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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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絡まる金鎖

 石造りの桟橋に船が寄せられた時には、夕陽の赤はすでに紫へ沈み始めていた。


 ナディルが先に岸へ降り、片手を差し出して案内する。ルシアンはセレネへ手を差し伸べてから、自分も岸へ移った。足元の石は、港の石畳より少し冷たい。王宮へ近いほど、灯りの色が変わっていた。商人街の橙ではなく、青みを含んだ白い灯りが、欄干の上から水面へ細く落ちている。


 ナディルの背を追って、ルシアンたちは緩い階段を上がった。階段はすべて白い石で、踏み面の縁に細い金の線が縫い込まれている。歩むたびに金が灯りを返し、足元へ細かい光を撒いた。階段の両脇には水盤が並び、薄紫の睡蓮のような花が静かに浮いている。水盤と水盤の間には、香油の小さな灯りが灯っていた。


 階段を上がり切ると、白壁の回廊が始まる。柱の間からは、街の灯りと海面が見えた。下から見上げた時より、宮殿全体の高さが分かる。回廊の床にも金の線が走り、青硝子の窓越しに灯りが透けて、白壁の上に水のような模様を落としていた。


 その回廊の奥にある一室へ、ナディルは三人を案内した。


「お疲れでしょう。お休みいただけるよう、軽い茶と果実をご用意しております」


 扉が開かれた部屋は、想像していたよりも広い。白壁の天井は高く、奥には窓いっぱいに張られた青硝子。窓の下には水盤がもう一つあり、そこから流れる水が壁面を滑って奥の溝へ落ちていく。室内に水音が常に低く響いていた。


「謁見までしばらくお時間がございます。アリアナ殿下の御前に上がるための装いを、こちらでご用意しております」


 ナディルが静かに告げた。


「装い、というと」


「レヴァンティス式の礼装でございます」


 ルシアンは眉を寄せた。


 予想はしていた。シオンも船上で何度か言っていた。郷には郷に従え、と。だが実際に告げられると、別の話だった。


「アルヴェリアの礼装では、無理か」


「お通しすることはできます。ですが、御前の場所が水辺の宮ですので、こちらの装いの方が、礼を尽くしているとみなされます」


 ナディルの口調は穏やかだが、断る余地は薄かった。重い襟元と長い裾は、水辺の宮では場の意味を理解していない装いと取られるのだろう。


 シオンが横で軽く肩を竦めた。


「言っただろ。郷には郷に従え」


「分かっている」


 ルシアンは短く返し、それ以上は何も言わなかった。


 ナディルが侍従と侍女たちを呼び、三人をそれぞれ別の部屋へ通す。シオンは先に隣室へ消えた。セレネは反対側の部屋へ。ルシアンは中央の控えの間に残り、侍従たちの手にすべてを委ねた。


 着替えは、想像していたより手早かった。布が肩から落ち、腰へ流れ、また肩へ戻る。深い青と紫の薄布が何枚も重なるように肩から垂れ、内側の金色の刺繍が灯りを返して水脈のように動いた。胸元は驚くほど大きく開かれ、鎖骨から胸の中央まで素肌が剥き出しになっている。胸元へ落ちる青い宝石は、自分の瞳の青と金に呼応するように選ばれていた。


 腰には金と青で編まれた帯が巻かれ、そこから青と紫の薄布がさらに長く垂れている。下半身は白の長衣で抑えられ、足首から脛にかけて、細い金鎖の装飾が肌の上を伝っていた。足元の革は、宝石を縁に縫い止めた異国の作りで、踝のあたりにまた一本、細い鎖が絡んでいる。


 肌に直接触れる金属の冷たさが、まだ慣れない。鏡の中の自分を見るたび、ルシアンは無意識に上衣の前を閉じようと手を動かしていた。


「第三王子殿下。そこを閉じるものではございません」


 侍従が静かに、しかし手早く、ルシアンの手を布から離す。


 ルシアンは何も言わなかった。閉じるものではないと分かっていても、指が勝手に動く。アルヴェリアでは、王族の胸元がここまで開いて他人の前へ出ることは、まずなかった。


 扉が開く音がした。


「本気で似合ってる」


 シオンだった。先に着替えを済ませた男は、扉の枠に肩を預けて、面白そうに笑っている。赤銅色の髪は普段より低い位置で緩く束ねられ、ほどけた毛束が片側の肩へ流れていた。胸元は完全に開かれ、鎖骨から腹部まで剥き出しの肌に、細い金鎖と赤い宝石がいくつも重なって落ちている。深紫から赤紫へ滲む薄布が肩から垂れ、内側の金色の刺繍が灯りを受けて細かく光った。


「黙れ」


「褒めてるんだよ」


「黙れ」


 シオンは肩を竦め、それ以上は何も言わなかった。


 ルシアンはもう一度、鏡の中の自分を見た。慣れない、と思った。それなのに、似合っていることだけは、自分でも認めざるを得なかった。


 しばらくして、廊下の向こうから侍女たちの足音が遠ざかる気配がした。


 扉が開く。


 最初に動いたのは、頭から肩へ落ちる淡紫のベールだった。歩みに合わせて、夜風を含んだような薄絹が静かに揺れる。ルシアンは振り返りかけた姿勢のまま、息を一拍止めた。


 セレネだった。


 胸を覆っているのは、ほとんど布ではなかった。肌の上に小さく当てられた淡紫の絹と、その縁を縫い止める細い金鎖、海色の宝石の連なり。肩は剥き出しで、鎖骨から胸の上までも何も覆われていない。胸の下から腹部、腰のくびれまで、肌がそのまま外気に晒されていた。覆っている布の面積より、剥き出しの肌の方が遥かに多い。


 腰には淡紫の薄絹がいくつも巻かれ、サイドに長く入った切れ込みからは、歩みに合わせて白い脚の線が一瞬ずつ覗いた。脚の付け根近くまで一度に開く深い切れ込みで、布の下にもまた小さな絹が一枚あるだけなのが、灯りの角度で透けて見える。


 手首と足首には細い金鎖。首筋にも細い鎖と青い宝石が垂れていた。頭からのベールは、隠すために被られているのではなく、灯りを返すために流されているように見える。黒髪は肩から背中、腰まで一度も結ばれずに落ち、海色の瞳だけが、そのすべての中で静かに光を返していた。


 ルシアンは喉の奥で息を止めた。


 これが、この国の礼装なのか。


 頭の中で、その問いが何度も巡る。アルヴェリアでなら、夜着ですらここまで肌は晒さない。寝室の中ですら、これほどの布の少なさで人の前へ出ることはなかった。


 逸らさなければ、と思った。思っても、視線が動かなかった。


 セレネはルシアンの前まで歩いてくると、いつものように一度視線を上げる。だが、海色の瞳はルシアンの顔まで上がりきらなかった。視線がいつもより低い位置で一拍だけ止まり、それから慌てたように顔へ戻る。胸元の開きか、肩から落ちた薄布か、それとも青と金の刺繍か。どこで止まったのかは分からないが、いつもなら迷わず顔へ届く視線が、そこを通り過ぎなかった。


「……よくお似合いです」


 声は静かだった。けれど、いつもより一拍、答えるまでに間があった。


 ルシアンはその一拍に気づいた。気づいたまま、しばらく返事ができなかった。


 返事の代わりに、無意識に上着の前を寄せかける動作をする。セレネの肩へ掛けてやれるものを、自分が持っていれば、と一瞬だけ思って、すぐにその考えを打ち消した。


 彼女は自分の意思でこれを纏っている。彼女が受け入れているなら、こちらが頭ごなしに否定する権利はない。


 頭では分かっている。


 頭では分かっているのに、視線だけが、まだ離せなかった。


 その時、セレネが小さく動いた。


 ベールの裾を直そうと持ち上げた指先が、肩の上で止まる。淡紫の薄絹の縁を縫い止めていた細い金鎖が、肩口の宝石の留め具に絡んでいた。


「……取れません」


 短い声だった。海色の瞳がこちらを見上げる。普段なら侍女を呼ぶか、自分で外す。だがこの控えの間には、二人だけが残されていた。知らない間にシオンは窓辺へ移動して、夕暮れの水面を眺めている。


 ルシアンは一歩、近づいた。


「動くな」


 低く告げて、指先で金鎖の絡まりに触れる。鎖は驚くほど細く、宝石の留め具の細工に二重に絡んでいた。手袋を着けていない指先で、一本ずつほどく。


 布越しでも触れていないはずなのに、指の先がセレネの肌に近づくたび、自分の呼吸が浅くなった。彼女の体温が、剥き出しの肩からそのまま伝わってくる。香油の匂いは普段の彼女より少し甘く、レヴァンティスの調合のせいか、湿った花の香りが混じっていた。


 鎖の一本目がほどける。


 二本目に指を掛けた瞬間、ルシアンは手を止めた。指の腹が、宝石の留め具の下――鎖骨の縁にほんのわずかに触れた。布も鎖もない、肌そのものだった。


 セレネは動かない。


 声も出さない。


 ただ、呼吸が一拍、浅く変わったのが、近すぎる距離から伝わってきた。


 ルシアンは手を止めたまま、視線を上げた。


 海色の瞳が、すぐ目の前にあった。


 逃げていない。拒んでもいない。ただ、ほんの少しだけ、いつもより睫毛が伏せられている。


「……続けてください」


 低い声だった。


 ルシアンは無言で、もう一度鎖に指を掛けた。指の腹が肌へ触れないように、慎重に角度を変える。二本目をほどき、最後の絡まりを外す。鎖がするりと宝石の留め具から離れた瞬間、セレネの肩がほんのわずか落ちた。張っていた糸が、一本だけ切れたような動きだった。


「……ありがとうございます」


 声はいつもより、わずかに低かった。


 ルシアンは答える代わりに、短く息を吐いた。その息の音が、自分でも思ったより乱れていた。


「お時間でございます」


 廊下からナディルの声がした。


 ルシアンはセレネから一歩離れ、上着の前を整えるふりをして指を動かす。閉じるものではないと分かっているのに、指がまた勝手に動いた。


 扉の向こうへ向かう間、シオンが窓辺から戻ってくる。翠の瞳が一度、二人の間を流れた。何も言わない。


 ナディルが扉を開け、廊下へ三人を導く。


 謁見の間は、白い回廊の奥にあった。


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