孔雀青の残香
昼の光が、執務室の机へ斜めに落ちていた。
押収した便箋。綴じ紐。封蝋の欠片。開かれたままの日記。その中央へ置かれた白い紙だけが、窓際の明るさを吸ったように淡く浮いて見える。
ルシアンは椅子へ深く座ったまま、指先で目元を押さえた。
寝不足が重い。
王都へ戻ってから、まともに眠れていない。だが机上へ並ぶ物を見ていると、休む気にもなれなかった。
隣では、セレネが静かに白潮紙を見ている。昼の光を受けた黒髪はいつも通り滑らかに整えられていたが、白い指先だけが少し冷えて見えた。昼前に馬車で目を閉じていた時より、むしろ疲労は濃くなっている気がする。
それでも本人は何も言わない。
海色の瞳だけが、白い紙へ静かに落ちている。
廊下側で控えめなノックが響いた。
「殿下。ヴィオレッタ・アルディーノ嬢をお連れしました」
クライヴの声だった。
「ああ。入れ」
扉が開く。
最初に入ってきたのは香りだった。
甘い花の香油が、昼の乾いた空気へゆっくり混ざっていく。続いて、細い金具が触れ合う微かな音。
クライヴが一歩横へ避けた向こうから、ヴィオレッタ・アルディーノが姿を現した。
深い紅の薄布が、歩くたび肌の上で揺れている。胸元を支える布は細く、肩から腹部にかけて大きく素肌が覗いていた。腰骨の辺りを渡る金鎖には赤い石が下がり、歩幅に合わせて小さく灯りを返す。深く入った裾の切れ込みからは、白い脚線が一瞬ずつ覗いた。
王都の令嬢なら、まず昼間に着ない格好だった。
視線を隠すためではなく、受けるための衣装。
「お久しぶりね、シオン」
ヴィオレッタは微笑みながら真っ直ぐシオンへ歩み寄り、そのまま当然のように腕を回して身体を寄せた。深い紅の薄布が擦れ、赤い石がシオンの肩口へ触れるほど近くで、甘い香油の匂いがふわりと濃くなる。
「久しぶり。元気そうで何より」
「あなたこそ。少し痩せた?」
「寝不足なだけ」
シオンは苦笑している。目の前で見ていると、なおさら距離感がおかしい。あれがレヴァンティスでは普通なのかと思いながら横へ視線を向けると、セレネは何も言わず、静かに二人を見ていた。
海色の瞳は抱擁したままの二人へ向いているが、口元も指先も動かない。ただ黙って、その様子を見ている。
ヴィオレッタはようやく身体を離すと、今度はルシアンへ向き直った。
「急なお呼び出しで驚きましたわ、第三王子殿下」
「悪いな。確認したい物がある」
「シオンから少し聞いております」
歩み寄るたび、薄布の奥で白い腹部が覗く。腰鎖の赤い石が灯りを受け、小さな光を机へ散らした。
この姿のまま執務室に置いておくのは、若い特務隊員にもよくない。ルシアンは片手を上げ、扉のそばに控えていたクライヴへ視線を送った。
「何か羽織るものを」
クライヴは一瞬だけヴィオレッタの肩元を見て、すぐに目を伏せた。
「承知しました」
ヴィオレッタが肩を竦める。
「アルヴェリアの方は、本当に慎み深いのね」
「王城だからな」
「レヴァンティスなら普通ですのに」
からかう調子ではなく、本気で不思議そうだった。
ほどなくして、クライヴが深紺の肩掛けを持って戻る。
「どうぞ」
「ありがとう」
ヴィオレッタは肩掛けを受け取ると、礼を言うより先に軽く広げ、紅の薄布を覆うように肩へ流した。深紺の布で肌は隠れたはずなのに、香油の甘さまでは隠れない。彼女はそのまま一歩近づき、当然のようにルシアンの腕へ指先を絡めた。金鎖の飾りが袖口へ触れ、薄布越しの体温が腕に寄る。
「助かりましたわ、殿下」
笑った声が近すぎる。ルシアンは礼を返すより先に、絡んだ指をどう外すべきか考えていた。無下に払えば外交上角が立つ。だからといって、そのままにしておくのも落ち着かない。
ヴィオレッタはそんなこちらの困惑など気づいていないのか、小さく笑っただけで机へ視線を向けた。
その目が、白潮紙で止まる。
先ほどまで浮かんでいた柔らかな笑みが、ほんの少し薄れた。
「……それですか」
ヴィオレッタは机へ近づき、白い便箋をそっと持ち上げる。
窓際へ傾けると、昼の光を透かした紙の内部に淡い筋模様が浮かび上がった。細い花弁を漉き込んだような白い繊維が、薄く揺れて見える。
長い爪の先が、紙の端を静かに撫でた。
「……白潮紙ですわね」
低い声だった。
「本物か」
「ええ」
ヴィオレッタは視線を落としたまま頷く。
「外へ出回る紙ではありません」
白い指先が、潮花の繊維へ触れる。
「わたくしも王太女宮へ出入りしておりますから、何度も扱いましたけれど……使える者は限られています」
静かな声が執務室へ落ちる。
「王家。王太女宮に仕える上級官女。王家の縁者。それから、正式に名を連ねた婚約者くらいですわね」
クライヴの筆が紙の上を走る音がした。
ようやく、見るべき場所が形を持ち始める。白潮紙が珍しいかどうかではない。誰が触れられたのか。どこを通って王都へ入り、誰の手でビアンカの部屋へ置かれたのか。それを追わなければならない。
セレネが短く言った。
「王都側だけでは、確認できません」
「ああ」
ルシアンは白潮紙から顔を上げる。
「王太女宮の文書管理は、こちらからは洗えない」
シオンが壁際で腕を組み直した。薄い笑みは残っているが、目元には先ほどまでの軽さがない。
「向こうへ入らないと無理だね。誰が白潮紙を持ち出せたか、誰が最近記録から外れたか、婚約者候補の周辺で何があったか。王都で待ってても出てこない」
「お前は案内できるな」
「できるよ。嫌になるくらい覚えてる」
シオンは白潮紙を見下ろしたまま、小さく息を吐いた。
「ただ、レヴァンティスで調べるなら、王太女宮の許可が要る。俺の名前だけじゃ足りない」
「レオニス兄上へ上げる」
ルシアンはそう言って、机の上の押収品を一つずつ見た。日記。手紙。白潮紙。どれも薄く軽い。けれど、並べてしまえば王族一人が隣国へ足を踏み入れるだけの重さになる。
ヴィオレッタが白潮紙を机へ戻す。
「アリアナ殿下へ繋ぐ道なら、わたくしも少しはお役に立てますわ」
「助かる」
ルシアンが答えると、ヴィオレッタは微笑んだ。けれどその笑みは、最初に部屋へ入ってきた時より少し薄い。
シオンの声が途切れたあと、執務室には紙を擦る音だけが残った。ルシアンも机へ視線を落としかけ、そこでふと、セレネがこちらを見ていることに気づく。
海色の瞳は、ルシアン自身ではなく袖口へ向いていた。先ほどヴィオレッタが触れていた場所だ。深紺の布へ視線を留めたまま、セレネは何も言わない。ただ睫毛を伏せ、静かに白潮紙へ視線を戻した。
ルシアンは一拍遅れて、袖口に残った香油の匂いに気づく。
だが今は、それを問いかける時間ではなかった。
「クライヴ。資料をまとめろ。レオニス兄上にもフェリクス兄上にも通す」
「はい」
「レヴァンティスへ行く準備が必要になるかもしれない」
声に出すと、その言葉は思っていたより重く響いた。
窓の外では昼の光が少しずつ傾き始めている。机の上の白い紙は、なお静かにそこへ残っていた。




