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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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微睡みの口づけ

 首元へ、冷たい線が触れていた。刃先に似た感触が肌を細くなぞり、喉は声を作れないまま、ただ熱だけを奥へ閉じ込めている。逃げようとした身体は動かず、視界の端へ滲んだ赤が、誰のものかも分からないまま揺れていた。


「ルシアン」


 耳元へ落ちた声で、ルシアンは息を詰めたまま目を開けた。


 白い天蓋布が朝の光を薄く含み、少し開いた窓から入る夏の風が寝台脇の薄布をゆっくり揺らしている。夢の冷たさはまだ首筋へ残っていたが、身体は驚くほど軽かった。ここ数日まともに眠れていなかったはずなのに、肩へ沈んでいた重さは薄れ、頭の奥にあった鈍い痛みも消えている。深く眠ったのだと気づいた瞬間、腕の中で柔らかな温度が動いた。


 セレネが、昨夜のままルシアンの腕を枕にしていた。


 黒髪は白い寝具の上へゆるく広がり、眠っている間に少し乱れた夜着が肩から滑りかけている。腕へ残る軽い痺れよりも、近すぎる距離の方が先に意識へ触れた。視線が落ちた拍子に、薄い布の隙間から普段なら隠れている肌の奥が見えてしまい、ルシアンは反射みたいに目を逸らす。


 朝から心臓に悪すぎる。


「大丈夫ですか」


 眠気を残した声だった。海色の瞳がすぐ近くから見上げている。


 ルシアンは首元へ指を当て、そこに傷がないことを確かめてから低く息を吐いた。


「……悪い。起こした」


「呼んでも、少し苦しそうでした」


「首を切られる夢を見た」


 言葉にすると、肌へ残った冷たさと、声にならなかった喉の苦しさが薄く戻る。セレネはすぐには答えず、ルシアンの首筋へ指を伸ばした。細い指先が傷などない肌を確かめるように触れ、その場所へ夢とは違う体温を残していく。


 少し考えるように睫毛を伏せたあと、セレネは身体を寄せた。柔らかな口づけが、短く唇へ触れる。


「これで、怖くありませんね」


 子供をあやすような声音だった。


 ルシアンはしばらく言葉を返せなかった。夢の嫌な感触は薄れていくのに、別の熱が喉元でつかえている。朝の光の中のセレネは昨夜よりも無防備で、乱れた黒髪も、少しずれた夜着も、自分へ口づけた後の落ち着いた顔も、全部が心臓に悪い。


「……お前な」


「まだ怖いですか」


「違う」


 説明できないまま、ルシアンはセレネを腕の中へ引き寄せた。柔らかな体温が胸元へ収まり、眠りの匂いと微かな花の香りが混ざる。


「あぁ……ありがとう」


 掠れた声でそう言うと、セレネは何も答えず、ルシアンの胸へ顔を押し込めた。そのまま隠れるように額を擦り寄せる。黒髪が寝間着の上をさらりと滑り、くぐもった吐息が胸元へ落ちた。


 ルシアンは一瞬だけ目を見開き、それから腕の中の温度を逃がさないように抱き直した。


 結局、寝台を出た頃には朝の光がかなり高くなっていた。


 星見宮を出ると、中央庭園の噴水へ白い陽光が落ちている。水面の反射が石壁へ揺れ、朝番の庭師達が剪定した枝葉の青い匂いが風へ混ざっていた。各宮から上がってくる書記官達は封書箱を抱えたまま足早に回廊を行き交い、侍従達の靴音が磨かれた床石を絶え間なく打っている。


 王城は、朝になると巨大な生き物みたいに動き始める。


 外交使節への返書。貴族達からの請願。各地から届く報告書。昨夜まで執務机へ積み上がっていた白潮紙の記録も、その流れの中へもう組み込まれていた。


 中央公務区域へ近づくにつれ、人の流れはさらに増える。高窓から差し込む朝日が白い回廊へ長く伸び、その下を書類を抱えた官吏達が途切れなく通り過ぎていった。


 その光景を見ながら、ルシアンは自分の身体がまだ軽いことに気づく。


 三日近くまともに眠っていなかった疲労が、今朝は妙に薄い。


 夢見は最悪だったはずなのに、胸元へ額を擦り寄せてきた黒髪の感触ばかりが、まだ妙に残っていた。


 思い出した途端、ルシアンは小さく眉間を押さえる。


 あんな顔をされて平然としていられる男がいるなら見てみたい。


 公務区域の最奥へ近づくと、近衛騎士達が無言で一礼した。案内された執務室の前で、ルシアンは持参した証拠品の封筒を一度だけ確かめる。押収時の封印は崩していない。


 第二被害者の婚約者、ビアンカ・レーヴェルに届いていた恋文風の手紙。


 第一、第二の被害者周辺で見つかった紙片。


 どれも軽い紙のはずなのに、手に持つと妙に重さが増す。


 扉が開かれた。


 執務室の奥では、レオニスが長机へ視線を落としていた。机上には外交書簡、決裁前の書類、各地から届いた封筒が整然と積まれている。濃紺の封蝋、王印入りの赤い封緘、国外使節団の紋章。朝の光は高い窓から斜めに入り、その全てへ静かに落ちていた。


 レオニスは手元の書類を閉じ、ルシアンを見る。


「朝から急ぎの報告か」


「はい。今回の事件に関わる証拠品です」


 ルシアンは封筒を机上へ置いた。レオニスは封印を確認してから中身を取り出し、白い紙片を光へ透かす。


 淡い模様が浮かび上がった。


 潮花繊維の細い線が、朝日を受けて静かに滲んでいる。


「……これが、白潮紙か」


「はい。第二被害者の婚約者、ビアンカ・レーヴェルに届いていた恋文風の手紙です。内容自体は短いものですが、後から読めば予告状にも見える形でした」


 レオニスはすぐには口を開かなかった。


 高窓から差し込む朝の光が、薄い紙の繊維を静かに浮かび上がらせている。執務机の端では、決裁待ちの書類が風でわずかに鳴った。


 白い紙は美しい。


 だからこそ、そこへ混じった死の気配だけが妙に浮いて見える。


「他にも」


「第一、第二の被害者周辺で見つかった紙片にも、同じ透かしが確認されています」


 レオニスの指先が紙の端で止まった。


「今回の事件と、これが繋がると?」


「断定はまだできません。ただ、ヴィオレッタ・アルディーノの証言では、白潮紙はレヴァンティス王宮周辺で扱われる正式紙です。市場へ流れるものではなく、触れられる立場も限られます」


 ルシアンは続ける。


「王家、王太女宮の上級官女、王家縁者、正式な婚約者に近い立場。その範囲まで絞られます」


 レオニスは紙から視線を離さなかった。穏やかな顔のまま、目だけが静かに鋭さを帯びていく。


「少なくとも、アルヴェリアだけでは追えません」


「向こうの王宮側へ入る必要がある、ということか」


「はい。白潮紙へ触れられる人間を追うなら、レヴァンティス王宮周辺へ近づくしかありません。シオンも、以前レヴァンティス王太女の婚約者候補として名が挙がっていた関係で、王宮周辺の正式紙には覚えがあるようでした」


「アステリオス公爵家の次男か」


「はい。詳細までは掴めていませんが、レヴァンティス側で確認すべきだという意見は一致しています」


 レオニスは椅子へ凭れず、白潮紙を机へ戻した。他国の王太女宮へ繋がる紙が、王都で起きた連続殺人の証拠品として残っている。



 他国の王太女宮へ繋がる紙が、王都で起きた連続殺人の証拠品として残っている。軽々しく触れれば外交問題になりかねず、かといって慎重になりすぎれば、せっかく掴みかけた線を逃しかねない。レオニスは白潮紙を机上へ戻したまま、しばらく考えるように沈黙していた。


「こちらでも外交記録を洗わせる。残留使節団、贈答品管理、礼状の経路、王太女宮と直接文書を交わせる者を優先する」


「お願いします」


「だが渡航はまだ許可できない。王族が動けば、それだけで意味を持つ。まして相手はレヴァンティスだ」


「承知しています」


 予想していた答えだった。


 それでも、王都だけでは届かない場所が少しずつ増えている感覚だけは消えない。


 レオニスはもう一度、白潮紙を光へ透かした。薄い模様は美しいほど繊細で、けれど消えない。


「準備だけは進めておけ。正式な渡航許可を出すかどうかは、追加の記録を見てから判断する」


「はい」


 ルシアンは頭を下げた。


 公務区域を出た時、回廊へはもう昼前の光が落ち始めていた。遠くで噴水の水音が微かに響き、侍従達の足音が絶え間なく交差している。


 夢の中で首へ引かれた冷たい線を思い出し、ルシアンは無意識にそこへ触れた。


 傷はない。


 それでも、指先へ触れた肌の下で、消えたはずの冷たさだけがまだ薄く残っている気がした。


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