戻った男
窓に嵌められた青硝子の格子を通り、朝の光が床へ斜めに落ちていた。夜の間に冷えた石壁は、白く明るみながらもまだ湿りを含んでいて、窓辺に吊られた薄紫の絹だけが、海から入る風に遅れて揺れている。水盤から落ちる水音は夜より細く、時折、遠い中庭で鳥が羽ばたく音が混じった。
ルシアンは寝椅子の上で目を開けた。
眠っていたのだと思う。だが眠りへ落ちた境も、目覚めた瞬間も、ひどく曖昧だった。右の掌には、夜の名残だけが残っている。熱と呼ぶには薄く、感触と呼ぶには深すぎるものが、指の内側に沈んだまま離れなかった。
寝台の方へ目を向ける。
セレネはすでに身を起こしていた。乱れていたはずの黒髪は胸元で一度だけ束ね直されている。結び目は整っていたが、毛先にだけ眠りの跡が残っていた。まとっている薄紫の絹は昨夜のものではない。新しい一枚へ替えたのだろう。肩口に落ちた布が、青い朝の光を受けて淡く透けていた。
「……起きていたのか」
自分の声が、思ったより低く出た。
「先ほど……」
セレネは短く答えた。
それだけで終わった。昨夜のことを口にすれば、言葉の方が先に壊れてしまいそうだった。セレネも何も足さない。ただ、視線が合った時、いつもならすぐに離れる海色の瞳が、半拍だけルシアンの中に留まった。
その半拍のあとで、彼女は銀の杯へ手を伸ばした。白い指が縁に触れる。普段とほとんど変わらない動きなのに、ルシアンは喉の奥を詰まらせた。
扉が控えめに叩かれる。
「お目覚めでいらっしゃいますか」
ナディルの声だった。
ルシアンは寝椅子から身を起こし、髪を片手で後ろへ払った。衣服の皺を直す指先に、まだ昨夜の熱が残っている気がして、彼は一度だけ掌を握り込む。セレネはその動きを見たかもしれなかったが、何も言わず、別室へ続く扉の奥へ案内されていった。
湯の匂いと乾いた布の匂いが、しばらく室内を入れ替えた。
身支度を終えて戻ると、夜食の盆は片づけられ、代わりに朝食の盆が三人分置かれていた。果実、薄く裂いた乾肉、温めた米の粥。夜の料理よりも白く湯気が立ち、香草の匂いが少しだけ強い。銀の杯は三つ並んでいたが、そのうち一つだけは手つかずのまま、窓辺の光を受けて冷えていた。
シオンの席だった。
ルシアンは窓辺の椅子に腰を下ろし、セレネは寝椅子の端へ座った。二人の間には盆がある。近すぎず、離れすぎてもいない距離だった。昨夜なら気にも留めなかった杯の位置が、今朝は妙に目に残る。
粥を半分ほど口にした頃、廊下の奥から足音が近づいてきた。
軽い足取りだった。けれど、いつものシオンより、ごくわずかに踵の落ちる音が遅い。扉の前で足音が止まり、叩くより先に声が届いた。
「悪い、遅くなった」
扉が開いた。
シオンが入ってくる。
赤銅色の髪は低い位置で緩く結ばれていた。普段と同じ笑みを浮かべているのに、結び紐の端だけが少し乱れている。胸元のシャツの合わせも、レヴァンティスの男物としては珍しくない程度に開いていたが、紐を結び直した跡が残っていた。指で急いで整えたのだろう。結び目の片側だけが固い。
風が入った拍子に、シオンの首筋から香油の匂いが漂った。
南国の女たちが好む、甘く濃い花の香りだった。いつもの彼の匂いではない。潮と酒と、乾いた朝の布の匂いの奥に、その香りだけが夜の色を残している。
シャツの襟が動いた拍子に、首筋の付け根あたりに薄く赤い跡が覗いた。歯の形にも、唇の形にも見える、夜のあいだに残された痕だった。シオン自身は気づいているのかいないのか、襟元の合わせを片手で直す素振りで、その跡を布の下へ隠した。
シオンは盆の前まで歩き、片手を上げた。
「先に始めてただろ」
「ああ」
ルシアンは杯を置いた。それ以上の言葉は、銀の縁が盆に触れる小さな音に任せた。
シオンは寝台の縁へ腰を下ろし、果実の皿に手を伸ばした。いつもなら指先で軽く摘まみ、冗談の一つでも混ぜるところだ。今朝は果実を取るまでに、ほんのわずかな間があった。口元は笑っている。だが、目元から先に力が抜けていた。
セレネの視線が、シオンの首筋へ一度だけ落ちた。
ほんの一度だった。香油の匂いに気づいたのか、紐の乱れに気づいたのか、あるいはその両方か。彼女は問いかけない。ただ杯を持つ指を少しだけ動かし、銀の縁に触れていた親指を離した。
シオンも、それに気づいただろう。
彼は果実を口へ運び、何事もなかったように噛んだ。甘い汁が唇に触れても、その笑みは深くならなかった。
「ルシアン殿下」
「何だ」
「進展があった」
その一言で、朝食の盆の上にあった余韻が別のものへ変わった。セレネの睫毛がわずかに上がる。ルシアンは匙を器の内側へ沈めたまま、シオンを見た。
「アリアナ王太女から、王太女宮の原簿閲覧の許可をいただいた。今日の午後、入れる」
「条件は」
「俺が話したことの、一部だけ」
シオンは軽く答えた。軽く聞こえるように、声の端をわざと上げたのだと分かる言い方だった。
昨夜、ベランダから見えた王太女宮の一角。明け方近くまで消えなかった灯り。今朝のシオンの襟元に残る結び直しの跡。首筋に薄く漂う、女物の香油。
ばらばらに置かれていたものが、ルシアンの中で同じ方角を向いた。
「話だけじゃないだろ」
低く言うと、シオンの指が止まった。
果実を摘まんだまま、彼はすぐには顔を上げない。赤い果汁が指先に移り、皿の白い縁へ落ちる前に、シオンはそれを布で拭った。動作は丁寧だったが、どこか投げやりだった。
「ルシアン殿下は、朝から鋭いね」
「ふざけるな」
短く遮ると、シオンの口元から笑みが少しだけ薄れた。
ルシアンは自分の声が荒くならないよう、奥歯を噛んだ。王族特務隊の隊長としてなら、問いただすべきだった。情報の出所、取引の条件、アリアナが何を求め、シオンが何を渡したのか。だが、その問いは刃物に似ていた。向ける先を少し誤れば、シオンが笑みの裏へ押し込めているものまで裂いてしまう。
「許可証一枚に、ずいぶん高いものを払ったな」
シオンは目を上げた。
翠の瞳は、朝の光を受けても明るくならなかった。数拍の沈黙のあと、彼は肩を竦める。
「値切ったつもりだったんだけど」
「シオン」
名前を呼ぶと、彼の睫毛がわずかに動いた。
「笑って誤魔化すな」
水盤の水が落ちる音が、細く続いていた。窓辺の薄絹が風を受け、青い影を床へ揺らす。
セレネは何も言わなかった。銀の杯を持つ指に、ほんの少しだけ力が入る。白い関節が朝の光の中で浮いて見えた。海色の瞳は杯の中へ落ちている。そこに映る光は揺れていたが、彼女自身は顔を上げなかった。
シオンは果実を皿へ戻した。
「必要だったからね」
それだけだった。
否定ではなかった。
ルシアンの胸の奥に苦いものが沈んだ。怒りなのか、嫌悪なのか、すぐには分からない。少なくとも、目の前の男だけへ向ける種類のものではなかった。アリアナへか、この国の宮廷へか、それともそんな取引を選ばせた事件そのものへか、自分でも形を決められない。
「次からは、先に言え」
シオンが目を細めた。
「何を?」
「お前一人で払うなと言ってる」
シオンの翠の瞳から、ほんの一瞬だけ色が抜けた。
すぐに、いつもの軽さが戻る。戻したのだと分かるくらい、丁寧に。
「……優しいね、ルシアン殿下」
「違う。腹が立ってるだけだ」
「俺に?」
「お前にもだ」
ルシアンは短く返した。
「だが、お前だけじゃない」
シオンはしばらくルシアンを見ていた。やがて、布で指先を拭い直す。そこにはもう果汁の赤は残っていなかった。
「覚えておくよ」
その声には、いつもの甘さがほとんどなかった。
ルシアンはそれ以上踏み込まなかった。踏み込めば、シオンが差し出したものへ名をつけることになる。名をつければ、それは取引の代金になってしまう。目の前の男は、笑って戻ってきた。自分が削ったものを、誰にも数えさせないために。
シオンの笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。けれど次に上がった声は、もう事件を追う男のものだった。
「ただし、預かったのは原簿の鍵だけだ。レヴァンティス側では何も協力しない、というのが王太女の条件だった」
シオンは皿の縁で、指先を一度だけ組んだ。
「アルヴェリアの使節団名簿。ミレイユ嬢の薬品処理で、消された場所から浮かんだ符号があっただろう」
ルシアンは頷いた。アルヴェリアの記録のいたるところから、ある一人の名前だけが削られていた。残ったのは、王太女宮の管理符号だけだった。
「その符号が、王太女宮の私的随行枠のものだ、というところまでは、もう確かめが付いている。あとは、原簿の中で符号と名前が結ばれた場所を、俺たちの目で見つけ出す」
「アリアナ王太女から、他に手掛かりは」
「無い」
シオンは果実の皿から指を離した。
「王太女が王家の縁者を自分の口で名指しした、という記録は、ご自身の立場を傷つける。だから許可だけを寄越して、あとは見て見ぬふりをする。原簿で照合するのも、出てきた名前をどう扱うかも、全部こちら持ちだ」
セレネが初めて口を挟んだ。
「私的随行枠ですか」
声は淡く、短い。けれどその一言で、ルシアンの中でも記録の形が組み上がった。公式使節ではなく、王太女宮の私的な移動に紛れた名。表の外交文書には残らず、けれど宮の内側には残る種類の足跡。
「そう」
シオンは頷いた。
「過去五年分の私的随行枠の符号を、こちらの符号と一つ一つ照合する。一致すれば、その隣に書かれた名前が、薔薇の夜会へ滑り込んだ男の正体だ」
そう言ってから、彼は一度だけ目を伏せた。翠の瞳が隠れる。伏せた睫毛の影の下で、表情から笑みが薄く剥がれた。
疲れではない。眠気でもない。
レヴァンティスへ来てから、シオンは時々こういう顔をする。軽い言葉の隙間から、昔この国に置いていった何かが、まだ足に絡んでいるような顔だ。
「午後には入れる。王太女宮の書庫は、外から見るより面倒だよ。原簿の棚も、閲覧者の名前も、きっちり残る。だから、ルシアン殿下、余計なことはしないでね」
「お前に言われたくない」
「俺だから言ってるんだよ」
軽口は戻った。だが、首筋の香油は消えない。青硝子を通る朝の光の中で、それだけが昨夜の名残として、薄く甘く漂っていた。
ルシアンは席を立たなかった。セレネも、シオンも、同じ盆を囲んだまま朝食を続けた。銀の匙が器に触れる音、水盤の水が落ちる音、外を渡る鳥の声が、部屋の中で少しずつ混ざっていく。
午後、王太女宮の書庫へ入る。
誰も改めて確認しなかった。だが、三人の間にはもう、その予定だけが置かれていた。朝の光が角度を変え、青硝子の影が床の上をゆっくりと移っていく。その影の先で、シオンの空いた杯だけが、最後まで一度も満たされなかった。




