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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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水と太陽の前で

 白い扉が、ナディルの手で静かに開かれた。


 奥に広がっていたのは、これまで見たどの宮廷の謁見の間とも違う空間だった。アルヴェリアの謁見の間が石と布で重さを作る場所なら、ここは水と布で軽さを作る場所だった。


 高い天井から、絹のような薄布が幾重にも垂れている。布の縁には金の細工が縫い止められ、灯りが揺れるたびに、その金が遠い水面のように瞬いた。床は磨かれた青石で、奥の壁面に細い溝が走り、そこから絶えず水が流れ落ちている。室内には常に低い水音が満ちていた。空気は乾いた香草と微かな潮の匂いに包まれていて、室内にいながら海の側にいるような感覚があった。


 奥の段差の上に、ひとつの椅子がある。


 椅子はあっても、玉座のような威圧感はなかった。淡い紫の薄絹が背もたれから垂れ、金細工の縁取りだけが灯りを返している。その手前に、王太女アリアナ・レヴァンティスは立っていた。


 ルシアンは、無意識に足を止めた。


 最初に目に入ったのは、肩から落ちる長いベールだった。淡紫と銀の薄絹が、頭の上から背中まで一続きに流れている。額には細い金の鎖が掛けられ、その中央で紫の宝石が一粒、額の中央へ落ちていた。耳にも同じ色の石が長く下がり、立ち姿のままでも微かに揺れる。


 身に着けているのは、布というより装飾だった。


 胸を覆っているのは金細工で組まれた小さな当て布で、その縁を紫の宝石が連ねている。肩は剥き出し、鎖骨の上にも何も載っていない。胸の下から肌が完全に晒され、腰のくびれまで何も覆っていない。腰には濃い紫の帯と長く垂れる薄絹が幾重にも結ばれ、サイドに入った深い切れ込みからは、立ち姿でも白い脚の線が一筋覗いていた。足元の革は、踝に金鎖を絡めただけのほとんど開いた作りだった。


 ルシアンは喉の奥で短く息を吐いた。


 布の少なさは、もう驚かなかった。レヴァンティス王宮へ着いた時点で、この国ではそれが普通なのだと、頭では受け入れている。だが、王太女が同じ装いで人を迎える姿は、まるで意味が違った。


 露出は、軽薄さに繋がっていなかった。


 紫水晶の瞳は、こちらが何者か、なぜ来たかを、もうとっくに知っているような気配があった。歩み出ない。喋り出さない。けれど、控えの間にいた小姓の動き、廊下の警備の位置、ルシアンたちが進む歩幅。それらすべてが彼女の視線の中で一度確かめられたように見えた。


 ベールの裾が静かに動き、紫水晶の瞳がルシアンへ向く。


「お会いできて嬉しく思います、第三王子殿下」


 軽くもなく、重くもない、整った声だった。歓迎の言葉なのに、評価する目だけが先に届く。シオンが船上で言っていた、笑っている時ほど見ている場所が多い、という言葉の意味が、その一言だけで分かった。


 ルシアンは胸へ片手を当て、礼を返した。


「お招きいただき感謝いたします、アリアナ王太女。アルヴェリア王家を代表し、フェリクス兄上とミレイユ夫人の婚姻に賜りました祝辞と贈り物への返礼に参じました」


 形式通りの言葉だった。アリアナも形式通りに頷き、ナディルが間に入って贈答品の目録を読み上げる。短いやり取りの間、室内の水音だけが、誰の声よりも長く続いていた。


 形式が一段落した時、アリアナの口元がほんの少しだけ動いた。


「アルヴェリアの方に、こちらの装いを着ていただけるとは思いませんでした」


 穏やかな声だった。からかいではなかったが、ただの世辞でもなかった。


「郷には郷に従えと聞いておりますので」


「ご無理を強いたのでなければよいのですが」


「身軽で助かっております」


 ルシアンは短く返した。実際には、肌の量に未だ慣れていない。だが、それを口にする気はなかった。


 アリアナはわずかに笑った。それから、視線をセレネへ向ける。


「お似合いですわ」


 短い称賛だった。


「アルヴェリアのお嬢様には、戸惑われたかと思いましたけれど」


 セレネが静かに頭を下げる。


「布の構造として、合理的だと思いました」


 答えるまでに、ためらいはなかった。


 アリアナの紫水晶の瞳が、ほんの一瞬だけ細められる。それから、彼女は小さく笑った。先ほどの形式的な笑みとは、別の笑い方だった。


「面白い方ね。ロマンより、構造を見る方」


「失礼でしたでしょうか」


「いいえ。むしろ、こちらの装いを着るには、その方が向いていらっしゃるかもしれません」


 アリアナの視線が、ルシアンの隣にいるシオンへ流れる。


「相変わらずですよ、セレネは」


 シオンが横で軽く言った。普段の調子に近いが、目元だけが普段より少し丁寧だった。


 アリアナの紫水晶の瞳が、シオンへ向く。


「あなたは変わらないわね。それも昔から」


 短い言葉だった。


 その一言の中に、ルシアンの知らない時間が一拍だけ含まれていた。シオンがレヴァンティスにいた数年。婚約者候補として宮廷へ通っていた日々。その間にアリアナとの間に積み重なった言葉や視線が、たった一言の中に折りたたまれていた。


 ルシアンは表情を変えなかった。


 深入りする場ではない。ここはあくまで返礼の謁見であり、シオンとアリアナの過去は、こちらが切り込むべきものではなかった。けれど、シオンの軽口の下にあるものを、アリアナは知っている。それだけは、短いやり取りからも伝わってきた。


 アリアナは視線をセレネへ戻した。


「あなたが布の構造で着られるのなら、レヴァンティスの言葉も、同じように受け取っていただけるかもしれません」


 声の調子が、ほんの少し変わった。


 形式の段が下りて、別の段に移った。そう感じた瞬間、ルシアンは室内の水音がいつの間にか少し近く聞こえている気がした。


「アルヴェリアでは、肌を隠すことが礼節なのでしょう」


 アリアナは続けた。


「けれどレヴァンティスでは、水と太陽の前で偽らないことを重んじます」


 ルシアンは黙ったまま、耳を傾けた。


「恋を隠すことは罪ではありません。けれど、誓約を偽ることは別です」


 その一言で、室内の空気がわずかに落ちた。


 誓約。


 アルヴェリアでも王家の婚姻誓約は重い。だが、レヴァンティスの誓約は、彼女の口調から伝わる重みが違った。神殿の前ではなく、水と太陽の前で。隠すか隠さないか、ではなく、偽るか偽らないか。


「だからこそ、偽りの伴侶という言葉は、この国では軽くありません」


 アリアナの声は静かだった。


 ルシアンは喉の奥で短く息を吸った。


 事件で繰り返されてきた言葉が、ここで初めて違う重みを持って耳に届いた。アルヴェリアで聞いていた時、それは怪異めいた噂の中の一語に過ぎなかった。だが、レヴァンティスの王太女の口から発される時、それは王家、信仰、誓約、政治、そのすべてに繋がる言葉だった。


 肌を隠さない国の、誓約だけを偽らない国の、次期女王。


 その王太女が、事件の名を知らないわけがない。


「殿下」


 ルシアンは静かに口を開いた。


「お耳にも届いているのでしょうか」


「アルヴェリアで起き始めた事件のことですわね」


 アリアナはわずかに頷いた。


「届いておりますわ。こちらでも、同じ形のものが起きておりましたから」


「では」


「ええ。あなた方がいらした理由も、表向きの返礼だけではないことも、私は存じています」


 ルシアンは無言だった。


 外交上、こちらから事件の話を切り出すべきではなかった。それを、アリアナの方から触れてきた。表面の形式の下で、すでに話の本筋が動いている。


 アリアナは、長く語らなかった。


「私を伴侶に選ぼうとした方々が、次々に亡くなっていることは、お耳に届いていますでしょう」


 淡々とした口調だった。声を落としもせず、嘆きもしない。けれど、紫水晶の瞳が、一拍だけ動きを止めた。


 ルシアンは答えなかった。答える代わりに、視線を上げ、目で短く頷いた。


「事件の話は、改めて致しましょう。本日は長旅明けでいらっしゃいますから」


 アリアナはそう言って、姿勢を戻した。


「お部屋はご用意してあります。明日の朝には、海辺の宮で改めてお話しする席を設けます」


「お心遣い、感謝いたします」


 ルシアンが頭を下げた時、アリアナがふと、シオンへ視線を流した。


「シオン。久しぶりでしょう。少しだけ残ってくれる?」


 穏やかな声だった。けれど、王太女としての声だった。


 シオンは一瞬だけ、ルシアンの方を見た。視線が合ったのは一拍だけ。それから、シオンは小さく笑って、アリアナへ顔を向け直した。


「俺で良ければ」


「ええ。あなたで良いのよ」


 短いやり取りの中に、ルシアンの知らない時間が、もう一度折りたたまれていた。


 ナディルが控えの位置から進み出て、ルシアンとセレネへ別の扉を示した。


「お部屋までご案内いたします」


 ルシアンは頷き、セレネと並んで扉へ向かう。


 別の扉が開いた時、ルシアンは一度だけ振り返った。アリアナはまだ椅子の前に立ったままで、シオンへ何か短く言葉を掛けている。シオンは普段の軽い顔をしている。けれど、こちらに見えない位置で、翠の瞳が一拍、また焦点を失ったように見えた気がした。


 水音は、まだ低く続いていた。


 扉が閉じる直前、アリアナの声が、もう一度だけルシアンの耳に届いた。


「水と太陽の前では、偽れませんから」


 誰へ向けた言葉だったのか、扉が閉じてからは、もう確かめようがなかった。


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