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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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王太女宮の原簿

 午後の光は、王太女宮の白壁を斜めに撫でていた。


 朝に見た青硝子の影とは違い、宮へ続く回廊に落ちる光は、湿った石の表面で薄く散っている。壁際の花器には白い花が挿され、花弁の縁だけが淡く浮かび上がっていた。香油の甘さはまだ表の回廊に残っていたが、ナディルが先に立って中央の広間を抜けるにつれ、その匂いは少しずつ遠のいていく。


 広間の奥には、飾り柱の陰に隠れるように細い通路があった。そこから二段下がると、足音の響きが変わる。磨かれた白石の明るい反響ではなく、青みを帯びた石が靴底の音を短く受け止め、壁の奥で小さく返してきた。花と香油の代わりに、石の冷たさと古い紙の匂いが濃くなる。レヴァンティスの宮廷に漂う甘い熱は、ここまで来ると薄い膜の向こうへ押しやられていた。


 ルシアンは、半歩前を歩くセレネの横顔を見た。


 黒髪は宮の薄暗い通路で青を沈め、深い海色の瞳は前方の灯りを細く映している。朝食の席でシオンの首筋から漂っていた香油について、彼女は一度も触れなかった。その沈黙が、理解なのか、ただ言葉にしない選択なのか、ルシアンには断定できない。だからこそ、彼はその横顔から目を離しすぎないようにした。


 シオンは後ろにいた。足取りは軽いままだが、朝よりも少し音が浅い。赤銅色の髪が灯火を受けるたびに淡く沈み、翠の瞳はナディルの背ではなく、通路の壁や曲がり角の影を拾っている。よく知る場所へ戻ってきた者の目だと、ルシアンは思った。懐かしむ動きではない。足元に残った古い跡を、踏まないように探している。


 ナディルは突き当たりの青石の扉の前で足を止めた。


 扉に大きな装飾はない。ただ、取っ手の周りだけが何度も触れられて鈍く光っている。ナディルが鍵を差し込むと、内側で金属が小さく擦れ、湿気を吸った木が低く軋んで扉を押し開いた。


 書庫は小さな一室だった。


 白壁と青石で囲まれ、窓はない。壁の縁に細く灯された火が、棚の背と机の角に影を落としている。棚に収められた紙束は整っているが、乾いた古文書の匂いとは違う。海の湿り気を長く吸った紙は、革と糊と、薄く残った香料の匂いを混ぜていた。まだ誰かの手から離れ切っていない紙の匂いだった。


 中央の机へ、ナディルが革表紙の冊子を五冊並べる。どれも同じ大きさで、背に年を示す符号が押されていた。革の角は丁寧に補修され、紐の先だけがわずかに擦り切れている。


「こちらが、過去五年分の私的随行枠の原簿でございます」


 ナディルの声は低く、壁の奥へ短く落ちた。


「持ち出しは」


 ルシアンが問うと、ナディルは机の向こうで静かに頭を下げる。


「ご遠慮願います。アリアナ王太女の許可で開示できるのは、この書庫内での照合まででございます」


「閲覧者の記録は残るんだろうな」


「はい。お三方のお名前も、後ほどこちらで記入いたします」


 シオンが薄く笑った。


「ほらね。面倒だって言っただろ、ルシアン殿下」


「余計なことをするつもりはない」


「そう言う人ほど、紙を一枚余分に持って帰りたがるんだよ」


「自分の過去の話か」


 軽口は整っていた。だが、シオンはそこから先を続けない。ナディルも聞こえなかったように扉の方へ下がり、最後にもう一度だけ室内を見渡した。


「何かございましたら、扉の外に控えております」


 扉が閉まる。外から鍵は掛けられなかった。だが、厚い木と青石を挟んだだけで、宮の表にあった花の匂いも人の気配も遠くなる。残ったのは、壁の火が燃える細い音と、どこかから伝わる水の気配だった。


 ルシアンは机の上に、ミレイユが薬品処理で浮かばせた符号の写しを置いた。紙はアルヴェリアから持ち込んだものだ。こちらの湿気を吸い始めた端が、ほんの少しだけ反っている。


「この符号と一致する欄を、五年分の原簿から探す。符号の隣に書かれている名前が、アルヴェリアの使節団名簿から消された人物だ」


 シオンが頷いた。


「アリアナ王太女は答えを口にしなかった。だから、原簿に返してもらうしかない」


 セレネは中央の一冊を引き寄せた。革表紙の縁を指の腹で撫で、紐の結び目を乱さないように解いていく。白い指が紙の端へ掛かると、湿った頁がわずかに抵抗した。彼女は急がず、紙を傷めない角度で開く。深い海色の瞳が頁の上を流れていく。文字を拾うというより、紙の中に紛れた綻びを探す目だった。


 シオンは反対側から最も古い冊子を取った。指先の動きは普段通り軽い。けれど、頁をめくる間隔がいつもより半拍遅い。古い紙が指に貼りつくたび、爪の先でそっと剥がすようにしている。その爪の色が、灯火の下でわずかに薄く見えた。


「俺は五年前から見る。セレネは三年前、シオンは古い順でいいな」


「はい」


「任せて」


 返事の後、言葉は途切れた。古い宮廷紙の薄い摩擦音が、机の上で重なる。壁の縁からは水が細く流れる音がしていた。通路のどこかを渡っているのか、宮の下を通る水路なのか、ルシアンには分からない。ただ、その音は規則正しく、頁をめくる手の速さを少しずつ整えていく。


 原簿には、名前と符号、日付、随行先が細かな筆致で並んでいた。王太女宮の私的随行枠。公的な使節団名簿には載らず、けれど王家の内側では忘れないために残す記録。書き手は年によって違うらしく、文字の癖も、インクの濃さも少しずつ変わる。ある年の筆は丸く、別の年の筆は急ぎすぎて払いが細い。符号も似た形が多く、少し気を抜けば同じに見えた。


 ルシアンは写しの紙を横に置き、原簿の欄へ視線を落とした。一つずつ、同じ角度で比べる。似た形はいくつもある。だが、完全には重ならない。一つ目の記号の角度が違う。二つ目の払いが長すぎる。三つ目の点が半文字分ずれている。隣の欄には、アルヴェリアの春の訪問を示す印があるが、符号は違った。さらに数頁めくる。秋の記録に移る。王太女宮の内側で使われる細い記号が、紙の上で小さく並んでいた。


 指が、頁の中ほどで止まった。


 ルシアンはすぐに名前を見なかった。写しを引き寄せ、原簿の欄の横へ置く。灯火の下では線が揺れて見えるため、指で紙端を押さえた。ひとつ目の角度。合う。二つ目の払い。長さも、終わりの細り方も近い。三つ目の点は、文字半分ほど右へ置かれている。


 今度は揃った。


「あったかもしれない」


 声を抑えて告げると、セレネの頁をめくる手が止まり、シオンも顔を上げた。二人の視線が、同じ頁へ集まる。壁の火が小さく揺れ、紙の繊維の凹凸が影になった。


 ルシアンは符号の隣に書かれた名前を読んだ。


「セルジオ」


 棚の奥で、湿気を含んだ紙がわずかに鳴った。誰かが触れたわけではない。けれど、棚の中の冊子が自分の重みで擦れた、低い音が遅れて届く。


 シオンの指が、自分の冊子の縁で止まった。読み上げられた名前が、彼の中のどこかに触れたのだと分かる止まり方だった。翠の瞳の焦点が、机の上からわずかに外れている。仮面舞踏会の人波か、ルシアンの知らない過去か。その目が何を見ているのかは分からない。


「シオン、知っている男か」


 低く呼ぶと、シオンの視線が机の灯火へ流れた。火の色を一度受けてから、ようやくルシアンへ向く。


「……薔薇の夜会で、青薔薇をつけていた男だと思う」


 シオンは頁の上の名をもう一度見た。


「ルシアン殿下とセレネ嬢に話しかけてきた男。どこかで見たことがあると思っていたけど……セルジオだったのか」


 ルシアンの中で、あの夜の光景が引き戻された。


 水に浮かぶ灯り、香油の匂い、仮面の奥で笑った男。目の形も声も、人波に混じって輪郭を失っている。けれど、藤灰色の髪だけは残っていた。青薔薇の飾りの下で、紫を薄く含んだ灰色が灯りを受けていた。


「あの男か」


「ああ。セルジオは王家の縁戚だけど、継承順位は持っていない。藤灰色の髪は、王家筋の血が薄まった時に出る色だ。レヴァンティスでは、そう珍しいものじゃない。でも、王家に連なる血の目印としては十分に働く」


 ルシアンは頁の上の名前を見下ろした。


 セルジオ。青薔薇の男。あの夜、彼は偶然近づいたのではない。ルシアンとセレネの距離を測り、言葉の反応を見ていた。仮面の下で笑っていた顔よりも、こちらの返答を待つ間のわずかな沈黙が先に思い出される。


「三年前の春だ」


 ルシアンは日付の欄を指した。


 セレネの瞳がそこへ落ちる。彼女は何も言わず、隣の頁へ視線を移した。黒髪の影が頬へ掛かり、睫毛の下の海色が灯火を細く受ける。


「同じ年の秋にも、似た印があります」


 セレネが別の冊子を少し引き寄せた。白い指が、別の年の秋の欄を押さえる。そこにも同じ符号がある。セルジオの名は、春よりも薄いインクで記されていたが、筆の形は保たれている。アルヴェリアへの私的渡航。春と秋。公的な使節団名簿には、そこから誰かが消えていた。


 シオンの口元から、笑みが消え切らないまま薄くなる。


「二度来ている。少なくとも、紙の上ではね」


「紙の上では、じゃない。来ていたんだ」


 ルシアンが返すと、シオンは肩を竦めなかった。ただ、指先で自分の冊子の角を押さえ直す。


 その時、セレネが自分の冊子の上で指を止めた。


「……単独ではありません」


 彼女は頁を少しルシアンの方へ向けた。符号の右側に細い欄がある。見落としそうなほど狭いが、そこには誰の随行で同行したかを書き入れるための印が付いていた。セルジオの名前の横には、もう一段別の符号が記されている。


 シオンが身を寄せる。袖口が机の縁をかすめ、革表紙がかすかに擦れた。


「私的随行枠だからな。セルジオがここにいるなら、誰かの影に入って動いていたことになる。王太女宮の原簿は、そういうものを隠すためじゃなく、王家の内側だけで忘れないために残すものだ」


 セレネの白い指が、セルジオの符号の右側へ滑る。


「主の欄に、もう一つ名前があります」


 三人の視線が、一つの頁の上へ寄った。火が小さく揺れ、紙の上の影が一瞬だけ伸びる。セレネはその名を、淡い声で読み上げた。


「ノア・レヴァンティス」


 ルシアンには聞き覚えのない名前だった。


 少なくとも、レヴァンティスへ渡ってから、正式な挨拶の場でその名を聞いた記憶はない。王家の名を持つ者なら、使節団の資料や謁見前の名簿に一度は目を通しているはずだ。だが、紙の上にあるその名前は、知らない顔のまま机の中央に置かれている。


 シオンが息を吸った。だが、すぐには言葉にしない。頁を押さえる指に力が入り、爪の下の皮膚がわずかに白くなる。翠の瞳はノアの名を見ているが、その奥に映っているものは、この湿った書庫ではなかった。


「シオン。その名前も、知っているのか」


 ルシアンが呼ぶと、シオンは灯火の方へ一度視線を流し、紙の上の名へ戻した。短い往復のあと、低く息を吐く。


「乙女ゲームに出てくる登場人物だ」


 壁の火が燃える音が、細く耳に残った。


 ルシアンはすぐには問い返さなかった。乙女ゲーム。その単語は、まだ彼の中で完全に馴染んだものではない。セレネとシオンが語った前の人生の記憶。その中にあった物語、攻略対象、始まらなかった筋書き。聞いた時は、ルシアンの届かない場所の話として受け止めた。シオンの言葉で輪郭を補われても、どこか別の場所の話だった。


 だが今、ノア・レヴァンティスという名は、王太女宮の原簿の上に乾いたインクで残っている。遊戯の中の登場人物ではない。三年前の春、そして同じ年の秋、セルジオの名と同じ紙に結ばれていた男だ。


「同じ名の男がいたのか」


 シオンの口元に、薄い笑みの形だけが戻る。目元は笑っていない。


「いた。名前も、立場も、レヴァンティス王家の血筋であることも同じだ。でも、たぶん、それだけじゃ済まない」


 セレネは何も言わない。ノアの名の横の符号を見ている。睫毛の影が深く見えた。彼女の指先は紙へ触れていない。あとわずかで触れそうな位置で止まっていた。


 ルシアンは机の上の二つの名前を見下ろした。


 セルジオ。


 ノア・レヴァンティス。


 アルヴェリアで消された名前へ続く符号と、王太女宮の原簿に残る主従欄。その二つが、同じ頁の上で結ばれている。ここからさらに似た符号を探すよりも、今追うべきものは、セルジオの背後にいた男の輪郭だった。


「どういう男なんだ」


 ルシアンは、ノアの名から目を離さずに言った。


「ノア・レヴァンティスは……」


 シオンの翠の瞳が、ルシアンへ向く。ほんの一瞬、いつもの軽さとは違うものが浮かんだ。逃げ場を失った者の色が、翠の瞳の奥に薄く立つ。


 シオンは息を吐き、語り始めた。


 書庫の外で、遠く水の音がした。扉一枚を隔てているはずなのに、その音は壁の石を通り、足元からゆっくり伝わってくる。ルシアンはノアの名から目を離さなかった。


 顔も知らない男の名前が、紙の上で静かにこちらを見返していた。


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