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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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手の中に残る

 唇が触れた。


 最初は、確かめるような短い口づけだった。湯のあとに残る薄い熱と、香油の甘さが、近すぎる呼吸の間でほどける。これまでに何度か重ねた口づけと、何かが違っていた。アルヴェリアの厚い寝衣越しに抱きとめた時の彼女と、今夜、淡紫の薄絹をまとっている彼女とでは、触れる前から距離の意味が変わってしまう。ルシアンは一度だけ喉を鳴らしかけ、動きを止めた。


 セレネはただ、胸元に置かれた指先で、ルシアンの衣の縁を静かに押した。


 拒む力ではない。


 ルシアンはその小さな圧を、近すぎる距離で受け止めた。確かめるように海色の瞳を見下ろすと、セレネは瞬きをひとつ遅らせた。頬に熱が差しているわけではない。潤んだ目で訴えてくるわけでもない。それでも、彼女の指は離れず、むしろ布の端をほんの少しだけ握り直した。


 ルシアンはもう一度、唇を寄せた。


 今度は、少しだけ長く重ねた。離れようとした時、セレネの唇がわずかに残った。離れきる寸前のその短い迷いを見てしまったルシアンの胸の奥で、抑えていた熱が一段深く沈んだ。


 触れて、離れる。離れて、また近づく。角度が少しずつ変わり、合わせる時間が長くなる。唇の縁が互いの呼吸を覚えはじめるたび、湯のあとの熱と香油の甘さの奥にある彼女自身の温度が、直接ルシアンへ届いた。セレネの肩がかすかにこわばり、それから、張っていた糸が緩むように力を失って、彼の腕の中へ沈む。


「……ルシアン」


 唇が離れた合間に、彼女が名を呼んだ。


 低く、少し掠れていた。


 その一言で、ルシアンの腕に力が入った。彼女を抱えているのだと、身体がはっきり認識する。同時に、もう誰の手にも渡したくないという熱が、胸の奥で輪郭を持った。アルヴェリアでいくつもの朝を共に迎えても、ここまで重く、逃げ場のない独占は知らなかった。


 もう一度、唇を寄せる。今度はためらわなかった。


 ルシアンは右手を彼女の後頭部へ回した。ほどけかけた黒髪の下、湯のあとで温まった首筋に指が触れる。セレネの睫毛が伏せられ、彼の衣を掴んでいた指先が、ほんのわずかに強くなる。


「……嫌なら、止める」


 自分の声が思ったより低く響いた。


 セレネはすぐには答えなかった。唇の近くで呼吸を整えるようにしてから、彼の胸元を押していた指を、今度は押し返さずに置いた。


「嫌では、ありません」


 短い答えだった。


 それだけで十分だった。十分すぎた。


 ルシアンは彼女の肩を抱き直した。その動きで、二人の身体が半歩、寝台の方へ動く。意志を持って進んだわけではなかった。けれど止めるには遅いほど、互いの距離は近かった。


 寝台の縁にセレネの膝裏が触れた。そこでルシアンは動きを止める。灯火の下、彼女の海色の瞳をもう一度確かめた。


 セレネは目を逸らさなかった。


 その沈黙に急かす色はない。けれど拒絶もなかった。ルシアンは彼女の背に回した手で支えながら、寝台の上へ静かに横たえた。落とすのではなく、布の上へ沈めるように。彼女の黒髪が敷布にほどけ、淡紫の薄絹が水面のように広がる。肩を覆っていた布が少しずれ、白い鎖骨に灯りが細く留まった。


 ルシアンは寝台の縁に片膝を乗せた。彼女の上へ覆いかぶさりすぎないよう、片腕で自分の重さを支える。そのわずかな距離すら、今夜はひどく頼りなかった。


 また唇を寄せた。


 最初の確かめより深かった。けれど奪うほどではない。セレネの唇の開きに合わせて、自分の呼吸を少しだけ重ねる。彼女の指がルシアンの胸元から離れ、迷うように宙を滑ったあと、彼の背へ回された。


 布越しに、彼女の手のひらの形が広がる。


 その触れ方で、ルシアンの中に残っていた境がまた薄くなった。


 右手が、彼女の腰のあたりへ下りる。薄絹の上から、そっと支えた。ベランダで触れた時と同じはずなのに、寝台の上で彼女が自分の腕の中にいるだけで、指に伝わる温度の意味が変わってしまう。布の下にある肌を想像しないようにしても、薄い衣はあまりにも頼りなく、湯上がりの熱を隠しきれなかった。


 セレネの背が、わずかに反った。


 声は出なかった。代わりに、合わせた唇の端から、乱れた呼吸がこぼれる。ルシアンの背に回った指が衣を掴み、すぐに離そうとして、離しきれずに残った。


 止めるべきだ。


 その考えは、まだ彼の中にあった。だが身体の方が、熱を覚えてしまっている。腰を支えていた手のひらが、薄絹越しに彼女の背へ移りかける。もう少し引き寄せれば、彼女の体温はさらに近くなる。もう一度名を呼ばれたら、自分はその声を理由にしてしまう。


 その時、廊下の方から靴音がした。


 ルシアンの動きが止まった。


 ひとつ、ふたつ。白壁の回廊を渡る音が、扉の外へ近づいてくる。ナディルか、夜の侍女か、別の宮の使いかは分からない。ただ、磨かれた床を踏む硬い音だけが、近い。


 その音で、ルシアンの指先に戻ったのは冷静さではなく、責任だった。


 ここでこれ以上進めば、扉の外にいる誰かに、どんな形で見られるか分からない。薄絹をまとったセレネを寝台へ横たえ、自分がその上にいる光景を、明日の宮廷で囁かせるわけにはいかなかった。どれほど彼女が拒んでいなくても、どれほど自分が望んでいても、それは彼女を傷つける。


 ルシアンはゆっくりと手を引いた。


 薄絹越しに支えていた腰から指を離し、乱れた肩衣を整える。触れた温度が指の腹から遠ざかり、布の淡い冷たさだけが残った。寝台に半身を傾けていた姿勢を起こすと、セレネも彼の動きに合わせて身体を起こした。乱れていた薄絹を自分の指で直す仕草は静かだったが、指先の動きはいつもより少し遅かった。


 靴音は扉の前で止まらなかった。


 そのまま通り過ぎていく。誰だったのかは分からない。やがて音は廊下の奥へ遠ざかり、室内には水盤の低い水音と、整いきらない二人分の呼吸だけが残った。


 ルシアンは寝台の縁に座ったまま、片手で目元を覆った。


 あの靴音がなかったら。


 頭の中で、その仮定が何度か形を変えた。あと数秒、誰も廊下を歩かなかったら、自分はどこまで進んでいたのか。指に残った温度が、答えの輪郭だけをはっきりさせている。


「……すまない」


 声は掠れていた。


 セレネは、すぐには答えなかった。


 ルシアンが目元を覆っていた手を下ろすと、海色の瞳がすぐ近くにあった。いつもなら水底へ沈めてしまうはずの熱が、その瞳の奥で薄く揺れている。


 セレネの白い指が、ルシアンの夜着の縁を、無言で掴んだ。


 掴んだあと、その指は離れなかった。むしろ、ほんのわずかに彼を引き寄せるように、布の縁を握り直す。


 長い黒髪が肩から流れて、湯のあとの香油の匂いが、もう一度近くで立ち上がった。セレネの唇が、答えるための形に開きかけて、一度だけ閉じる。それから、ほんの少しだけ間を置いて、また開いた。


「……止まらなかった場合のことを、考えなかったわけではありません」


 いつもより、半音だけ低い声だった。


 彼を見上げる海色の瞳には、普段の正確さとは違う、湿った熱が薄く沈んでいた。夜着の縁を掴んだ指は、まだ離れない。むしろ、もう一度だけ、布越しに彼の胸の方へ、ほんの少し力が込められた。


 ルシアンは返事を失った。


 彼女はそれ以上、甘えるようなことを言わなかった。恥じらうように顔を覆うこともない。ただ、言ってしまった言葉の行方を見届けるように、静かに彼を見ていた。


 ルシアンは額を彼女の額の近くへ寄せた。触れるか触れないかの距離で止める。二人の呼吸が近くで揃い、薄い闇の中でしばらく同じ拍を刻んだ。


「……セレネは、時々とんでもないことを言う」


「……事実です」


「そういうところだ」


 低く返した声に、セレネの睫毛が少しだけ揺れた。笑ったわけではない。けれど、彼女の指先が手の甲に置かれたまま離れなかったので、ルシアンはそれ以上何も言えなくなった。


 やがて彼は身体を起こし、寝台の縁から離れた。


「先に休め」


「ルシアンも」


「俺は寝椅子で十分だ」


 短いやり取りだった。けれど、同じ言葉でも、ここへ来た時とは含んでいるものが違っていた。


 セレネはそれ以上押し返さず、寝台の上へ静かに身を横たえた。淡紫の薄絹が彼女の身体をゆるく包み、落とした灯火の名残を淡く返す。ルシアンは寝椅子へ戻り、傍らの灯りを落とした。


 部屋の中は、すぐに薄い闇へ沈んだ。


 水音だけが、二人の間に残る。


 ルシアンは寝椅子の上で目を閉じた。閉じても、右の手のひらだけがまだ熱を持っている。手袋越しでも厚い布越しでもない、彼女の体温の近さ。腰を支えた時の細さ。薄絹越しに伝わった湯上がりの温度。背へ回された彼女の指が、自分の衣を掴んだわずかな力。


 忘れようとしても、指が覚えていた。


 窓の向こうで、王宮の灯りが一つずつ落ちていく。奥の宮、月桂の宮、海辺の小宮。それぞれの灯りが、夜の底へ沈むように消えていった。


 ただ一棟だけ、まだ灯りが残っている。


 王太女宮の中心のさらに奥。アリアナの宮だ。シオンの部屋の方角は、ルシアンの位置からは見えない。それでも、そこに今夜の灯りがないことだけは、なぜか分かっていた。


 水盤の音は、低く続いている。


 ルシアンは手のひらをそっと開いた。そこには何もない。何もないのに、残っている温度だけが夜の深まりに逆らうように、少しずつ輪郭を濃くしていった。


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