望まれていると知るために
中央公務区域を出る頃には、昼の光が白い回廊へ深く差し込んでいた。高窓から落ちる陽射しは磨かれた床石の上で細く伸び、書類箱を抱えた侍従や、封書を胸に抱えた書記官たちが、その光を何度も横切っていく。革靴の音、紙束の擦れる音、遠くで開く扉の金具の音が折り重なり、王城はいつものように動いていた。
白潮紙が示したものは、ただの便箋では済まなくなっている。レヴァンティス王宮周辺、王太女宮、そこへ出入りできる者たち。レオニスへ報告を上げたことで、ようやく王国単位の問題として扱われ始めた。けれど、ひとつ上へ報告を上げるたび、王都の中だけでは手が届かない場所が増えていく。目の前に紙はある。インクも、封蝋も、触れた痕跡もある。それなのに、その紙がどこから来たのかを追おうとすると、海を挟んだ宮殿の扉が見えてくる。
ルシアンは歩きながら、手元の書類箱へ視線を落とした。箱の中で封書の角が重なり、歩調に合わせてかすかに擦れる。遠い国の宮殿へ伸びかけた思考は、扉を開ける侍従の手袋、銀盆に載せられた封書、女官の衣擦れに少しずつ引き戻されていった。
この城の中にも、まだ見ていない紙がある。
白潮紙の出所だけではない。誰がそれを持ち込み、誰が渡し、誰が見逃したのか。王城の奥へ踏み込むほど、事件は水辺の怪異から離れ、人の手が届く棚や帳簿の中へ沈んでいく。
そう考えたところで、柔らかな声が背後から名を呼んだ。
ルシアンは足を止めた。振り返るより先に、その声の主が分かる。穏やかで、丁寧で、けれど必要な時には相手を逃がさない声だった。
窓際に立っていたリリアーナは、淡いピンク色の髪へ昼の光を受け、薄い藤色のドレスの裾を夏の風にわずかに揺らしていた。傍に控えていた女官へ目で少し離れるよう告げてから、彼女はルシアンへ微笑を向ける。王太子妃として人前に立つ時の隙のない顔ではなく、家族の回廊でだけ見せる、少し声を低めた表情だった。
「少しだけ、よろしいですか」
「はい」
リリアーナは柱の影へ半歩だけ移った。人目を避けるというほどではない。けれど、行き交う書記官たちの耳へ届かない距離を、自然に選んでいる。
「セレネちゃんから、少し聞きました」
その時点で、ルシアンは嫌な予感がした。
「……何をですか」
「昨夜のことも、です」
昨夜のことも。
そこへ含まれた余白に、ルシアンはすぐ返せなかった。手にした書類箱の角が、手袋越しに指へ当たる。回廊の向こうで書記官が二人、低く言葉を交わしながら通り過ぎていった。紙束の端が揺れ、乾いた音だけが近く残る。
「このところ、セレネちゃんは何度か、私たちのところへ来ていました」
「私たち」
ルシアンが繰り返すと、リリアーナは穏やかに頷いた。
「ミレイユと私です」
その二人の名が並んだ瞬間、ルシアンは片手で目元を押さえたくなった。柔らかく見えて、時々こちらが言葉を失うほど率直なことを言う王太子妃と、薬瓶や毒草の話をする時と同じ顔で男女の機微を語りそうな義姉。その間にセレネが座り、真剣に話を聞いている姿が浮かんでしまう。
「何を教えたんですか」
「教えた、というほど大げさなことではありません。ただ、セレネちゃんがとても真面目に悩んでいたので」
リリアーナは、そこでほんの少しだけ目元を和らげた。からかう色はない。むしろ、その表情が穏やかな分だけ、ルシアンには逃げ場がなかった。
「殿下へどうすれば伝わるのか。自分が隣に立つ時、婚約者らしく見えるのか。殿下が、自分をきちんと女性として見てくださっているのか」
ルシアンは口を閉じた。
ヴィオレッタ・アルディーノへ貸した上着が返された夜を思い出す。セレネは肩を少し出した装いで現れ、婚約者らしく見えた方がいいのではないかと思った、と静かに言った。ヴィオレッタのような華やかさとは違う、自分の見え方を、彼女なりに考えていたのだろう。あの時、ルシアンは動揺した。だが、その動揺が彼女へどう伝わったのかまでは考えなかった。
その夜、セレネはさらに口づけを求めた。酒のせいではないかと問い、違うと返され、彼女の視線が少しだけ揺れたことを覚えている。何かに背を押されたような唐突さだった。けれど唐突だったのは、見ていなかったルシアンの方だったのかもしれない。
「……あれも、義姉上たちの助言ですか」
「きっかけは、そうかもしれません」
リリアーナは否定しなかった。
「でも、最後に動いたのはセレネちゃんです。あの子は、嫌ならしません。人の言葉を真面目に受け取ることはありますけれど、殿下の前へ進むと決めたのは、セレネちゃん自身です」
風が窓から入り、リリアーナの袖口を小さく揺らした。薄い藤色の布が昼の光を受け、柔らかく影を落とす。
「昨夜の夜着も、同じです」
ルシアンは喉の奥で息を止めた。
白い夜着。月の光を吸ったような薄布。指先で端を摘み、似合わないかと尋ねたセレネの声。リリアーナ様とミレイユ様が、男性はこういうものを好むと仰っていたので、と彼女は淡々と言った。言葉はいつも通りだったのに、視線はわずかに落ちていた。
「……セレネから聞いています。義姉上とミレイユが選んだと」
「ええ。かなり悩みました。セレネちゃんに似合うものを、と思って」
リリアーナは少しだけ困ったように微笑んだ。
「それに、殿下が目を逸らせなくなるくらいのものを」
「義姉上」
思ったより低い声が出た。
だが、リリアーナは怯まなかった。笑いすぎることもない。ただ、穏やかな目でルシアンを見ている。
「怒らないでください。おせっかいだったことは分かっています。でも、セレネちゃんは、自分から望むことが得意ではありません。望んでいないのではなく、望み方を知らないだけなのだと思います」
その言葉に、ルシアンはすぐ答えられなかった。
昨夜、セレネは寝台のそばに立っていた。こちらが首を切られる夢の名残を引きずっていると、いつもの顔で近づき、怖くありませんね、と言うように口づけた。腕の中へ抱き寄せた時、彼女は逃げなかった。朝方には胸元へ額を押しつけ、少しだけ擦り寄るように動いた。あれを単なる慰めだと片づけることもできた。だが、それだけではなかったはずだ。
「……婚姻前です」
ルシアンは低く言った。
「それに、あいつは自分の気持ちを言葉にするのが上手くない。俺が勝手に進めていい話ではありません」
「ええ。殿下がそういう方だから、セレネちゃんは安心して傍にいられるのだと思います」
リリアーナは否定しなかった。責める代わりに、そっと別の角度から言葉を置いてくる。
「でも、安心だけでは足りない時もあります」
ルシアンの指が、書類箱の縁を押さえた。
「セレネちゃんは、愛されたいと思っているのだと思います。大切に保管されるように扱われたいのではなく、ちゃんと望まれているのだと、殿下から分かる形で受け取りたいのではないでしょうか」
回廊の遠くで扉が開き、金具の音が細く響いた。誰かが礼を述べ、足音が遠ざかる。昼の王城は変わらず動いているのに、ルシアンの耳には自分の呼吸だけが近かった。
大切にすることと、望むこと。
その境目で足を止めていた自覚はある。触れれば壊す気がした。踏み込めば奪うような気がした。だから何度も指を止めた。そのたびに、セレネは何も言わなかった。何も言わないから平気なのだと、都合よく見ていたのかもしれない。
「……ミレイユの件で、義姉上まで随分と大胆になりましたね」
ようやく出た言葉は、少し掠れていた。
リリアーナは一瞬だけ目を瞬かせ、それから静かに笑った。
「ミレイユは、順番が少しだけ慌ただしかったですから」
「少し、ですか」
「けれど、フェリクス殿下は幸せそうでしょう」
そこは否定できなかった。
「私は、セレネちゃんにも幸せになってほしいだけです。婚姻の手続きが早く進めばよいとも思っています。けれど、それより先に、殿下がちゃんとセレネちゃんへ伝えてあげてください」
「何を」
「自分は望まれているのだと、あの子が迷わず信じられるものを」
リリアーナはそれ以上、具体的には言わなかった。からかうためではなく、背を押すためにここで待っていたのだろう。その気遣いが分かるから、ルシアンは余計に何も返せなかった。
窓の外では、白い石壁の下に植えられた夏草が風に撫でられている。昨夜のセレネの指先が、夜着の端を摘んでいたことを思い出した。似合わないかと問う声はいつも通りだったのに、ほんの少しだけ視線が落ちていた。
「……軽く扱うつもりはありません」
「分かっています」
リリアーナは静かに頷いた。
「だから、軽く扱わないまま、ちゃんと近づいてあげてください」
その言い方は穏やかだった。けれど逃げ場はなかった。
リリアーナは女官の待つ方へ戻りかけ、去り際に一度だけ振り返る。
「お仕事の邪魔をして、ごめんなさい」
「いえ」
ルシアンが答えると、リリアーナは柔らかく微笑み、昼の光の中を歩いていった。
その背を見送ったあとも、ルシアンはすぐには動かなかった。回廊の端で開いた窓から風が入り、手にした書類箱の中で封書がかすかに擦れる。白潮紙の報告、レヴァンティスの王宮、王太女宮。追うべきものは山ほどある。だが、そのすべての手前で、昨夜のセレネの視線がまだ残っていた。




