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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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白潮紙

 王城へ戻った頃には、陽はすでに高くなっていた。


 馬車の窓に映る王都は、事件など知らない顔で昼へ向かっている。ルシアンは窓の外を見ていたが、目の奥には、レーヴェル子爵家の廊下と、日記に残った白い空白がまだ消えずに残っていた。


 向かいに座るセレネは、膝の上で手袋を嵌めた指を揃えている。姿勢は崩れていない。けれど、馬車が揺れるたび、肩の力がほんのわずかに遅れて戻った。


「着くまで寝ていろ」


 ルシアンが言うと、セレネは視線だけを上げた。


「眠れません」


「目を閉じるだけでいい」


 セレネは少しだけ黙った。反論を探すように睫毛が伏せられ、それから膝の上で揃えた指先がわずかに緩む。


「……分かりました」


 眠ったわけではない。けれど、セレネは静かに瞼を伏せた。


 それだけで、ルシアンは今は十分だと思うことにした。押収品の入った箱を膝の上で押さえ直す。中には、ビアンカの手紙、日記、文机から見つかった小箱、聞き取りの控えが収められている。紙と革と布だけの重さのはずなのに、膝に乗る箱は妙に沈んで感じられた。


 王城の回廊は、昼前の仕事に入った者たちの足音で満ちていた。磨かれた床石には窓の光が長く落ち、遠くから書記官の声や甲冑の擦れる音が聞こえる。ルシアンが王族特務隊の執務室へ向かうと、扉の前に立っていた隊員がすぐに頭を下げた。


「中は」


「クライヴ隊長補佐と、アステリオス公爵令息のみです」


「ああ」


 扉を開けると、乾きかけたインクと古い紙の匂いがした。


 クライヴは机の横に立ち、夜明け前から増え続けた報告書を分類していた。上着は乱れていないが、袖口に薄くインクが付いている。シオンは窓際の椅子に浅く腰掛け、片肘を背もたれに預けていた。いつものように気怠げな姿勢だったが、翠の瞳の下には疲れが残っている。眠っていない顔だ。


「おかえり」


 シオンは軽く手を上げた。


「首尾は?」


「よくはない」


「だろうね」


 笑うような声だった。だが、笑みは薄かった。


 ルシアンは押収品箱を机に置いた。木箱の底が机板へ触れる音に、クライヴの手が止まる。セレネは椅子へ腰を下ろしたが、背筋はまっすぐだった。ルシアンはそれを横目で見て、ひとまず何も言わず、箱の留め金を外す。


「日記はすべて押収した。手紙と小箱もだ。聞き取りは整理し直せ。反応した言葉、途切れた名前、覚えている特徴を分ける」


「承知しております。屋敷側からの追加報告も届き次第、照合します」


 クライヴが答える。その声はいつも通り落ち着いていたが、机の上に置かれた手紙へ一瞬だけ視線が落ちた。


 シオンは椅子から立ち上がらなかった。だが、机上に広げられていく証拠品を、何気ない顔で眺めている。日記、便箋の控え、小箱。そして、手紙。


 彼の視線は、手紙を見た瞬間に止まった。


「……それ」


 低く、先ほどより乾いた声だった。


 ルシアンは顔を上げる。


「何だ」


 シオンは椅子から立ち上がり、机へ近づいた。


 文面を読む前に、指先が紙の端へ向かう。


「見ても?」


「証拠品だ。手袋を使え」


「分かってるよ」


 シオンはクライヴから薄手の手袋を受け取り、手紙を持ち上げた。窓へ近づき、斜めに差し込む昼の光へかざす。薄い紙の中に、ほとんど見逃しそうな筋が浮かんだ。花弁の脈にも、水に溶けた糸にも見える、淡い模様だった。


 シオンの指が止まった。


「……白潮紙(しらしおし)だ」


 聞き慣れない名だった。


「しらしおし?」


 ルシアンが問うと、シオンは紙から目を離さないまま頷いた。


「レヴァンティスの宮廷紙。南岸で潮花(しおばな)が咲く数日だけ漉ける紙だよ」


 彼の声には、軽さが戻っていない。


「王都で買えるものか」


「無理だね。少なくとも、普通の商人が気軽に扱う紙じゃない」


 シオンは手紙をわずかに傾けた。光の角度が変わり、紙の中の筋が消え、また浮かぶ。


「王太女宮や王家に近い文で使う。正式な招待状、返書、婚約者候補への通知。そういうものにね」


「なぜお前が知っている」


 ルシアンが低く問うと、シオンは唇だけで笑った。


「婚約者候補は、紙の産地まで叩き込まれるんだよ。笑えるだろ」


 笑える話ではなかった。


 セレネが椅子から静かに身を乗り出す。深い海色の瞳が、シオンの手元の紙へ向けられていた。彼女の表情は変わらない。ただ、瞬きが少しだけ減っている。


「白潮紙は、偽造できますか」


 セレネが短く問う。


「似せることはできる。でも、この透かしは難しい。潮花の繊維が混じると、光に当てた時の筋が独特なんだ。紙だけ真似ても、同じようには出ない」


「職人は限られますか」


「限られる。作れる時期もね」


 シオンはそこで初めて、手紙の文面を見た。目が文字を追う。忘れてしまっても構いません。私の名を思い出せなくても。結び目は消えません。今度こそ、迎えに行きます。


 彼の喉がわずかに動いた。


「……最悪」


 小さな声だった。


 ルシアンは眉を寄せる。


「何がだ」


 シオンは手紙を机へ戻し、クライヴの方を見た。


「他の押収品に、紙片は残ってる?」


 クライヴはすぐに動いた。机の端に重ねられていた証拠控えを取り、封筒を開く。中から取り出されたのは、焼け残りのように縁が茶色くなった紙片と、封筒の角らしい小さな切れ端だった。どちらも事件発生時には、ただの紙片として分類されていたものだろう。


「第一の被害者の私物箱から紙片が一点。第二の被害者の資料束に混入していた封筒片が一点。どちらも差出人不明の文書に関係する可能性ありとして保管していました」


 クライヴは二つの紙片を薄い硝子板の上に置き、窓際へ寄せた。


 昼の光を受けて、紙の中に同じような淡い筋が浮かぶ。完全な形ではない。だが、同じ水脈の欠片のような模様が、細い破片の内側に沈んでいた。


 ルシアンは無言でそれを見た。


 一つなら偶然で済む。珍しい輸入紙が、王都のどこかへ流れた可能性もなくはない。だが、死んだ者たちの周囲から同じ紙が出てくるなら、話は変わる。


「同じものか」


 ルシアンが問うと、シオンはしばらく紙片を見つめた。


「断定はできない。けど、かなり近い」


「確定には何が要る」


「レヴァンティスの人間に見せた方がいい。王太女宮の文書に触れたことがある人間なら、俺より確かだ」


 シオンはそこで、ほんの一瞬だけ言葉を止めた。窓の光が翠の瞳に入る。いつもの甘さを含んだ色ではなく、遠い場所から戻ってきたような、乾いた光だった。


「それと」


「まだあるのか」


「嫌なことを思い出した」


 ルシアンの視線が鋭くなる。


 シオンは笑おうとしたようだった。だが、口元だけがわずかに動いて、すぐに消えた。


「物語の中にも、この紙を使う奴がいた」


 執務室の外で、誰かが書類を運ぶ足音が過ぎていく。いつもならただの仕事の音だ。だが、今は机の上に置かれた薄い紙が、その音を遠ざけるように白く光っていた。


「誰だ」


 ルシアンが問う。


「そこまでは、まだ繋がらない」


「思い出せないのか」


「断片だけだよ。白い紙。潮花の透かし。王宮に近い文。俺が知っていた筋書きのどこかに、確かにあった」


 シオンは手紙から目を離さなかった。


「でも、少なくとも人が首を落とされる話じゃなかった」


 セレネの指先が、膝の上でわずかに止まった。ルシアンはそれを見たが、声には出さなかった。


「クライヴ」


「はい」


「レヴァンティス側で、まだ王都に残っている者はいるか」


 クライヴはすでに儀典局から回された滞在者名簿へ手を伸ばしていた。紙をめくる音が小さく続く。湿気を含んだ紙が、指の下で鈍く擦れた。


「使節団本隊は帰国済みです。ただし、祝宴後の贈答品、礼状、滞在費、外交記録の確認で数名が残っています」


「白潮紙を見られる人間は」


 クライヴが名簿の一箇所で指を止めるより先に、シオンが答えた。


「ヴィオレッタ・アルディーノ」


 その名に、ルシアンは目を細めた。


 南回廊で会った女の姿が脳裏を掠める。孔雀青のドレス。甘く整えられた微笑み。言葉の端に、レヴァンティス特有の近すぎる距離を含ませる令嬢。王太女宮に近い高位の家柄だと、儀典局が告げていた。


「あの女か」


「彼女なら見間違えない」


 シオンは手紙を机に置いた。紙は白い。だが、その白さはもう無害には見えなかった。


「王太女宮に近い家の令嬢だ。白潮紙が本物かどうか、誰が使える紙かも分かるはずだよ」


「お前より詳しいのか」


「少なくとも、俺より嫌な顔をすると思う」


 軽口に戻そうとした声だった。だが、最後まで軽くはならなかった。


 ルシアンは机の上を見る。名のない手紙。白潮紙の透かし。第一、第二の被害者の押収品に混じっていた紙片。ビアンカの日記から抜けたバルトの名。ひとつずつはまだ、確定した答えではない。けれど、同じ方向へ細い線が伸びている。


 アルヴェリアの貴族屋敷で起きた殺人事件。


 そう呼ぶには、机の上の紙は隣国の色を帯びすぎていた。


「クライヴ」


「はい」


「儀典局へ確認しろ。ヴィオレッタ・アルディーノがまだ王都にいるなら、すぐに連絡を取れ」


「承知しました」


 クライヴが名簿を閉じる。インク壺のそばで、白潮紙の端が昼の光を受けて淡く透けていた。


 ルシアンはその紙から目を離さず、低く告げた。


「ヴィオレッタ・アルディーノを呼べ」

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