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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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望まれていると知るために

 中央公務区域を出る頃には、昼の光が白い回廊へ深く差し込んでいた。高窓から落ちる陽射しは磨かれた床石の上で細く伸び、書類箱を抱えた侍従や、封書を胸に抱えた書記官たちが、その光を何度も横切っていく。革靴の音、紙束の擦れる音、遠くで開く扉の金具の音が折り重なり、王城はいつものように動いていた。


 白潮紙が示したものは、ただの便箋では済まなくなっている。レヴァンティス王宮周辺、王太女宮、そこへ出入りできる者たち。レオニスへ報告を上げたことで、ようやく王国単位の問題として扱われ始めた。けれど、ひとつ上へ報告を上げるたび、王都の中だけでは手が届かない場所が増えていく。目の前に紙はある。インクも、封蝋も、触れた痕跡もある。それなのに、その紙がどこから来たのかを追おうとすると、海を挟んだ宮殿の扉が見えてくる。


 ルシアンは歩きながら、手元の書類箱へ視線を落とした。箱の中で封書の角が重なり、歩調に合わせてかすかに擦れる。遠い国の宮殿へ伸びかけた思考は、扉を開ける侍従の手袋、銀盆に載せられた封書、女官の衣擦れに少しずつ引き戻されていった。


 この城の中にも、まだ見ていない紙がある。


 白潮紙の出所だけではない。誰がそれを持ち込み、誰が渡し、誰が見逃したのか。王城の奥へ踏み込むほど、事件は水辺の怪異から離れ、人の手が届く棚や帳簿の中へ沈んでいく。


 そう考えたところで、柔らかな声が背後から名を呼んだ。


 ルシアンは足を止めた。振り返るより先に、その声の主が分かる。穏やかで、丁寧で、けれど必要な時には相手を逃がさない声だった。


 窓際に立っていたリリアーナは、淡いピンク色の髪へ昼の光を受け、薄い藤色のドレスの裾を夏の風にわずかに揺らしていた。傍に控えていた女官へ目で少し離れるよう告げてから、彼女はルシアンへ微笑を向ける。王太子妃として人前に立つ時の隙のない顔ではなく、家族の回廊でだけ見せる、少し声を低めた表情だった。


「少しだけ、よろしいですか」


「はい」


 リリアーナは柱の影へ半歩だけ移った。人目を避けるというほどではない。けれど、行き交う書記官たちの耳へ届かない距離を、自然に選んでいる。


「セレネちゃんから、少し聞きました」


 その時点で、ルシアンは嫌な予感がした。


「……何をですか」


「昨夜のことも、です」


 昨夜のことも。


 そこへ含まれた余白に、ルシアンはすぐ返せなかった。手にした書類箱の角が、手袋越しに指へ当たる。回廊の向こうで書記官が二人、低く言葉を交わしながら通り過ぎていった。紙束の端が揺れ、乾いた音だけが近く残る。


「このところ、セレネちゃんは何度か、私たちのところへ来ていました」


「私たち」


 ルシアンが繰り返すと、リリアーナは穏やかに頷いた。


「ミレイユと私です」


 その二人の名が並んだ瞬間、ルシアンは片手で目元を押さえたくなった。柔らかく見えて、時々こちらが言葉を失うほど率直なことを言う王太子妃と、薬瓶や毒草の話をする時と同じ顔で男女の機微を語りそうな義姉。その間にセレネが座り、真剣に話を聞いている姿が浮かんでしまう。


「何を教えたんですか」


「教えた、というほど大げさなことではありません。ただ、セレネちゃんがとても真面目に悩んでいたので」


 リリアーナは、そこでほんの少しだけ目元を和らげた。からかう色はない。むしろ、その表情が穏やかな分だけ、ルシアンには逃げ場がなかった。


「殿下へどうすれば伝わるのか。自分が隣に立つ時、婚約者らしく見えるのか。殿下が、自分をきちんと女性として見てくださっているのか」


 ルシアンは口を閉じた。


 ヴィオレッタ・アルディーノへ貸した上着が返された夜を思い出す。セレネは肩を少し出した装いで現れ、婚約者らしく見えた方がいいのではないかと思った、と静かに言った。ヴィオレッタのような華やかさとは違う、自分の見え方を、彼女なりに考えていたのだろう。あの時、ルシアンは動揺した。だが、その動揺が彼女へどう伝わったのかまでは考えなかった。


 その夜、セレネはさらに口づけを求めた。酒のせいではないかと問い、違うと返され、彼女の視線が少しだけ揺れたことを覚えている。何かに背を押されたような唐突さだった。けれど唐突だったのは、見ていなかったルシアンの方だったのかもしれない。


「……あれも、義姉上たちの助言ですか」


「きっかけは、そうかもしれません」


 リリアーナは否定しなかった。


「でも、最後に動いたのはセレネちゃんです。あの子は、嫌ならしません。人の言葉を真面目に受け取ることはありますけれど、殿下の前へ進むと決めたのは、セレネちゃん自身です」


 風が窓から入り、リリアーナの袖口を小さく揺らした。薄い藤色の布が昼の光を受け、柔らかく影を落とす。


「昨夜の夜着も、同じです」


 ルシアンは喉の奥で息を止めた。


 白い夜着。月の光を吸ったような薄布。指先で端を摘み、似合わないかと尋ねたセレネの声。リリアーナ様とミレイユ様が、男性はこういうものを好むと仰っていたので、と彼女は淡々と言った。言葉はいつも通りだったのに、視線はわずかに落ちていた。


「……セレネから聞いています。義姉上とミレイユが選んだと」


「ええ。かなり悩みました。セレネちゃんに似合うものを、と思って」


 リリアーナは少しだけ困ったように微笑んだ。


「それに、殿下が目を逸らせなくなるくらいのものを」


「義姉上」


 思ったより低い声が出た。


 だが、リリアーナは怯まなかった。笑いすぎることもない。ただ、穏やかな目でルシアンを見ている。


「怒らないでください。おせっかいだったことは分かっています。でも、セレネちゃんは、自分から望むことが得意ではありません。望んでいないのではなく、望み方を知らないだけなのだと思います」


 その言葉に、ルシアンはすぐ答えられなかった。


 昨夜、セレネは寝台のそばに立っていた。こちらが首を切られる夢の名残を引きずっていると、いつもの顔で近づき、怖くありませんね、と言うように口づけた。腕の中へ抱き寄せた時、彼女は逃げなかった。朝方には胸元へ額を押しつけ、少しだけ擦り寄るように動いた。あれを単なる慰めだと片づけることもできた。だが、それだけではなかったはずだ。


「……婚姻前です」


 ルシアンは低く言った。


「それに、あいつは自分の気持ちを言葉にするのが上手くない。俺が勝手に進めていい話ではありません」


「ええ。殿下がそういう方だから、セレネちゃんは安心して傍にいられるのだと思います」


 リリアーナは否定しなかった。責める代わりに、そっと別の角度から言葉を置いてくる。


「でも、安心だけでは足りない時もあります」


 ルシアンの指が、書類箱の縁を押さえた。


「セレネちゃんは、愛されたいと思っているのだと思います。大切に保管されるように扱われたいのではなく、ちゃんと望まれているのだと、殿下から分かる形で受け取りたいのではないでしょうか」


 回廊の遠くで扉が開き、金具の音が細く響いた。誰かが礼を述べ、足音が遠ざかる。昼の王城は変わらず動いているのに、ルシアンの耳には自分の呼吸だけが近かった。


 大切にすることと、望むこと。


 その境目で足を止めていた自覚はある。触れれば壊す気がした。踏み込めば奪うような気がした。だから何度も指を止めた。そのたびに、セレネは何も言わなかった。何も言わないから平気なのだと、都合よく見ていたのかもしれない。


「……ミレイユの件で、義姉上まで随分と大胆になりましたね」


 ようやく出た言葉は、少し掠れていた。


 リリアーナは一瞬だけ目を瞬かせ、それから静かに笑った。


「ミレイユは、順番が少しだけ慌ただしかったですから」


「少し、ですか」


「けれど、フェリクス殿下は幸せそうでしょう」


 そこは否定できなかった。


「私は、セレネちゃんにも幸せになってほしいだけです。婚姻の手続きが早く進めばよいとも思っています。けれど、それより先に、殿下がちゃんとセレネちゃんへ伝えてあげてください」


「何を」


「自分は望まれているのだと、あの子が迷わず信じられるものを」


 リリアーナはそれ以上、具体的には言わなかった。からかうためではなく、背を押すためにここで待っていたのだろう。その気遣いが分かるから、ルシアンは余計に何も返せなかった。


 窓の外では、白い石壁の下に植えられた夏草が風に撫でられている。昨夜のセレネの指先が、夜着の端を摘んでいたことを思い出した。似合わないかと問う声はいつも通りだったのに、ほんの少しだけ視線が落ちていた。


「……軽く扱うつもりはありません」


「分かっています」


 リリアーナは静かに頷いた。


「だから、軽く扱わないまま、ちゃんと近づいてあげてください」


 その言い方は穏やかだった。けれど逃げ場はなかった。


 リリアーナは女官の待つ方へ戻りかけ、去り際に一度だけ振り返る。


「お仕事の邪魔をして、ごめんなさい」


「いえ」


 ルシアンが答えると、リリアーナは柔らかく微笑み、昼の光の中を歩いていった。


 その背を見送ったあとも、ルシアンはすぐには動かなかった。回廊の端で開いた窓から風が入り、手にした書類箱の中で封書がかすかに擦れる。白潮紙の報告、レヴァンティスの王宮、王太女宮。追うべきものは山ほどある。だが、そのすべての手前で、昨夜のセレネの視線がまだ残っていた。


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