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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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消された一人

 王族特務隊の執務室へ戻る頃には、胸の奥の熱はひとまず押し込めていた。


 扉を開けると、乾いた紙とインクの匂いが先に届いた。窓は細く開けられている。夏の風が入り込み、机上に積まれた書類の端を少しずつ揺らしていた。長机には、外交記録、残留使節団名簿、港湾の入国記録、宿泊台帳、晩餐席次、返礼品管理の控えが層になって置かれている。封を切られた封蝋の欠片は小皿へ寄せられ、古い綴じ紐は解いた順に並べられていた。昼の光が斜めに落ち、紙の端に残った手垢や、何度も捲られて柔らかくなった角を浮かび上がらせている。


 セレネはすでに机へ着いていた。黒髪はいつも通り後ろで整えられ、淡い灰青のドレスにも乱れはない。白い手袋を嵌めた指先で頁を押さえ、文字の並びを追っている。


 その横顔を見た瞬間、今朝の寝台が不意に戻った。腕の中へ寄せた細い身体の重さ、胸元へ触れた額、夜着越しに伝わった体温。あまりにも近かった記憶が、今の彼女の仕事中の横顔と重なって、ルシアンの呼吸を一拍だけ遅らせる。


 当の本人は、紙面から視線を上げた。


「殿下」


 いつも通りの声だった。ここは執務室で、クライヴも隊員たちもいる。セレネは仕事の顔をしている。ルシアンだけが一拍遅れたことに気づき、短く息を吐いて喉の奥に残った熱を押し込めた。


「ああ。進展は」


 長机の向こうで、クライヴが顔を上げた。上着はきちんと整えられていたが、袖口には薄くインクが付いている。かなりの量を照合したのだろう。彼は数枚の記録を横へ並べ、羽ペンの先で印の入った箇所を示した。


「フェリクス殿下から、港湾記録と王都内の宿泊施設利用記録が届いています。こちらで保管していた使節団名簿、儀典局の晩餐席次、返礼品管理の控えと照合しました」


 ルシアンは椅子へ座らず、机の端へ手を置いた。


「兄上は何と」


「妙だ、とだけ。余分な注釈はありません。照合すべき箇所に印が入っています」


 フェリクスが軽口を書き添えず、印だけを残した。その事実だけで、紙面を見る前から喉の奥がざらついた。


 クライヴはまず港湾記録を開いた。レヴァンティス使節団がアルヴェリアへ入った日の記録だ。馬車台数、護衛配置、随行員の総数。整った文字で書かれた数字は、事務官が決められた手順に従って写したものに見える。次に宿泊台帳が並べられた。王都側で用意した部屋数、使用された寝具、追加された湯や香油の数。さらに晩餐席次と返礼品管理の控えが重ねられる。


 どの紙にも、怪異めいたものはない。日付、人数、部屋番号、品目。事務官の手で整えられた文字が、昼の光の下に並んでいるだけだった。


 だが、クライヴはすぐに結論を言わなかった。羽ペンの先で港湾記録の人数を示し、宿泊台帳へ移り、晩餐席次の下段を辿る。ルシアンも黙って目で追った。数字をひとつずつ拾い、もう一度戻る。馬車の台数と護衛数は合う。随行員数も、部屋割りも、ひとつずつ追うだけでは乱れは見えなかった。


 それでも、正式名簿だけが一人分少ない。


 ルシアンは港湾記録へ戻った。指先で紙の端を押さえ、最初から数え直す。馬車から降りた者の総数、宿泊施設へ入った者の数、晩餐で用意された席の数、返礼品として箱へ詰められた小品の数。別々の部署で作られたはずの数字が、互いに同じ方向を指している。


 一人、多い。


 いや、現在の正式名簿から、一人少ない。


「名簿の記載漏れか」


 ルシアンが言うと、クライヴは別の帳簿を引き寄せた。厚い表紙の角は擦れ、綴じ紐の近くには指の脂が黒く残っている。何度も開かれた古い帳簿特有の、乾いた紙と革の匂いがした。


「最初はその可能性を考えました。ですが、こちらを」


 クライヴが頁を開く。分厚い紙は扱われ慣れて柔らかくなっていたが、ある箇所だけ、頁の開き方がわずかに硬い。綴じ目の糸は似た色で選ばれている。けれど昼の光へ傾けると、その一本だけ艶が違った。古い糸が光を吸って沈むのに対し、そこだけ細く白く返る。


 セレネの指先が、綴じ目のすぐそばで止まった。


「この頁だけ、後から綴じ直されています」


 短い声だった。


 クライヴは頷き、帳簿番号の欄を示した。本来なら連番で続くはずの数字が、一箇所だけ飛んでいる。消し忘れというには整いすぎているが、整えたつもりにしては雑だった。番号の下には、刃物で薄く削ったような跡が残り、その上から別の筆圧で次の記録が収められている。インクは黒に近いが、古い頁に染み込んだものより少しだけ青みが強い。


 風が入り、紙端が小さく鳴った。


 セレネは頁を捲らず、削られた場所を見ていた。白い手袋の指先が、綴じ穴の縁をわずかになぞる。


「外して、戻した跡です」


 ルシアンは宿泊台帳へ視線を移した。こちらは帳簿ではなく、数枚の控えを綴じたものだ。部屋番号のひとつに薄い紙が貼られている。ぱっと見ただけでは分からない。だが、角の厚みが違った。糊の跡が紙の端へ淡く影を作り、その下にあるはずの文字を隠している。


「ここもか」


「はい」


 クライヴが低く答えた。


「剥がせるか」


「できます。ただし跡は残ります」


「構わない」


 クライヴは小さな薄刃を取り、貼り直された紙の角へ差し込んだ。刃先が糊の下へ入るたび、乾いた音がかすかに立つ。隊員の一人が窓際の帳を少し引き、光の向きを変えた。部屋の中へ入る夏の明るさが紙面を横から照らし、貼り紙の境目を浮かせる。


 紙の端が少しずつ剥がれていく。糊は古く、刃を入れた場所から白く粉を吹いた。クライヴは急がなかった。指先で紙を押さえ、薄刃の角度を変えながら、貼られた紙を下の繊維から浮かせていく。ほんのわずかに開いた隙間へ光が入り、隠されていた下の記録が、擦れた影のように見え始めた。


 下から出てきたのは、完全な名前ではなかった。削られ、擦られ、上から糊を置かれたことで、文字の大半は潰れている。ただ、部屋番号だけは残っていた。現在の名簿には存在しない部屋だった。


 ルシアンはその番号を見たまま、晩餐席次へ手を伸ばした。同じ部屋番号は載っていない。けれど席数は合っている。返礼品管理の控えにも、品名だけが一つ多い。名はない。宛先も削られている。それでも箱の数だけは、消しきれずに残っていた。


 剥がされた紙の端には、指で押さえた時についたような浅い歪みが残っていた。削られた番号も、貼り直された部屋割りも、余った返礼品の数も、別々の記録に置かれているのに、同じ場所へ視線を戻させる。


 ルシアンは飛んだ帳簿番号をもう一度見た。綴じ直された糸、削られた番号、貼り替えられた部屋割り、余った返礼品。焦った手順ではない。雑務の隙間へ紛れ込ませれば、誰も横断して確認しないと知っている者の仕事だった。


「入国時には、いたんだな」


「はい」


 クライヴが答える。声はいつも通り落ち着いていたが、羽ペンを置く動作がわずかに遅れた。


「港湾記録、宿泊、晩餐席、返礼品の数が一致しています。現在残っている正式名簿だけが一人分少ない」


「消えたんじゃない」


 ルシアンは綴じ直された糸を見たまま言った。


「消したんだ」


 セレネは否定しなかった。海色の瞳は、貼り直された部屋番号の上へ落ちている。


「普通なら、別々の部署の控えをここまで並べません」


 それだけだった。


 入国記録、宿泊、晩餐、返礼品。それぞれが別の棚に収められ、別の責任者が管理していれば、一つ二つの数字のずれなど事務上の誤差として流される。白潮紙を追って王城中の紙を掘り返していなければ、この継ぎ目は今も帳簿の内側で眠っていたはずだ。


 扉が叩かれた。


 入ってきたシオンは、いつものように整った身なりをしていた。だが目の下には薄い影があり、翠の瞳の奥に乾いた疲労が残っている。机上の記録へ視線を向けた瞬間、口元に乗せていた笑みが少しだけ薄くなった。


「何か出た?」


「使節団記録だ」


 ルシアンは帳簿を指先で押さえた。


「入国時には一人多い。だが、正式名簿からは消えている」


 シオンは近づき、綴じ直された箇所を覗き込んだ。軽口は出なかった。指先が帳簿へ触れかけ、途中で止まる。紙に残る糊跡を見て、次に晩餐席次、返礼品管理の控えへ目を移した。


 ほんのわずか、表情が止まった。


「……王太女宮側の人間かもね」


「根拠は」


「普通の随員なら、ここまでして隠す意味が薄い」


 シオンの声は、いつもより低かった。


「白潮紙へ触れられる場所にいて、でも名前を残せない相手だったなら、王太女宮周辺を疑う方が早い。少なくとも、港で人数を誤魔化せて、王都の宿泊にも手を入れられて、晩餐と返礼品の記録まで触れる人間がいる」


 ルシアンはシオンの横顔を見た。翠の瞳は紙面から離れない。唇に残っていた笑みは薄く、指先は帳簿の縁へ触れる前で止まっていた。レヴァンティスで起きていた怪異めいた事件。シオンが帰国後すぐにセレネへ会いに来なかった理由。その名残が、この帳簿の上に細く落ちているように見えた。


「名前は読めるか」


 ルシアンが問うと、クライヴは剥がした紙片と下の文字を見比べた。セレネも横から視線を落とす。紙の繊維が削られ、インクが潰れた場所に、かつて文字だったものの端だけが残っていた。


「現時点では難しいです」


 クライヴが答える。


「ただ、完全に削り落としたわけではありません。薬品を使えば、下の筆跡が浮く可能性があります」


「ミレイユへ回せ」


「承知しました」


 クライヴが紙片を薄い保護紙へ移す。剥がされた欠片は、昼の光の中で頼りなく反り返っていた。そこに残る文字の端は、名前と呼ぶにはあまりに少ない。だが、誰かがいたという事実だけは、まだ紙の奥に残っている。


 机上には、数字の合わない記録が並んでいる。


 感情も、贈り物も、紙片も残るのに、名前だけが抜け落ちていたビアンカの日記を思い出した。違うのは、こちらには人間の手が濃く残っていることだ。綴じ直した糸、削られた番号、貼り替えられた部屋割り、数だけ残った返礼品。どれも、誰かが触れた跡だった。誰かが、そこにいた一人を記録から追い出した。


 ルシアンは飛んだ帳簿番号を見下ろした。


 そこにいたはずの一人は、どこへ消されたのか。


 誰が、そこまでして隠したのか。


 窓から入った夏の風が机上を通り、白い紙片の端をかすかに持ち上げた。ルシアンは指先でそれを押さえる。綴じ糸の黒さだけが、昼の光の中で濃く残っていた。

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