残っていた。開け放たれた窓の外では庭木の葉が揺れている。鳥の声も、遠い使用人の足音もある。それでも廊下のこの一角には、鉄に似た匂いが薄く沈んでいた。
担架は壁際に置かれていた。
白布の端が、窓から入る風にわずかに持ち上がっては戻る。布の下にある輪郭は人の形を保っているのに、首から上だけが欠けていた。その欠けた形を布は誤魔化しきれず、肩のあたりで歪んだ傾斜を作っている。
警邏隊員達がセレネの姿を見る。若い者の一人が何か言いかけ、隣にいた年長の隊員に袖を引かれて口を閉じた。侯爵令嬢へ見せるものではないと思っているのだろう。だが、彼女が何を見てきたか、何を見ても立っていられるかを知る者は、もう止めなかった。
ルシアンは担架の前で足を止めた。
「開ける」
「お願いします」
白布に指を掛ける。布地は朝の湿気を吸って重く、持ち上げると指先に冷たさが残った。ゆっくりめくっていく。
切断面には乾き始めた血が暗く残っていた。刃物が通った場所の周囲では肌が引き寄せられ、肩口の布へ滲んだ染みが、乾きながら暗く広がっている。香油の名残だろうか。微かな花の匂いが鉄の匂いに混じり、生きていた女が鏡の前で身支度を整えた時間だけを、そこへ残していた。
セレネは担架のそばへ膝を折り、黒手袋の指先で白布の端を押さえる。海色の瞳は断面から逸れず、首筋、衣服、肩口、布に飛んだ細かな点、乾いた血の縁を順に追っていく。彼女の呼吸は浅かったが、乱れてはいない。
ルシアンは、その横顔を見下ろした。
こういう時ほど、セレネは余計な反応を表に出さない。恐れも嫌悪も、飲み込んでしまう。飲み込んだものがどこへ行くのか、ルシアンには分からない。分からないからこそ、彼女が何も感じていないように扱われるのが腹立たしかった。
遠くで陶器の触れ合う音がした。誰かが朝食用の盆を運んでいるのだろう。普段なら気にも留めない生活の音が、切られた首のない亡骸のそばで、やけにはっきり聞こえた。
「切断が生前か死後かは、今の段階では断定できません」
「分かる範囲でいい」
セレネの指先が衣服の襟元へ近づき、触れる直前で止まった。彼女は無闇に遺体を乱さない。角度を変える時も、布の下へ手を差し込む時も、紙片の折れ目を読むように慎重だった。
「刃が薄いです」
ルシアンは目を細める。
「薄い?」
「押し潰した痕がほとんどありません。肉も骨も、叩き割ったのではなく、一度で通されています」
セレネは断面の片側を見て、それから反対側へ視線を移した。
「刃幅は広くありません。重い斧や鉈ではないと思います。ですが、短剣では届きません」
ルシアンは首筋に残る切れ目を見た。
荒れた刃なら、布を裂いた時と同じように皮膚の端が乱れる。力任せに断てば、骨の周りに潰れた跡が残る。だが、そこにはそうした抵抗の跡が少なかった。
「長い、片刃の刃物か」
ルシアンが言うと、セレネは小さく頷いた。
「おそらく。細身で、よく研がれたものです。儀礼用の剣ではありません」
「騎士の剣でもないな」
「はい。戦うための刃というより、切るためだけに手入れされた刃です」
その言い方で、ルシアンの胸の奥に嫌なものが沈んだ。
殺しに慣れた刃ではない。見せるために選ばれた刃でもない。肉を断つことを知っている道具だ。
「料理人か、解体に関わる者か」
「可能性はあります。ただ、この屋敷の厨房刃物なら、すぐに照合できます」
セレネは亡骸から視線を外さない。
「同じ刃なら、布にも癖が残ります」
ルシアンはもう一度、亡骸の首元を見る。怒りに任せて振るわれた傷には見えない。争った拍子に生まれたものでもない。細い首筋のどこを断つか、前もって決めていたような痕だった。
白布を戻すと、布の輪郭がまた首のない身体を隠した。だが、隠れたものの形は、見た後ではもう消えない。
セレネが立ち上がる。膝を伸ばす時、ほんのわずか身体が遅れた。ルシアンは手を出しかけ、彼女が自分で体勢を戻したため、指を握り込むだけに留めた。
「文机に手紙がある」
ルシアンは声を落とした。
「俺は読んだ。署名はない」
セレネは白布から視線を離し、静かに頷いた。
二人はビアンカの部屋へ戻った。
窓辺には昨夜のままらしい花が飾られている。淡い桃色の花弁は端がわずかに萎れ、硝子瓶の水にはまだ濁りがない。机の上には小さな香水瓶が三つ並び、蓋の開いた化粧箱のそばに真珠の耳飾りが片方だけ置かれていた。もう片方を探していた途中だったのか、白いハンカチが引き出しに半分挟まっている。
寝台の上には脱ぎ替えた薄布の羽織が残り、椅子の背には夜会用の手袋が掛けられていた。姿見の前には、裾を直した時に落ちたらしい糸屑が小さく残っている。ここにあるのは死の準備ではなく、夜会へ向かう支度の名残だった。
ルシアンは室内を見回した。
死んだ人間の部屋というより、まだ本人が戻ってきて、なくした耳飾りを探し、花瓶の水を替え、侍女へ小言を言うはずの部屋だった。だからこそ、本人だけが抜き取られたような穴が、室内のどこにも見えた。
セレネは文机へ近づいた。
机の端には、細紐が巻かれた小箱が置かれている。蓋は半分開いたままで、中には同じ色の紐が数本残っていた。
「これが手紙だ」
ルシアンは文机の上に置かれた紙へ視線を落とした。
セレネは両手で手紙を持ち、文面を読んだ。
『忘れてしまっても構いません。
あなたが私の名を思い出せなくても、結び目は消えません。
今度こそ、迎えに行きます』
セレネの指先の下で改めて見ると、言葉の輪郭が少し違って見える。すべてを知った後では、迎えに行きますという一文が、恋文の結びではなく、手順の最後に置かれた合図のようだった。
セレネはしばらく文字を見ていた。
「恋文のように見えます」
「形だけだがな」
「はい」
セレネの視線は、最後の一文に止まっている。
「恋文なら、相手に選ばせます」
「これは違うのか」
「返事を待つ文ではありません」
短い言葉だった。
それ以上、セレネは説明しない。けれど、ルシアンには十分だった。
愛している。会いたい。忘れないでほしい。そういう言葉ではない。忘れていても構わない。名前を思い出せなくても構わない。それでも結び目は残る。迎えに行く。
相手の意思が、どこにもない。
ルシアンは紙の端を睨んだ。
「勝手に結んで、勝手に迎えに来る気か」
リボン。首元の線。名を失った贈り主。手紙に残る、迎えに行くという言葉。ひとつずつは小さなものなのに、繋げようとすると喉の奥に冷えた金属の味が残る。
セレネは机の引き出しを開けた。封蝋、便箋、香水瓶、髪飾り。どれも普通の令嬢の持ち物だった。小さな鏡には指紋が残り、香水瓶のひとつは蓋が少し緩んでいる。手紙を隠すための二重底も、薬瓶も、暗号表も見当たらない。
次に、脇へ積まれていた数冊の日記へ触れる。
革張りの日記帳は端が擦れていた。金具のあたりには何度も開閉された痕があり、頁の角は指で捲られ続けて柔らかくなっている。セレネが一冊目を開くと、紙の間から、若い令嬢の暮らしが薄い香りのように立ち上がった。
夜会の招待状を受け取った日の浮き立つ筆跡。仕立て屋へ何度も直させたドレスの色への迷い。新しく届いた香油を手首に落とした時の小さな高揚。友人との会話も、侍女が髪を結い直すのに失敗して二人で笑ったことも、母に少し派手ではないかと言われた紐飾りを、それでも引き出しへ戻せなかったことも、頁の中には丁寧に残されていた。
どこにでもある令嬢の日常だった。華やかで、退屈で、小さな見栄と期待に満ちている。ルシアンが普段なら読み飛ばすような些細な記述が、今は紙の重みを増して見えた。死者が特別な存在へ変わる前、彼女はただ、その日ごとの装いと噂と誰かへの想いに心を動かしていたのだ。
途中に、リボンについて書かれた頁があった。
『あの色は少し派手かと思ったけれど、鏡で見ると嫌ではなかった』
『侍女には似合うと言われた』
『もし 様が見てくださったなら嬉しい』
文字は普段より少し大きく、行の終わりがわずかに上がっていた。筆先に迷いは少なく、その装いについて書いている箇所だけ、紙へ残る力がほんの少し強い。ルシアンには、それが恋なのか憧れなのかまでは分からなかった。ただ、その色を誰かに見てもらいたいと願っていたことだけは、紙の上に残っていた。
昨夜のビアンカは、確かにそのリボンを大事そうに触っていた。誰にもらったのか分からないのに、捨てられず、外せず、首に結んでいた。思い出せない空白ごと、大切にしていたのか。
セレネの指が止まった。
「殿下」
低い声だった。ルシアンは隣へ寄る。
頁の中央に、空白があった。
『 様は今日もいらっしゃらなかった』
『 様はまた別の方へ贈り物をされたらしい』
『けれど、 様は私にはリボンをくださった』
名前が入る場所だけが抜けていた。
紙を削った傷はない。インクを潰した滲みもない。後から消したなら残るはずの繊維の荒れも見えない。だが文章の流れから見て、そこに誰かの名があったことだけは分かる。名前だけを避けて筆が進んだのか、書いた本人の手がそこだけ空白を選んだのか。どちらにせよ、頁の白さは、ただの余白には見えなかった。
セレネは頁を戻さず、さらにめくる。
『今日は久しぶりに 様とお話できた』
『 様は覚えていてくださった』
『やはり、私は 様を――』
そこで文章は途切れていた。
インクは途中で乾き、最後の線だけが細く掠れている。筆跡が乱れているわけではない。ただ、言葉を続ける直前で手が止まり、そのまま頁を閉じたように見えた。
ルシアンは頁から目を離せなかった。
感情は残っている。期待も、嫉妬も、喜びも。贈り物を覚えている。会話を覚えている。相手が別の女へ贈り物をしたことに傷ついた記録まである。なのに、肝心の名だけが残っていない。
人は、誰かを好きになった記憶から、名前だけを失うことがあるのか。
あるはずがない。
「他の頁も確認する」
ルシアンは別の日記帳を取った。セレネが一瞬だけ彼を見る。その目は、少しだけ深くなっていた。
二人で頁を捲る。
そのリボンが初めて出てくる日。舞踏会の帰りに誰かへ送られた日。廊下ですれ違った日。庭園で短く話した日。どの頁にも誰かがいる。だが、その名だけが空いている。
『 様は雨がお嫌いらしい』
『 様は右手で杯を持たれる』
『 様は私の装いを見て、よく似合うと――』
そこでまた途切れる。
細かな特徴は残っている。雨が嫌い。右手で杯を持つ。身に着けたものを褒めた。声の低さに触れた記述もあった。だが名前だけがない。姓も、爵位も、愛称も、頭文字すらも。
さらに頁を進めると、数日前の日付に、夜会の支度についての記述があった。筆跡は整っている。けれど、首元の装いについて触れた行だけ、インクが少し濃い。
『明日の夜会には、あのリボンを結んでいこうと思う』
『少し派手だと母には言われたけれど、 様はきっと笑わない』
『 様が、似合うと言ってくださった色だから』
リボンを褒めた相手がいた。夜会へそれを結んでいこうとするほど、ビアンカはその言葉を大切にしていた。だが、その名だけが、ここにも残っていなかった。
それも、削られたのではない。塗り潰されたのでもない。
紙は白いままだった。繊維の荒れもなく、インクの滲みもなく、そこだけ最初から何も書かれなかったように滑らかな空白が残っている。だが文章の流れは、その白い場所へ確かに名を求めていた。
セレネは頁へ視線を落としたまま、黒手袋の指先を動かさなかった。
「……この世界に、魔法は本当はあるのでしょうか」
こぼれた声だった。
ルシアンは顔を上げる。セレネは冗談を言う顔ではなかった。だが、彼女自身もその言葉を信じ切っているようには見えない。ただ、削った跡もなく、潰した跡もなく、名だけが抜け落ちた頁を前に、自分の知る言葉を使わなければ触れられないものを見てしまっただけなのだろう。
「魔法とは何だ」
セレネは頁の空白を見たまま答えた。
「以前いた世界で語られていた、架空の力です。理屈を飛ばして、不可能を可能にするもの」
「便利すぎるな」
「ええ」
彼女はわずかに頷く。
「だから、私は嫌いです」
ルシアンはその横顔を見る。薄墨色の袖口から覗く白い手首。黒手袋の指先は日記の上に置かれているが、力は入っていない。疲れているはずなのに、彼女の瞳だけは文字から離れなかった。
理屈が飛んで見えるだけなら、飛んだ部分を探せばいい。
名が消えたなら、消えた理由がある。誰かが消したなら手段がある。人が忘れたなら、忘れさせたものがある。物が残っているなら、そこから辿れる。
魔法で片付けるには、まだ早い。
ルシアンは日記の空白へ目を落とした。
「日記はすべて押収する。手紙、小箱、細紐もだ。侍女達には、誰がこれを用意したか、誰が結んだか、誰が昨夜最後に会ったかを確認しろ」
扉近くに控えていた隊員が頷く。
「承知しました」
隊員が出ていく。扉が閉じると、室内には再び花の匂いと紙の匂いが残った。
セレネは開いたままの日記へ視線を落としている。黒手袋の指先は、バルトの名が入るはずだった空白のそばで止まっていた。
ビアンカは、忘れていなかった。
リボンを褒められたことも、贈り物を受け取ったことも、会えなかった日の寂しさも、別の令嬢へ贈り物をされた時の痛みも、紙の上には残っている。
残っていないのは、バルトの名だけだった。




