白い港
出航から5日目の朝、ルシアンは甲板へ出た。
夜明けの海は、まだ夜の青を薄く残していた。水平線の端には白い光が滲み、帆柱に張られた厚い布は風を受けるたび、湿った低い音を立てる。床板には潮を含んだ水の跡が細く残り、踏みしめると革靴の底へわずかな湿りが返った。王家の返礼使節船として整えられた船だけあって、波を越える動きは荒くない。だが、足元で絶えず水が動いている感覚は、石床の上で暮らす者の身体に、ここが陸ではないことを思い出させ続けていた。
甲板には水夫たちが出ている。日に焼けた腕が濡れた縄を引き、巻き直された麻縄からは塩と木の匂いが立つ。桶の中で揺れた水が朝日を細かく砕き、船縁の金具には白い潮の跡がこびりついていた。ルシアンが手摺へ片手を置くと、冷えた木の表面に、夜の湿りがまだ残っている。
「早いですね」
背後から聞こえた声に振り返ると、セレネが甲板へ出てきたところだった。
海風用の旅装は、王城で見る礼装より布が軽い。濃紺の外套の下には、風を逃がす薄布が重ねられているらしく、歩くたび裾がふわりと持ち上がり、すぐに脚元へ戻る。黒髪は低い位置で結われ、銀細工の留め具が朝の光を受けていた。露出が多いわけではない。それでも、重い石造りの王城にいた時より、彼女の輪郭は少しだけ海風に近く見えた。
「船内が騒がしかったのか」
「見張りの足音が増えました。港が近いのでしょう」
セレネはそう言って、ルシアンの隣へ並んだ。手摺には触れず、海へ視線を向ける。その横顔に眠気はない。だが、夜明けの白い光が睫毛へかかり、海色の瞳の奥をいつもより薄く見せていた。
「揺れには慣れましたか」
「多少はな。船より、音の方が残る」
夜の間も、帆布が鳴り、木材が軋み、水が船腹を擦る音が続いていた。王城の廊下にも夜番の足音や風の音はあるが、海の音は途切れない。眠りの浅いところで、ずっと誰かが低く囁いているように耳へ触れる。
セレネは短く頷いた。
「紙の保管には向きませんね」
「最初にそれか」
「潮気は厄介です」
真顔で返され、ルシアンは小さく息を吐いた。セレネらしい、と言いかけてやめる。仕事中だ。そう思った瞬間、彼女の外套の端が風に流され、ルシアンの袖へかすかに触れた。
「朝から並んで海を見るなんて、随分仲が良いね」
甲板の奥から、軽い声がした。
シオンだった。
薄灰色の上衣は、アルヴェリアの貴族服よりずっと軽い。襟元は開き、袖口には細い金糸と飾り紐が揺れている。靴底は濡れた床板の上でも迷わず、縄を運ぶ水夫の進路を自然に避けた。船の揺れに逆らうのではなく、動きに合わせて重心を移している。長くこの海を知る者の足運びだった。
「お前はまだ寝ていると思った」
「潮の音、嫌いじゃないから」
シオンは手摺へ近づき、海の先を見た。赤銅色の髪が風に乱れ、すぐに指で払われる。
「この風なら、日暮れ前には港の灯りが見える。最初に見えるのは、水路灯かな」
「水路灯?」
ルシアンが聞き返すと、シオンは手摺に指を置き、海面へ伸びる朝の光を目で追った。
「港へ入る船を導く灯りだよ。レヴァンティスは水路が多い。海から街の奥まで水が入り込んでいて、夜になると橋の下も水門の脇も灯りが並ぶ。高い灯台が1つ立っているだけじゃなくて、街全体が船を招いているみたいに見えるんだ」
「夜通し船が動くのですか」
セレネが問う。
「海商の国だからね。夜明け前に入る船も、日没後に出る船も珍しくない。香辛料、布、硝子、宝石、書簡、客人。港では全部が同じ朝を待つとは限らない」
シオンは軽く言ったが、その声はいつもより少し低い。懐かしさとも違う。海を見ているのに、別の場所の灯りを思い出しているような声音だった。
「アルヴェリアとは随分違うな」
「違うよ。石の色も、匂いも、人の距離も」
そこでシオンは、少しだけ口元を上げた。
「向こうでは挨拶で肩に触れるし、腕も取る。頬に触れるくらいなら、礼儀の範囲に入ることもある。アルヴェリアの感覚で全部真面目に受け止めると、殿下は初日で疲れるかも」
ルシアンは顔をしかめた。浮かんだのは、見知らぬ女たちが当然のように近づいてくる図ではなく、その文化の中でシオンが何の違和感もなく笑っていたであろう姿だった。
「面倒そうだな」
「慣れるしかないよ。拒み方にも作法がある」
「先に言え」
「だから今言ってる」
シオンの返事は軽かったが、ルシアンはその横顔から目を離さなかった。船風を受ける姿は自然なのに、レヴァンティスの名を口にするたび、シオンの視線は1拍だけ遠くなる。問い詰めても、今は笑ってかわすだけだろう。そう分かっていたので、ルシアンは海へ視線を戻した。
船尾側から、煮出した香草の匂いが流れてきた。船酔い避けに用意されたものだろう。そこへ、まだ遠いはずの陸から来たような、乾いた甘い香りが混じる。
シオンが鼻先をわずかに上げた。
「もう混じってる」
「何がだ」
「向こうの香り。港の香油と、乾いた香草。風向きが合うと、陸が見える前に来る」
ルシアンは何も言わず、その匂いを拾おうとした。潮の強さに紛れ、確かに甘さがある。王城の香炉で焚く香とは違う。もっと乾き、少し熱を含んだ匂いだった。
セレネはその香りを確かめるように、ほんのわずか顎を上げた。
「王太女宮も、水路に面しているのですか」
「面している。中央庭園にも水が引かれていて、夜は宮殿の灯りが水面へ映る。白い石と青い硝子が多いから、昼は眩しいくらいだけど、夜になるとずいぶん顔が変わる」
「原簿は、そこに」
セレネの声は短かった。
シオンは答える前に、手摺へ置いた指を1度だけ動かした。爪先が潮で白くなった木を軽く擦る。
「王太女宮の管理なら、おそらく。少なくとも、アルヴェリアへ渡された控えとは別のものがある」
「閲覧にはアリアナ殿下の許可が要る」
ルシアンが言うと、シオンは頷いた。
「無理に探れば、返礼使節じゃなくなる。あの人は、笑っている時ほど見ている場所が多いから」
「お前でも誤魔化せないか」
「俺でも」
即答だった。
それ以上の冗談が続かなかったことで、アリアナという名の重さだけが甲板に残った。帆の影が3人の足元をゆっくり移り、濡れた板の上で光が揺れる。
ルシアンは、王城で受け取った写しの薄さを思い出した。削られた名前の部分は戻らず、紙の繊維の下から浮いたのは、王太女宮へ続く管理符号だけだった。あの番号に対応する原簿を見なければ、消された1人はいつまでも名を持たない。穏やかに見える海の先に、その薄い紙片の続きがあるのだと思うと、手摺を握る指に力が入った。
「王太女宮の原簿へ触れなければ、名は戻らない」
口にしてみると、それは捜査方針というより、海の向こうへ渡るための錨のように聞こえた。
セレネは海を見たまま頷いた。
「戻せる可能性がある場所まで来ました」
「そうだな」
シオンは2人の会話を聞きながら、海面へ視線を落としていた。笑みはある。だが、いつものように軽く割り込んではこない。波が船腹に当たり、砕けた白い泡がすぐ後方へ流れていく。その白さを追うシオンの目に、ルシアンは言葉にならない疲れを見た気がした。
昼を過ぎると、船の中の音が変わった。
食堂の木戸が開閉する音より、甲板を行き交う足音が増えた。水夫たちは帆の角度を何度も確かめ、港湾許可証を納めた箱が船室から運び出される。外交封書を入れた長箱には、青い封蝋の上から潮気避けの薄布が重ねられ、運ぶ侍従の手袋には白い粉のような塩が薄く付いていた。
ルシアンは1度船室へ戻り、レオニスから預かった封書の保管を確認した。木箱の内側には乾燥させた香草が敷かれ、紙の角が反らないよう、薄い板で押さえられている。そこに、王太女アリアナへ宛てた返礼の書状と、表向きの贈答目録が収められていた。
表の手続きは整っている。
フェリクスとミレイユの婚姻祝いへの返礼、親善の挨拶、王家間の礼節。それらを包む布も封蝋も、どれも正しい形をしている。だが、正しい形をした箱の奥に、消された名を探す目的が忍ばされている。
ルシアンが蓋を閉めると、金具が乾いた音を立てた。
夕方が近づく頃、甲板へ出たルシアンの頬に、昼より温かい風が触れた。
海面は赤く染まり始めている。西へ傾いた光が波の背をなぞり、その向こうに白く霞むものを浮かび上がらせていた。最初は低い雲の端にも見えたが、船が進むにつれて、海沿いへ連なる石壁と階段状に重なる建物、夕陽を受けて光る細い塔の輪郭が、水面の上へ少しずつ現れてくる。
白い石壁の間には、細い水の筋がいくつも入り込んでいた。街の奥へ続く水路だろう。橋の影が水面へ落ち、その下を小舟が通り過ぎるたび、朱色の夕光が細かく崩れる。港壁の上では人影が動き、遠くから異国語の掛け声と、金属を打つような音が風に乗って届いた。
シオンが手摺の近くで足を止めた。
「レヴァンティスだよ」
その声は軽く聞こえたが、ルシアンには、言葉の底がわずかに掠れているように思えた。
セレネも隣へ来る。風に押された黒髪が肩へ流れ、銀の留め具が夕陽を受けて1瞬だけ赤みを帯びた。
「水路が、街の奥まで入っていますね」
「ああ」
ルシアンは白い港を見た。
灯りが1つ、また1つと水辺に点き始める。まだ夜ではないのに、橋の下や水門の脇へ小さな火が並び、揺れる水面がそれを飲み込んでは返している。港は日暮れへ沈むのではなく、別の顔へ移る準備をしているように見えた。
あの白い石の奥に、王太女宮がある。
王太女アリアナがいる。
そして、アルヴェリアの紙から削り取られた名前へ続く原簿が、どこかに残っている。
船は速度を落とし、水路灯の揺れる港へ近づいていった。




