表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

127/162

許可の夜

 ナディルの背を追って、ルシアンとセレネは白壁の回廊をさらに奥へ進んだ。


 謁見の間から離れるほど、廊下の灯りは数を減らし、青硝子越しの光だけが床へ細く落ちていた。柱の間からは、夜に沈んだ海の縁が見える。昼の青すぎる海はもうそこにはなく、灯りを返しているのは岸辺の篝火と、遠い船の灯だった。風はわずかに冷えていて、開いた胸元の肌にそのまま触れる。


 隣のセレネは、淡紫のベールを肩で揺らしながら、いつも通りの歩幅で歩いていた。腰のサイドの切れ込みから、歩むたびに白い脚の線が一筋ずつ覗く。ルシアンはそれを視界に入れないよう、視線を前へ固定した。


 回廊の突き当たり、二段だけ上がった先に、一棟の小さな宮があった。


「こちらが、お部屋でございます」


 ナディルが扉を開く。


 奥に広がっていたのは、白壁と青石の小さな部屋だった。天井から淡紫の薄絹が幾重にも垂れ、両側に細い金鎖が下がっている。窓は海に面して大きく開かれ、青硝子の格子越しに夜の海の音が常に低く満ちていた。室内の隅には小さな水盤があって、そこから流れる水が壁面を伝い、奥の溝へ落ちていく。香油の匂いは、謁見の間より少しだけ淡かった。


 部屋の中央に、寝台がひとつ。


 淡紫の薄絹がやはり天蓋から落ち、両側の金鎖の縁を縫い止めている。壁際には長い寝椅子があるが、独立した寝具はそこに用意されていない。並べられているのは、銀杯と果実の盆。湯あみへ続く扉が左手の奥にひとつ。


 ルシアンは、扉の手前で足を止めた。


「ナディル」


「はい」


 ルシアンは室内の寝台をもう一度だけ視線で確かめてから、声を作った。


「もうひと部屋、用意してもらえないか」


 ナディルはわずかに首を傾けた。アルヴェリア語の語尾だけが、また小さく歌になる。


「アルヴェリアでは、ご婚約のお相手とは別の部屋がお作法でいらっしゃいますか」


 ルシアンは答えなかった。


 答えれば嘘になる。アルヴェリアでも、セレネとは何度か同じ寝台で朝を迎えたことがある。それでも訂正する気は起きなかった。今ここで欲しいのは、文化の違い、という便利な口実だった。


「失礼いたしました。こちらでは、誓約前のご婚約者様方は同じ室でお過ごしいただくのが通例にございます」


 ナディルの口調には、咎める色も、からかう色もなかった。当たり前のことを当たり前に説明する声だった。


「水と太陽の前で偽らないこと、と申しますので」


 謁見の場でアリアナが口にした一言が、別の意味でルシアンの耳に戻ってくる。誓約の話だと思っていたものは、こうした生活の作法の根にも届いていた。


「ご不便がございましたら、別のお部屋を急ぎご用意いたします」


 ナディルはそう添えた。本当に用意してくれるのだろう。けれどここでそれを願えば、こちらが何を恐れているかを表に晒すことになる。


 ルシアンは喉の奥で短く息を吐いた。


「いや。結構だ」


 返事は、自分でも意外なほど早く出た。


「畏まりました」


 ナディルは胸へ手を当てて礼を残し、扉の向こうへ退いた。扉が閉じる音は、王宮の他のどの扉よりも軽かった。


 部屋に二人だけが残る。


 水音がいつの間にか近く聞こえた。


 ルシアンはセレネを見ないようにして、寝台から距離を取り、奥の寝椅子の方へ歩いた。歩きながら、自分が別室を諦めた理由を頭の中で並べ直す。


 アルヴェリアでなら、セレネとひとつの寝台で朝を迎えるのは、もう初めての夜ではなかった。腕の中に閉じ込めるように抱きしめて眠ったこともある。寝室の長椅子で寄り添って眠ったこともある。


 けれど、今夜は違う。


 レヴァンティスの夜着は薄絹一枚。アルヴェリアの感覚で言えば、下着としても薄すぎるほどの布の量で、肌の輪郭がそのまま透けて見える装いだった。あの装いの彼女と、ひと晩を同じ寝台で過ごすことの重さは、これまでのどの夜とも違う。アルヴェリアの幾重もの寝衣で腕の中に抱えていた彼女と、薄絹一枚の彼女は、もう別の女のように手の中へ残るはずだった。


 別室を願ったのは、その重さを引き受けきれないと、ルシアン自身が知っていたからだった。


 それでも、結局は「結構だ」と返した。


 理由はいくつもある。外交上、現地の作法を否定するのは得策ではない。セレネが昼の謁見で「合理的だと思いました」と答えた直後に、自分が動揺を晒すのは王族として恥になる。シオンがアリアナの宮へ残った今、別室を願えば、シオンの不在を周囲に強調することになる。


 理由は並んだ。並んだ理由の底に、もうひとつ、口に出さない本心があった。


 別室で休む選択を取れば、たぶん、もっと長く眠れなかった。薄絹一枚の彼女が、すぐ隣の壁の向こうで休んでいる――そのことを、ずっと意識し続けることになる。


 どちらも、堪えがたい夜だった。


 それなら、目に届く位置で眠る方が、まだ、ましだった。


 ルシアンは寝椅子の縁に指を掛けた。背を向けたまま、声だけを返す。


「セレネ」


「はい」


「俺はこちらで休む」


「……はい」


 返事は、いつもより少しだけ遅かった。


 振り返らなかった。振り返れば、彼女がどんな顔をしているか確かめたくなる。確かめた顔の意味を、また自分で勝手に翻訳して、長く眠れない夜にしてしまう。


 別室の侍女がやがて湯あみの支度を告げに来た。ルシアンとセレネはそれぞれ別の扉の奥へ通された。湯は淡く薄紫の花を浮かべた青石の浴槽に張られ、肌に当てると、潮の塩気と香油の甘さが同時に上がってきた。アルヴェリアの湯より、ほんの少しだけ熱が低い。


 湯から上がったルシアンに、侍従が夜着を差し出した。


 布の量は、昼間の礼装よりさらに少なかった。胸を覆うのは淡い青の薄絹一枚。肩から斜めに流れ、腰のあたりで細い帯に留めるだけの作りだった。下半身は同じ薄絹がもう一枚、腰から膝下まで巻かれている。手袋も、首飾りも、何もない。アルヴェリアの寝衣がどれほど何重に布を重ねていたか、今夜初めて思い知らされた気がした。


 部屋へ戻ると、寝椅子の上にはまだ誰もいなかった。


 ルシアンは寝椅子の縁に腰を下ろし、窓の方へ視線を流した。青硝子の格子の向こうで、夜の海が低く息をしている。海の灯と王宮の灯が、視界の中で別々の高さに並んでいた。


 扉の奥から、もうひとつの湯気が流れてくる気配があった。


 セレネが戻ってきた時、ルシアンは振り返るより先に、彼女が動く布の音で気づいた。


 淡紫の薄絹が片方の肩から斜めに掛けられ、胸から腰までを一枚で覆っている。もう片方の肩は剥き出しで、鎖骨の線と二の腕がそのまま灯火に晒されていた。腰のサイドには深い切れ込みがあって、歩むたびに薄絹が割れ、白い脚の線が膝のあたりまで覗く。昼の礼装ほど胸元は開いていない。けれど布の薄さは昼より上で、身体の輪郭が光を通してそのまま透けて見える作りだった。長い黒髪は湯のあとで緩く一度束ねられ、首筋から薄絹の縁へ流れ落ちている。香油の匂いは、湯のあとの肌の上で、昼より淡く澄んでいた。


 ルシアンはようやく振り返った。


 振り返って、喉の奥で短く息を呑んだ。


 昼の礼装は、宝石と金鎖と細工の多さで「装い」の形になっていた。けれど今のセレネには、装飾が何ひとつない。淡紫の薄絹一枚と、束ねた黒髪と、湯のあとの肌の匂いだけ。装いと呼べるものがほとんど剥がれていることが、かえって視線を逸らせなくしていた。


 胸の中の血が、一度、別の場所へ静かに流れた気がした。


 ルシアンは喉の奥でもう一度息を整えて、視線を一度だけ床へ落とした。そしてもう一度顔を上げる。それでようやく、王族の顔が戻った。


「……お先にいただきました」


 セレネはそれだけ言った。


 ルシアンは答える代わりに、寝椅子の縁から半歩寄って、寝台のそばを彼女へ譲った。セレネは小さく頷き、寝台の縁に荷をひとつ置いた。互いに、それ以上の言葉は要らなかった。要らないこと自体が、もう少し前なら考えられない距離だった。


 しばらくして、廊下の方から軽い足音がした。


 扉が叩かれ、夜食の盆が運ばれてくる。銀の杯がふたつ。淡い果実と薄い乾肉、温めた米の粥が小さな器に盛られている。ナディルではなく、若い侍女だった。盆を置き終えてから、侍女は形式の角度で礼をし、低く付け加えた。


「アステリオス様のお戻りは、遅くなる旨、伝言を承っております」


 ルシアンは、その伝言に頷いただけだった。


 セレネも頷いた。それだけだった。


 侍女が退いた後、二人は寝台の縁に並ばず、それぞれ別の場所で杯を取った。ルシアンは寝椅子の縁、セレネは窓辺の小さな椅子。間に置かれた盆の上で、銀の杯がふたつ、それぞれの灯りを返している。


 米の粥は、温度が下がりかけていた。


 食事の間、二人とも多くは話さなかった。話さない時間の中で、シオンの不在だけが、空席のように二人の間に確かな形を持って残った。


 杯を置いた後、ルシアンは立ち上がった。


「少し、外の風に当たる」


「……はい」


 ベランダへ続く硝子戸を、ルシアンは自分の手で押し開けた。


 夜気は、想像していたより冷えていた。


 潮の匂いは昼より濃く、香油の甘さがすっかり剥がれていた。手摺りに肘を置き、ルシアンは王宮の方角へ視線を流した。岬の上の小さな宮のここからは、王太女宮の中心が、夜の中で薄く見渡せる。柱と柱の間に灯りが灯り、奥の宮では、もう灯りが落ち始めていた。


 ただ一棟だけ、まだ灯りが落ちていない宮がある。


 その方角を、ルシアンはしばらく見ていた。


 謁見の場の終わりに、アリアナがシオンへ向けた声が、耳の奥でまだ残っていた。「あなたで良いのよ」。返したシオンの声は普段の軽さに近かった。けれど目元の力だけが、いつもより少し抜けていた。アリアナの紫水晶の瞳が、シオンへ向く時だけ、ほんの一拍長く止まっていた。


 ルシアンの知らない時間が、そこにあった気がした。


 もしかして、と、思いかけて、ルシアンは指先を手摺りの上で一度だけ強く握った。


 断定はしない。断定するための材料を、自分は持っていない。シオンが事件のために動いていることは知っている。レヴァンティス側に何かを引き換えにしている可能性も、頭の隅では分かっていた。けれど、その引き換えの中身を、こちらから決めつける権利は、誰にもない。


 ルシアンは指の力を抜いた。


 ただ、一棟だけ消えない灯りの方角だけが、視界から外せなくなっていた。


 背後で、薄絹が動く気配があった。


 セレネが、ベランダの段差を一段越え、ルシアンの隣に立った。同じ手摺りに、彼女も静かに指を置く。ただ、海の音と、夜気の冷たさと、二人分の呼吸だけが、しばらくの間そこに並んでいた。


 夜気は、薄絹を通してそのまま肌を冷やす。


 ルシアンは横目だけ動かして、セレネの肩の線を一度確かめた。腕に粟立つほどの冷たさではないが、長く立っていられる温度でもなかった。


「冷える」


「ええ」


「中へ戻ろう」


「……はい」


 二人は、ほとんど同じ動作で硝子戸の内側へ戻った。戸を閉めた瞬間、海の音が一度だけ遠くなり、部屋の中の水音が、再び二人の間を満たした。


 寝台と寝椅子の前で、ルシアンは一度足を止めた。


 言うべき言葉は、決まっていた。先に休め、と。布越しに頭を一度撫でて、灯りを落とすところまで、頭の中で順番がもう並んでいる。


 その順番を、セレネの方が先に崩した。


「ルシアン」


 呼ばれた名前は、いつもの声よりほんの半音低かった。


 ルシアンは視線を上げた。


 海色の瞳がすぐ目の前にあった。海色の瞳が、いつもより低い位置で止まり、それから顔へ戻る。胸元の薄絹の縁か、肩の素肌か、灯りの落ちた首筋か。どこで止まったのかは分からない。けれど、視線の戻り方の中に、いつもならない迷いの時間があった。


「今夜の私が」


 セレネは一度、唇だけを開いて、また閉じた。


「廊下の、あの方々と」


「セレネ」


「違う、と――お思いでしょうか」


 最後の半分は、聞き取れるかどうかの低さだった。


 その問いを聞いた瞬間、ルシアンの中で何かが弾けた。


 廊下で群がってきたあの女たちと、目の前のこの女が、一緒であるはずがない。それを彼女が「分からない」と問いに出していること――その事実そのものが、ルシアンの腹の底を一度、強く突き上げた。


「違う」


 声は、自分で思ったより低く出た。


「あれと一緒にするな。セレネ自身をあんな手つきと同じ場所に置くな」


 セレネの睫毛が、低く伏せられた。逃げる動きではない。彼の言葉を静かに沈めるような落とし方だった。


 その動作を確かめてから、ルシアンは腕を動かした。


 セレネの肩を掴み、そのまま自分の胸へ引き寄せる。薄絹一枚越しに、彼女の身体が腕の中へ収まった。布の重みが軽すぎて、抱きしめている実感がほとんどない。香油の匂いが、湯のあとの肌から、近すぎる距離で立ち上る。


 ルシアンの右の手は、自然に彼女の背を支える位置へ流れた。


 その手が、流れた先で止まった。


 腰のサイドの切れ込み。布の縁が途切れて、剥き出しになっているくびれの線。ルシアンの手のひらは、布越しでも手袋越しでもなく彼女の素肌そのものに触れていた。


 触れた瞬間、指の先に一度だけ痺れが走った。


 血が、指先に集まるような感覚だった。視界の奥が、一瞬だけ薄く揺れた。手袋越しに何度か触れてきたものとはまるで違う温度だった。


 ルシアンは息を止めた。


 セレネも一瞬息が止まり、二人とも、しばらく動かなかった。


 動かないまま、ルシアンの手だけが、彼女の腰のくびれの上で確かに止まっていた。離せばよかった。離さなければいけなかった。それでも、指の力がほどけない。


「嫌なら、言ってくれ」


 声は、自分でも掠れていた。


 セレネはすぐには答えなかった。代わりに、彼女の指先がルシアンの胸元の薄絹の縁に触れ、その縁を一度だけ確かに押した。


 その押し方が、答えだった。


 セレネの黒髪が、ルシアンの肩の上でわずかに動く。顔の角度が上がり、海色の瞳がルシアンを見上げた。拒んでいない。逃げてもいない。ただ、いつもより睫毛が低く伏せられていた。


 ルシアンは、自分の方が先に動いた。


 顔を寄せる。海色の瞳が、ほんのわずかに伏せられた。彼女の睫毛の角度が、もう一段下がる。香油の匂いが、近すぎる距離で静かに立ち上がる。


 水音だけが、二人の間に残っている。


 夜は、まだ深まっていく途中だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ