月白の夜着
執務室を出た頃には、窓の外がゆっくり群青へ沈み始めていた。石造りの回廊へ夏の夜気が流れ込み、昼から書類を追い続けていた熱を少しだけ冷ましていく。
本来なら、まだ戻る時間ではない。
白潮紙の透かし模様が、閉じた瞼の裏へ残っていた。外交記録、残留使節団名簿、王太女宮と正式文書を交わせる立場。書類を洗うほど、王都側だけでは届かない場所が増えていく。
廊下ですれ違った侍女が、一瞬だけ目を丸くした。
それを見て、ルシアンはようやく自分がかなり早い時間に私室へ戻されていることを自覚する。
「今日は休め」と、クライヴは珍しく強引だった。確かに三日ほどまともに眠っていない。執務室にいる間は気が張っていたが、歩き出した途端、肩へ溜まった重さが妙に身体へ残った。
私室へ入ると、窓は少しだけ開けられていた。夜風が白いカーテンをゆっくり揺らしている。外套を脱ぎ、喉元を緩めながらソファへ身体を沈めた瞬間、張り詰めていた力が抜け落ちた。
少しだけ目を閉じるつもりだったが、背へ凭れた途端に意識が沈み、そのまま重かった瞼が閉じていく。眠りは浅く、夢の続きみたいな感覚のまま、遠くで鳴った微かな金属音だけが意識へ滲んだ。
どれほど眠っていたのか分からない。
薄く目を開けると、部屋はすっかり夜へ変わっていた。窓から入り込む夜風が、薄いカーテンを柔らかく揺らしている。
そこで扉が閉まる音がした。
眠気の残る視界へ、白い布が揺れる。
最初は誰なのか分からなかった。柔らかな布地が歩くたび静かに重なり、その奥で細い銀飾りが微かな音を鳴らしている。肩へ落ちた黒髪が揺れた時、その隙間から覗いた横顔でようやくルシアンは目の前の人物がセレネだと理解した。
「……セレネ」
掠れた声が落ちる。
セレネはただ立ったまま、ルシアンの反応を待っていた。
普段のセレネなら、こんな夜着は選ばない。けれど今夜纏っているそれは驚くほど軽く、肩から背へかけて大きく開いていた。歩くたび重なった布が揺れ、その隙間から普段なら隠れている肌が見えてしまう。背中へ落ちた黒髪の間では、細い銀飾りが淡く光を返していた。
裾へ入った深い切れ込みのせいで、足を動かすたび白い脚がわずかに覗く。
昼間、ヴィオレッタが纏っていた異国の薄布を思い出す。だがあれとは違う。目を奪うのに、どこか触れれば壊れてしまいそうな危うさがあった。
ソファの前で足を止めた拍子に、肩から落ちかけた布がふっと揺れる。反射みたいに視線を逸らしたが、一度見えてしまった肌の白さが妙に頭へ残り、ルシアンは喉の奥で低く息を吐いた。
ルシアンが長い間黙ったままだったからだろう。セレネは夜着の端を指先で少し摘み、小さく視線を伏せる。
「……あまり、似合いませんか」
「いや、そうじゃない」
声が少し掠れた。
逸らしたはずの視線が、数秒後にはまた戻ってしまう。動くたび揺れる布も、黒髪の隙間で揺れた銀飾りも、一度目へ入ると離せなかった。しかもそれを、自分のために着ている。
その事実だけで落ち着かない。
セレネは少し迷うように睫毛を伏せ、それから小さく口を開いた。
「リリアーナ様とミレイユ様が、男性はこういうものを好むと仰っていたので」
その言葉を聞いた瞬間、ルシアンは片手で目元を覆った。
あの二人、何を教えてるんだ。
そう思うのに、また視線が戻ってしまう。布が揺れるたび、普段は見えない場所まで視界へ入りそうになって落ち着かなかった。
「……ルシアン?」
呼ばれても、すぐには言葉が出ない。
ルシアンは目を閉じたまま息を吐く。
「お前、俺が平気だと思ってるのか」
掠れた声だった。
セレネは何も笑わない。ただルシアンを見ている。その視線を感じるだけで、妙に喉が渇いた。
海色の瞳を見た瞬間、不意に昼間の執務室が脳裏を掠める。深紅の薄布。残った香油。自分の袖へ触れた指先。そして、そのあと何も言わず袖口へ視線を落としていたセレネ。
そこでようやく繋がった。
「……妬いたのか」
セレネはすぐには答えなかった。夜着の端を握る指先へ少しだけ力が入り、それから小さく頷く。
ルシアンはしばらく何も言えなかった。
こんな風に素直に認められるとは思っていなかったからだ。
セレネは急かさない。ただルシアンの反応を待っている。視線を上げるたび、薄い布越しの肌が思った以上に近く見えてしまい、ルシアンは低く息を吐いたあと、ようやく手を伸ばしかけた。
だが触れる直前で止まる。
「……抱きしめてもいいか」
自分でも驚くほど低い声だった。
セレネは小さく瞬きをし、それから頷く。
ようやく腕の中へ抱き寄せた身体は驚くほど軽かった。柔らかな布越しの熱が近い。さらりと黒髪が腕を滑り、銀飾りが微かな音を立てる。抱き締めた瞬間、背中がほとんど隠れていないことを改めて理解してしまい、ルシアンは短く息を止めた。
セレネの指先が、そっとルシアンの袖を掴む。
額へ唇を落とすと、少し冷えた肌へ自分の熱が移る気がした。そのまま距離が近づく。触れそうなほど近い場所で一度止まると、セレネは逃げる代わりにほんの少しだけ顔を上げた。
近い呼吸が混ざる。
ルシアンはそこでようやく、そっと唇を重ねた。
深くはない。
けれど離れ難い。
一度離れかけた時、セレネの指先が袖を小さく引いた。ほんの少しだけ。それでも、その控えめな力が何を求めているのかは十分すぎるほど分かってしまう。
セレネは視線を伏せたまま、もう一度唇を寄せる。
その瞬間、抱き寄せる腕へ力が入りかけた。
けれどルシアンは低く息を吐き、額をセレネの肩へ押し当てる。
「……駄目だ」
掠れた声が落ちた。
「このままだと、多分ちゃんと止まれない」
セレネは何も言わない。ただ、ルシアンの袖を掴む指先だけが離れなかった。
肩へ落ちた黒髪が、ルシアンの頬をかすめる。
「……似合って、いましたか」
ぽつりと落ちた声に、ルシアンは目を閉じたまましばらく返事ができなかった。
そんな聞き方をされると思っていなかった。
やっとのことで息を吐き、額を押し当てたまま低く返す。
「似合いすぎて困ってる」
その瞬間、袖を掴む指先へほんの少しだけ力が入る。
ルシアンは低く息を吐いたあと、名残を断ち切るみたいにセレネの額へ軽く唇を押し当て、そのまま腕の中へ抱き上げた。
突然身体が浮いたことで、黒髪が肩からさらりと滑り落ちる。柔らかな布越しの熱が思った以上に近い。背中へ回した指先の下にはほとんど布がなく、銀飾りが腕へ触れた瞬間、ルシアンは一瞬だけ目を閉じた。
「……その格好で平気な顔するな」
掠れた声へ、セレネは答えない。ただ腕へ触れる指先へ少し力が入る。
寝台へ下ろしたあとも、その手は離れなかった。
ルシアンは苦笑混じりに息を吐き、もう一度だけ軽く唇を重ねてから、自分もそのまま隣へ身体を沈める。
「今日は一緒に眠ろう」
囁いた声は、自分でも驚くほど甘かった。
「お前とこうして眠れるなら、それだけで十分幸せだから」
言ったあと、ルシアンは少し黙る。
けれどセレネは笑わなかった。ただ静かに目を伏せ、そのままルシアンの胸元へ額を寄せる。
窓から入り込む夜風が薄いカーテンを揺らし、眠りへ落ちる頃になっても、セレネの指先はまだルシアンの袖を掴んだままだった。




