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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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海の向こうの原簿

 ミレイユの研究室は、王城の南側にあった。


 王族の居住区からは少し離れ、薬草園へ続く細い回廊に面している。窓の外では、夏草の間に植えられた香草が風に撫でられ、青く濃い匂いを薄く漂わせていた。室内には薬瓶が並んでいたが、強い匂いを放つものには布がかけられ、窓は大きく開け放たれていた。


 机の近くに座っていたミレイユは、淡い茶色の髪を後ろで緩くまとめ、丸眼鏡の奥から紙片を見ていた。腹はまだ目立たない。けれど、彼女の椅子の横には柔らかな膝掛けが置かれ、湯気の立たない茶が手の届く位置にある。フェリクスがそうさせたのだろう。本人は気にしていない顔をしているが、研究台の前に立っているのはミレイユではなく、白い手袋を嵌めたフェリクスだった。


「本当に触らせないんですね」


 ミレイユが穏やかに言うと、フェリクスは硝子棒を持ったまま、少しも悪びれずに返した。


「当たり前でしょ。今の君に揮発薬なんて触らせるわけない」


「弱い薬品です」


「弱くても駄目」


「窓も開いています」


「開けてるから、僕がやるんだよ」


 言い合いの形をしているのに、声は荒れない。フェリクスは軽く言っているようで、硝子皿の位置を何度も確認し、薬瓶の蓋を開ける時には必ず身体をミレイユから遠ざけていた。ミレイユも、それ以上は逆らわなかった。ただ、膝の上で指を揃え、紙片を見つめる目だけが研究者のそれになっている。


 ルシアンは机の反対側に立ち、保護紙に挟まれた紙片を見下ろしていた。昨日、宿泊台帳から剥がしたものだ。薄い紙は端が反り、糊の残った部分だけが少し硬くなっている。そこにあったはずの名は、削られ、擦られ、上から貼り直されていた。残っているのは部屋番号と、潰れた文字の影だけだった。


 セレネは隣で黙っている。海色の瞳は紙片ではなく、その周囲に置かれた控えの方へ落ちている。


 シオンは窓際に立っていた。夏の光を背に受け、翠の瞳を細めている。


「では、始めます」


 ミレイユの声に、フェリクスが頷いた。


 硝子棒の先に落とされた薬液は、ほとんど色を持たなかった。光にかざすと、わずかに水より重い艶が見える。フェリクスはそれを紙片へ直接落とさず、まず隅に置いた試験用の紙へ触れさせた。染みが広がる速度を見てから、ミレイユが小さく首を傾ける。


「少し強いです。水で半分にしてください」


「了解」


「紙の繊維が起きすぎると、下の筆跡まで崩れます」


「座ったままでも容赦ないね」


「フェリクス様が急ぐからです」


「ひどい」


 軽い会話の下で、硝子棒の動きは慎重だった。フェリクスは薬液を薄め、紙片の削られていない端へほんの少し触れさせた。湿った場所が淡く色を変える。紙の繊維が水を含み、古い糊の跡が浮き上がる。ルシアンは無意識に机へ近づきかけ、セレネの指先がわずかに動いたことで足を止めた。


 近づきすぎるな、ということだろう。


 フェリクスは紙片の中央へ薬液を進めなかった。端から、削られた場所の手前で止める。ミレイユは椅子に座ったまま、硝子板越しに紙面を見ていた。


「そこです。糊の下に別の圧があります」


「筆跡?」


「文字ではありません。押印か、管理符号の一部です」


 ルシアンは眉を寄せた。


「名前じゃないのか」


「名前欄は削られすぎています」


 ミレイユは淡々と言った。落胆でも、諦めでもない。見えるものだけを拾う声だった。


「紙の表面だけではなく、繊維の下まで削っています。そこだけは、かなり念入りです」


 フェリクスが薬液をさらに薄め、別の細筆に持ち替えた。筆先が紙へ触れると、消えかけていた下段の線が、濡れた石に水が戻るようにわずかに浮いた。名ではない。数字と、短い符号だった。王都の記録で使うものとは形が違う。丸みのある線と、波を崩したような印。レヴァンティスの文字だと、ルシアンにも分かった。


 シオンが窓際から一歩だけ離れた。


「……それ」


 声が低い。


 フェリクスは手を止めた。ミレイユも、硝子板越しに符号を見つめている。


「読めるのか」


 ルシアンが問うと、シオンはすぐには答えなかった。翠の瞳が紙片の上をなぞる。笑みは消えていない。ただ、その形が顔の上に残っているだけだった。


「全部は無理。けど、王太女宮側の管理符号に似てる」


「似ている?」


「王宮儀典局の普通の番号じゃない。王太女宮の内側で使う控えに近い。私的随行、内勤、臨時付け……そういう、表の使節団名簿に出しにくい人間を扱う時のもの」


「つまり、アルヴェリア側の名簿に名前がないのは当然かもしれない、ということですか」


 セレネが短く言った。


 シオンは彼女へ視線を向けた。いつもなら甘く返すところだ。けれど、今はその余裕を置かなかった。


「本来なら、別紙で照合できる。王太女宮から出された原簿か、随行者の内訳に残るはずだよ」


「こちらにはない」


 ルシアンが言う。


「ないね。少なくとも、アルヴェリアへ渡された控えには」


 ミレイユが椅子の上で少し姿勢を直した。フェリクスがすぐに視線を向ける。彼女はそれに気づき、茶には手を伸ばさず、紙片の端を見たまま言った。


「名前は戻せません。ですが、番号は残っています」


 フェリクスが細筆を置き、硝子板の下へ浮いた符号を示した。


「この番号が、向こうの原簿に対応しているなら、名前はレヴァンティス側でしか分からない」


「王太女宮の原簿か」


 ルシアンは紙片を見下ろした。数字は薄い。少し光の向きを変えるだけで、紙の影に紛れる。けれど確かにそこにある。名前を削った手は、この番号までは消しきれなかった。あるいは、そこまで見る者がいないと思っていたのかもしれない。


 セレネの視線が、港湾記録へ落ちた。


「アルヴェリア側で分かるのは、もう一人いたことまでです」


 長くは言わなかった。


 ルシアンは頷いた。


「その名前は、海の向こうか」


 フェリクスは薬瓶の蓋を閉めた。硝子が小さく鳴る。


「レオニス兄上に持っていくしかないね。調査として踏み込むには面倒だけど、証拠としては十分に嫌な形をしてる」


「兄上が喜びそうにないな」


「喜ぶわけないでしょ。王太女宮の原簿を見たいなんて、下手に言えば外交干渉だよ」


 それでも、行く理由はできた。


 名前ではない。犯人でもない。けれど、一人分の存在を示す番号が、王太女宮の内側へ伸びている。アルヴェリアに残された紙は、そこまでしか語らなかった。


 ミレイユはようやく椅子の背へ身体を預けた。フェリクスがすぐに膝掛けを直す。彼女は少しだけ困ったように目を伏せたが、拒まなかった。


「写しを作ります。薬品を当てた原片は、これ以上触らない方がいいです」


「分かった。僕がやる」


「フェリクス様」


「座ってて」


「まだ何も言っていません」


「言う前に止めた」


 ミレイユは小さく瞬きをし、諦めたように口を閉じた。ルシアンはそのやり取りを見ながら、ほんの少しだけ目を細める。昨夜から今朝へ続くものとは別の、守るという形がそこにあった。フェリクスの過保護を笑う気にはなれない。自分も同じことをするだろうと、分かってしまったからだ。


 セレネが紙片から顔を上げる。


「殿下」


「ああ」


 ルシアンは保護紙に挟まれた写しを受け取った。薄い紙の向こうで、浮いた管理番号がかすかに透けている。


「レオニス兄上へ報告する」


 王太子の執務室へ向かう道は、昼の光で白く染まっていた。廊下には先ほどより人が少ない。公務の時間が深まり、書記官たちはそれぞれの机へ戻ったのだろう。壁際の花瓶に挿された白い花が、窓からの風で小さく揺れている。ルシアンは写しを入れた封筒を持ち、セレネとシオンを伴って歩いた。


 シオンはいつもより口数が少なかった。セレネへ冗談を向けることもなく、時折、封筒へ視線を落とす。袖口の飾り紐へ触れた指先は、すぐに離れた。レヴァンティスという名が出てから、彼の笑みは形だけ残り、声の軽さだけが少し遅れてついてきている。


 ルシアンはその横顔を見て、眉を寄せた。気に入らない。だが、今ここで問い詰めても、シオンはいつもの調子でかわすだけだろう。


 レオニスは執務机の前にいた。窓際の机には国内貴族からの報告書、儀典局の封書、外務官からの覚書が重ねられている。王太子の青と金の瞳は、封筒を見た時点でわずかに細くなった。


「出たか」


「はい」


 ルシアンは封筒を差し出した。レオニスは封を開け、写しを取り出す。紙へ視線を落としたまま、しばらく何も言わなかった。窓の外では、庭園の噴水が低く水音を立てている。きらめく水面は昼の光を受けているのに、その音だけが妙に遠い。


「名前は」


「戻りませんでした。削られすぎています」


「だが、番号は残った」


「はい。シオンによれば、王太女宮側の内部管理符号に近いとのことです」


 レオニスの視線がシオンへ向いた。


 シオンは軽く礼をした。いつもの華やかさはある。だが、声は抑えられていた。


「断言するには、向こうの原簿を見ないといけません。ただ、アルヴェリアの儀典局書式ではありません。王宮儀典局の一般控えでもない。王太女宮側で、表名簿とは別に扱われる番号です」


「王太女宮の原簿を見なければ、名前は分からない」


「おそらく」


 レオニスは写しを机へ置いた。紙の端を指で押さえ、浮いた番号を見ている。王太子としての顔だった。弟へ向ける柔らかさはない。そこにあるのは、国境の向こうにある宮殿と、自国の中に残った改竄の跡を同時に見ている目だった。


「調査としては出せない」


 低い声だった。


「王太女宮の内部記録を見せろなどと、第三王子が言えば、それは抗議か圧力になる。白潮紙の件も、まだ正式に向こうへ突きつける段階ではない」


 分かっていた。ルシアンは黙って頷いた。


「ですが、アルヴェリア側だけでは名を戻せません」


 セレネが静かに言った。


 レオニスの視線が彼女へ向く。


「こちらで確定できるのは、もう一人いたという事実までです」


「その一人が、王太女宮側で扱われていた可能性がある」


「はい」


 セレネは余計な言葉を足さなかった。けれど、その短い肯定だけで十分だった。レオニスは写しを見下ろし、指先で机を一度だけ叩く。硬い木が低く鳴った。


「返礼使節なら出せる」


 ルシアンは顔を上げた。


 レオニスは書類棚から別の封書を取り出した。深い青の封蝋が付いた、儀典局の下書きだ。


「フェリクスとミレイユの婚姻に対して、レヴァンティスから祝いの品が届いている。王太女アリアナからも、私信に近い形で祝辞があった。正式な返礼と、王家間の親善挨拶なら名目は立つ」


「兄上」


「調査ではない」


 レオニスはそこで、はっきりと言った。


「表向きは、返礼使節だ。ルシアン、お前は王族特務隊長としてではなく、王家の名代補佐として行け。セレネ嬢は婚約者として同行できる。シオンは、レヴァンティス宮廷に滞在経験のあるアステリオス公爵家の令息として案内役に入る」


 シオンの指が、袖口の飾り紐に触れた。


「私も、ですか」


「お前以上に王太女宮の作法を知る者が、この場にいるか」


「……いませんね」


 シオンは笑った。けれど、その笑みは薄かった。


 レオニスは封書を机へ置き、まだ封蝋を落とさずに続けた。


「ただし条件がある」


 ルシアンは背筋を伸ばした。


「はい」


「レヴァンティスで剣を抜くな。相手国の宮殿で、王族特務隊の権限は使えない。証拠を持ち帰れ。誰かを断罪するのは、その後だ」


「承知しました」


「そして、王太女アリアナを敵に回すな」


 その名に、シオンの視線がわずかに動いた。


 レオニスはそれを見逃さなかったが、追及はしなかった。


「王太女宮の原簿へ近づくには、アリアナ殿下の協力が要る。彼女が拒めば終わりだ。無理にこじ開ければ、こちらが怪しまれる」


「アリアナ殿下は、話が通じる方です」


 シオンが言った。


「なら、お前が通せ」


 レオニスの声は冷静だった。


「ただし、甘い言葉で煙に巻くな。相手は王太女だ」


 シオンは肩をすくめかけ、途中でやめた。


「分かっています」


 いつもの調子を残した返事だった。けれど、声の底には沈んだものがあった。


 レオニスはようやく封蝋の支度をした。侍従が小さな火を近づけ、赤い蝋がゆっくり溶ける。滴が封書の上へ落ち、丸く広がった。王家の印章が押されると、青と金の紋が柔らかい蝋へ沈み込む。蝋が冷えるまでのわずかな間、誰も手を伸ばさなかった。


「出発は早い方がいい」


 レオニスは封書を見たまま言った。


「だが準備は静かに進める。儀典局には返礼使節として通す。特務隊内にも、詳細を知る者は絞れ」


「はい」


「ルシアン」


 名を呼ばれ、ルシアンは兄を見る。


「お前が追うのは、怪異ではない。まずは人間が消した痕跡だ」


「分かっています」


 ルシアンは封書の隣に置かれた写しを見た。薄く浮いた管理番号。名前ではない。顔でもない。ただ、そこにいたはずの一人へ繋がる細い糸だった。


 レオニスはその写しを新しい封筒へ収めた。


「海の向こうへ行け。名を取り戻してこい」


 窓から入った風が、机上の紙を一枚だけ持ち上げた。封蝋はまだ完全には冷えていない。赤い表面に王家の紋が沈み、昼の光の中で濡れたように光っていた。


 ルシアンは短く頭を下げた。


 消された一人の名は、まだ戻っていない。


 だが、海の向こうには、その番号と同じ印を持つ原簿がある。


 そう思った時、シオンが窓の外へ視線を向けた。夏の白い光の中で、その横顔だけが少し陰った。セレネは何も言わない。ただ、机上の封書を見つめる海色の瞳が、わずかに細くなっていた。

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