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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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腕に絡む熱

 謁見の間は、白い回廊の奥にあった。


 ナディルの背を追って、三人は柱の連なる長い廊下を進む。床は磨かれた青石で、歩むたびにそれぞれの靴音が低く反響した。壁際の灯りは、淡い紫の硝子越しに溢れ、白壁の上に水紋のような陰影を落としていた。歩を進めるほど、奥から微かな弦の音が流れてくる。アルヴェリアの王城で聞く弦楽とは違って、低く、息の長い旋律だった。


 ルシアンは、自分の足音が普段より大きく聞こえる気がした。


 革靴の縁を縫い止めた青い宝石が、歩むたびに細い音を立てている。腰から垂れた薄布が動くたびに金色の刺繍が灯りを返し、視界の端で水脈のように動いた。胸元の開きは、廊下の風が直接肌へ触れるほど深い。慣れない感覚を、表情に出さないようにしながら歩く。


 隣のセレネは、淡紫のベールを肩で揺らしながら、いつも通りの歩幅で歩いていた。歩むたびに、腰のサイドの切れ込みから白い脚の線が一度ずつ覗く。ルシアンはそれを視界に入れないよう、視線を前へ固定した。


「第三王子殿下」


 不意に、廊下の脇から柔らかな声がかかった。


 白い柱の影から、三人の女性が現れる。歳のころは二十歳前後だろうか。淡い紅と金の薄布を肩から垂らし、胸元は驚くほど開いている。金鎖と緑の宝石が素肌へ落ち、笑みを浮かべた口元には少し甘い香りが立っていた。


「お初にお目にかかります」


 先頭の女が、胸へ手を当てて礼を取った。レヴァンティス式の挨拶らしい。だが、礼が終わるよりも先に、女の指先がルシアンの肩布の縁へ触れた。


「アルヴェリアの第三王子殿下は、噂より遥かにお美しい方ですわね」


「お肌に、こちらの装いがよくお似合いですわ」


「ご覧になってください、この金鎖の留め方。アルヴェリアでは見られない細工ですわよ」


 二人目、三人目の女が、それぞれ別の角度からルシアンへ近づいた。胸元の青い宝石を指先で指し示し、肩布の重なりに手を伸ばし、笑いながら距離を詰めてくる。腕に触れる指は、躊躇というものを知らなかった。


 ルシアンは王族として表情を崩さないように努めたが、内心では完全に固まっていた。


 胸元が大きく開いている。肌の上に直接触れる金鎖と宝石。その装飾を指先で示すたびに、女の指は自分の肌のすぐそばを通る。レヴァンティスではこれが普通なのだと、頭では分かっている。だが、頭で分かっていることと、身体で耐えられることは別だった。


 助けを求める視線をシオンへ送る。


 シオンは横で楽しそうに笑っていた。


「人気者だね、ルシアン殿下」


「助ける気がないなら黙っていろ」


「レヴァンティス式の歓迎だよ。失礼にしたら外交問題になるかも」


「お前、本当に性格が悪いな」


 シオンは肩を竦めるだけだった。


 女たちは、ある程度ルシアンに触れると満足したらしく、最後にもう一度笑って、礼を残して廊下の奥へ消えていった。香油の甘い匂いだけが、しばらく空気の中に残っている。


 ルシアンは小さく息を吐いた。


 その時、横で布が動く気配がした。


 セレネだった。


 いつもと同じ歩幅で、いつもと同じ静かな顔で、ルシアンの隣に立っている。けれど、ルシアンの名を呼ぶ前の沈黙が、普段より長かった。


「……随分と歓迎されていましたね」


 声はいつも通り淡々としていた。


「違う。俺が望んだわけじゃない」


「そうですか」


「本当に違う」


「否定が早いですね」


 セレネは表情を変えない。手首の金鎖を直す指が、いつもより長く同じ位置で止まっていた。


 ルシアンは何か言おうとして、言葉が見つからなかった。


 その時、セレネが小さく動いた。


 淡紫のベールが揺れ、彼女の指先がルシアンの腕の縁へ触れた。布越しでもない、肩布の途切れた素肌の場所だった。一瞬の触れ方ではなかった。指がそのまま腕の外側を滑り、ゆっくりと、ルシアンの腕へ絡む。


 ──先ほどの女たちの触れ方とは、違っていた。


 あの女たちの指は、肌をなぞるだけだった。軽く乗せて、軽く離す。じゃれるような、品定めするような、揺れる触れ方。だが、いまセレネの指は肌の上に置かれ、わずかに重さを乗せたまま、動かない。


 そして、彼女は身体を寄せた。


 止めるべきだ、と思った。だが、声が出なかった。


 セレネの黒髪が、ルシアンの肩へ流れる。流れた、というよりは、置かれた、に近かった。淡紫の薄絹の裾が、ルシアンの腰のあたりで重なる。胸元の絹が、ルシアンの胸元の開いた肌のすぐ近くで擦れた。香油の匂いが、近すぎる距離から立ち上る。


 その香油は、先ほどの女たちのものではなかった。セレネがいつも纏う、もっと低くて静かな匂いだった。それが、女たちの残した甘い残り香を、ルシアンの周りから、ゆっくりと押しのけていく。


 セレネ自身の体温が、布越しではなく、素肌そのもので伝わってきた。


 ルシアンは耳まで赤くなりなるのが分かった。その瞬間、視界の端で、金が滲む。感情が高ぶるほど濃くなるその瞳の色を、ルシアン自身、今は隠しきれる気がしなかった。


 普段ならドレス越し、手袋越し、せめて何かが間に挟まっていたら…。

 彼女の上腕が自分の上腕に直接触れ、肩が触れ、布の隙間から覗いた腹部の肌までもが、こちらの腕の内側に当たっている。


 頭の中が、一瞬だけ白くなった。


「セレネ」


 声が掠れた。


「はい」


「これは……その、どういう意味だ」


「レヴァンティス式の距離です」


「お前がする必要はないだろう」


「先ほどの方々は、していました」


「それとこれは違う」


「違うのですか」


 セレネの声は、いつも通り静かだった。ただ、彼女の海色の瞳はほんの少し揺れていた。


 ルシアンは奥歯を噛んだ。


 腕に絡んだ指の重さがいつもと違う。肩に置かれた黒髪が、いつもと違う。


 セレネ本人には、何もいやらしい意味も、誘惑のつもりも、おそらく何もない。先ほどの現地女性たちと同じ動作を、同じ意味のつもりで真似ているだけ。


 そう思っていた。


 けれど、もしそうなら、なぜ先ほどの女たちが現れた直後にだけ、こうなる。


 なぜ、よりにもよって、あの女たちが触れていた腕に絡む。


 なぜ、あの女たちの香油の匂いを、自分の匂いで上書きするように寄ってくる。


 偶然、と片付けてしまえる距離ではなかった。


 だが、セレネは何も言わない。確かめれば、また淡々と「現地の礼法です」と返ってくるだろう。


 ルシアンは返す言葉を探したが、どれも形にならなかった。腕からセレネを引き剥がすこともできず、振り払うこともできず、ただ、彼女の腕が自分に絡んだまま、固まっていた。


 その横で、シオンが小さく息を吐いた。


「……セレネ」


 軽い声を出そうとしたのは、分かった。


「君って、本気で殿下を殺しにかかるよね」


 シオンは苦笑していた。普段の笑いではなかった。口元の角度は同じなのに、目元の力が抜けている。からかいの言葉を選んでいるのに、声の底に、何か乾いた色が混じっていた。


「セレネ、加減してあげて。ルシアン殿下、もう限界そうだから」


「現地の礼法を確認しているだけです」


 セレネは即答した。


 シオンは、その返答に小さく笑った。今度は本当に苦笑だった。


「……うん。確認、ね」


 翠の瞳が一度、ルシアンへ向く。そして、セレネの白い指がルシアンの腕に絡んでいる場所へ落ちた。視線はすぐに離れる。けれど、戻ってきたシオンの表情からは、軽さがほんの少しだけ減っていた。


 ルシアンは、その視線の動きを見逃さなかった。


 シオンの目は、セレネの指の角度を、しばらく確かめるように見ていた。先ほどの令嬢たちのものより、ほんの少しだけ深く食い込んでいる指。肩に置かれた黒髪。香油の重ね方。それらを、ひとつずつ拾っていく目だった。


 ルシアンは、何も言わなかった。


 シオンは普段、こういう場面で迷わず軽口で覆い隠す。覆い隠した上で、ルシアンとセレネの距離をからかい、その下で何かを呑み込んでいる。今もそうだ。


 だが、呑み込んでいるものが、今日はいつもより少し見えていた。


「もう、行きましょう」


 ナディルが、控えめに廊下の先を示した。


 謁見の時間が、迫っていた。


 セレネはようやく一歩、横へ離れた。腕からも指がほどける。ほどけた直後、ルシアンの腕の内側に、彼女の体温だけが幻のように残った。


 ルシアンは、その温度を振り払うように深く息を吐いた。


 息を整えてから、上着の前を寄せかける手をまた途中で止める。閉じるものではない。分かっているのに、指が勝手に動く。


 歩き出したセレネは、もう普段の歩幅に戻っていた。ベールの裾は淡紫のまま揺れている。手首の金鎖を直す指の動きも、いつも通りに見えた。


 ただ、ルシアンの隣を歩く距離が、廊下に入った時より、ほんのわずかだけ近かった。


 その近さの理由を、ルシアンは口に出さなかった。


 シオンは半歩遅れて歩いていた。


 廊下を歩いた先に大きな白い扉が見えてきた。


 その扉の向こうに、王太女アリアナ・レヴァンティスがいる

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