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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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香油と白壁

 帆を畳む音が、夕暮れの空気の中で低く重なった。


 船底が桟橋の杭をかすかに擦り、揺れの間隔が変わる。沖を進んでいた時の重い波の打ち方が、港の内側へ入って細かく刻まれていた。手摺へ片手を置いたまま、ルシアンは速度を落としていく船を足の裏で感じていた。


 目の前に広がる白い港は、夕陽を吸い込んだまま静かに広がっている。海沿いに階段状に積み上がった建物は、王都の石造りよりずっと軽い。白壁には青硝子の窓が嵌め込まれ、細い塔の上では薄布が風を受けて揺れていた。城ではなく、街がそのまま海へ向かって張り出しているように見える。波が砕けるたび、白い石段へ細かな飛沫が落ち、その粒の中まで夕陽の赤が滲んでいた。湿気を含んだ赤は石壁へ染み込まず、表面を撫でて水路の奥へ流れていく。アルヴェリアの王都では、まず見ない種類の赤だった。


 潮の匂いに、別の香りが混じり始めていた。乾いた香草と甘い香油、焼いた魚の脂が熱を含んだ風に重なり、港の奥から水路を伝って届いてくる。匂いの中には幾つもの暮らしが折り重なっていて、潮の強さでも消しきれなかった。


 甲板の後ろで、衣擦れの音が低く動いた。


 振り返るより先に、ルシアンはそれがセレネだと分かった。船室から上がってきたばかりの彼女は、海風用の濃紺の旅装に身を包んでいる。膝の辺りで薄布の裾が風を受け、黒髪は低い位置で結われて、銀細工の留め具だけが夕陽を細く返していた。


「もうじき、着くのですね」


 短いセリフだった。海色の瞳は港の白壁ではなく、その手前で動く水夫の動きを追っている。


「ああ」


 ルシアンは短く答えた。


 港の様子はもう、ここから十分に見える。船腹へ縄が投げられ、男たちが声を上げた。巻き舌の多い言葉が水面へ跳ね返って別の声に重なる。怒鳴っているような声量なのに、抑揚はどこか歌に近い。アルヴェリアの港なら、もっと事務的に響くはずの言葉だった。


 船着場へ集まった港役人や商人たちの装いは、王都の感覚で見るには軽すぎる。男たちは袖のない薄布を重ね、胸元を大きく開けていた。日に焼けた肌に金鎖や青石の飾りが垂れ、腰布の端には細かな刺繍が入っている。歩くたび、飾り紐へ下げられた金具や硝子玉が擦れ、乾いた音を鳴らしていた。


 女たちの衣装はさらに軽い。胸元を覆う布は驚くほど少なく、海色や紅玉色の薄布を身体に巻きつけて、その上から金鎖や青石の飾りが直接素肌へ落ちている。腹部はほとんど隠されず、腰へ巻かれた布は歩くたび脚の線を浮かび上がらせた。肩から背へ流された透け布は、隠すためというより、灯りを受けるために羽織られているように見える。


 男も女も、互いに距離を気にしていない。女同士で肩を寄せ、男同士で腕を組み、互いの髪飾りや首飾りへ自然に触れながら笑っていた。挨拶のように頬を寄せ、別れ際に手の甲をなぞる動作が、止まらず流れていく。ここではそれが普通なのだと、見ているだけで分かる。


 ルシアンは無意識に眉を寄せた。


 その横顔へ、低く笑う声が落ちた。


「だから言っただろ」


 シオンだった。


「向こうは、距離が近いし露出も多いって」


「近すぎる」


「挨拶だから。喧嘩売ってるわけじゃない」


 答える間にも、港側の男がシオンに気づいて大きく手を上げる。日に焼けた腕には青い布紐が巻かれていた。呼びかける声に、シオンが同じ言葉で短く返す。喉の奥へ滑るように出る音、語尾を柔らかく落とす癖、相手の名を呼ぶ時の上がり方。長く使っていた者の声だった。


 港の男はそのまま近づき、当然のように笑いながらシオンの肩に腕を回す。シオンも身体を引かず、相手の背を軽く叩き返した。短い言葉が二、三往復したあと、男はそこで初めてルシアンを見る。金髪と、空の青へ夕日の金を混ぜた瞳。視線がそこで止まり、目がわずかに見開かれた。近くにいた女たちまで視線を向けてくる。隠そうという発想がそもそも薄いのか、扇の陰へ隠す動作もない。


 ルシアンは居心地の悪さを覚えながら、軽く顎を引いた。


 すると、別の視線が止まる。


 人混みの奥から、ひとりの男が静かに近づいてきた。日に焼けた肌は港の者と同じだが、薄布の重ね方は他より少し抑えられている。胸元の開きは深いままだが、その上に細い肩布が掛けられ、結び目には青い縫い取りが入っていた。商人でも水夫でもない。それでいて、肩肘張った官吏の硬さもない。


 男はルシアンの前で足を止め、胸へ片手を当てた。


「レヴァンティス王太女宮所属、儀典補佐官のナディルと申します。王太女アリアナ殿下のご命令で、お迎えに参りました」


 アルヴェリア語だった。発音は崩れていないが、語尾だけが少し歌のように聞こえる。頭を下げた肩口から、香油の匂いが流れた。乾いた花の匂いの奥に、潮と熱が混ざっている。


「ご丁寧にどうも」


「長旅でお疲れでしょう。王太女宮まで、こちらで船をご用意しております。街の中心まで石畳でも参れますが、夕方のこの時間は混みます。水路の方が、お疲れも残りません」


 王都の通りを王族として歩かせれば見世物になる。それを避けたいという意図は、こちらの都合でもあり、向こうの礼でもあった。


 港の内側には街の奥へ続く水路が幾筋も伸び、白い石橋の下を小舟が絶えず行き交っている。橋の欄干に吊るされた灯りが、水面に金色の筋を細く落としていた。


 船を降りると、石畳にはまだ昼の熱が残っていた。革靴の底から乾いた温度が脚へ上ってくる。アルヴェリアの王城の石は夏でもどこかに夜の冷たさを残していたが、ここの石は陽の熱を吸い込み、長く手放さない。同じ白い石でも、まるで別の素材だった。


 水路沿いに並ぶ露店の下はそのまま水路へ続き、小舟へ荷を積み替える男たちの足元で水が絶えず石段を打っている。裸足の子供が濡れた石の上を駆け抜け、魚を捌く女の腕には金鎖が幾重にも巻かれていた。香油を塗った男たちは、荷を担ぎながら笑い合っている。港全体が熱と湿気を帯び、水と人の匂いがほどけずに混ざり合っていた。


「殿下」


 隣でセレネが小さくルシアンを呼んだ。彼女の視線は人ではなく、水路沿いの荷箱に向いている。


「港印が分かれています」


「港印?」


「荷の種類ごとに色が違います。香料、水産、織布、貴石。搬入経路まで分けているようです」


 言われて目を向けると、確かに荷箱に押された印の色が違った。水路ごとに船の種類まで違うらしく、大型船と小型船で停泊場所が分かれている。荷札を書き込む書記官たちが水辺の机に並び、色違いの紐で束ねられた控えが机の脇に積まれていた。


 距離の近さに目を奪われていたが、その下にきちんと組み上げられた仕組みがある。


「相変わらずだな」


 シオンが横で笑った。今度は乾いていなかった。


「お前はまず、人より記録経路を見るんだから」


「痕跡は流れの中に残ります」


 短い返答だった。観光気分ではない。アルヴェリアから海を越えて来た理由を、彼女は最初の一歩から忘れていなかった。


 ナディルが軽く合図をすると、水辺へ繋がれていた細長い船が静かに岸へ寄せられた。白木の船体に青布の日除けが張られ、縁には細かな金具細工と小さな鈴が結ばれている。立てば手摺に手が届き、座れば水面が膝の高さに来るほど浅い船だった。


「どうぞ」


 ナディルが船縁を示す。


 ルシアンは自然にセレネへ手を差し出した。黒い手袋の指先がこちらの手のひらに重なる。布越しでも指先の冷たさは伝わった。揺れる船を踏んだ瞬間、指へ少しだけ力が入る。反射的に握り直すと、海色の瞳がほんの一瞬こちらを見上げ、すぐに前へ戻された。


 船はゆっくり水路へ滑り出した。漕ぎ手は無言で櫂を動かし、水音はほとんど立たない。代わりに、橋の下を抜けるたびに反響する低い音と、岸の店から流れる弦楽器の旋律が二重三重に重なって耳に届いた。香油の灯りが水面へ落ちるたび、白壁が揺れる。橋の上では若い男が友人らしい相手の首に腕を回して笑い、その隣で女同士が互いの髪飾りを直し合っていた。


 異国の王族が水路を通っていることは伝わっているはずなのに、視線は止まらない。一度だけ見て、すぐに次の話に戻る。それは無関心とは違って、彼らの礼の作法に近いのかもしれなかった。


 水路の奥へ進むほど、橋の上にも橋の下にも、店先にも露店の柱にも、小さな灯りが次々と点いていく。船の縁に結ばれた鈴が、水路の風で小さく鳴った。乾いた音だった。アルヴェリアの王城で聞く鐘の音とは違って、もっと低く、もっと近い。


「まだ緊張してる?」


 シオンの声で、ルシアンは現実へ戻された。


「お前は慣れすぎだ」


「長かったからね」


 返したシオンの目は水路の先に向いていた。


 高台の上に、白い建物が見え始めている。他の建物より高く、白壁が幾重にも重なり、水路を囲むように回廊が伸びていた。青硝子の窓に夕陽が落ち、細い灯りがすでに点き始めている。一つ点くと次の灯りがそれに呼応するように灯り、白い宮殿の輪郭が水面にゆっくり落ちていった。


「あれが」


「うん。王太女宮」


 シオンの声はいつもより低かった。軽さは残しているが、その底の乾いた何かを、もう隠そうとしていない。


「王太女殿下も、お三方へお会いになるのを楽しみにされています」


 ナディルが穏やかに言った。


「俺たちを?」


 シオンが軽く聞き返す。


「少なくとも、シオン様が再びレヴァンティスへ来られることは、もうご存知でした」


 その瞬間だけ、シオンの笑みが薄くなる。翠の瞳の奥が、一度だけ遠くを見た。だが、すぐにいつもの顔に戻す。


「相変わらず耳が早いな、あの人」


「王太女宮ですので」


 さらりと返され、シオンはそれ以上を続けなかった。櫂が水を切る音だけが、低く間を埋める。


 ルシアンは白い宮殿を見上げた。


 あの奥に原簿がある。アルヴェリアの紙から削り取られた名前へ続く記録が、まだ残っているかもしれない。誰かが、そこにいた一人を消した。消した手は、おそらくあの白壁の内側で動いている。


 近い。だが、簡単には届かない。橋を潜るたび、水面に映った白壁の輪郭が灯りで崩れ、また形を取り戻していった。船が進むほど近づいているはずなのに、揺れる灯りに何度も輪郭を奪われていく。


 潮の匂いと、香油の匂い。甘さの底に薄く混じる熱の匂いを、ルシアンはもう一度確かめるように吸い込んだ。


 船は揺れる灯りの間を抜けながら、白い宮殿へ静かに近づいていった。


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