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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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両国を、ひとつに

「ノア・レヴァンティスは……」


 シオンの声は、いつもの軽さを少しだけ失っていた。


 赤銅色の髪は灯火の下で暗く沈み、翠の瞳はまだ原簿の上にある。視線だけが紙に残り、声は別の場所から戻ってきた。ルシアンは黙って続きを待つ。セレネもまた、頁の端に触れないまま、ノアの名の横にある符号を見ていた。白い指先は紙からわずかに離れ、影だけが頁に落ちている。


「物語の中のノアは、攻略対象の一人だった。優しい王子枠、って呼ばれていたよ」


 レヴァンティスの王族を、その呼び方で語る違和感を、ルシアンはすぐには退けなかった。シオンの前世の記憶。こちらではない世界にあった物語。理解し切れない言葉でも、事件の紙片として机に置かれた以上、拾わずに済ませるわけにはいかない。


 シオンは、ノアの名を見たまま言葉を続けた。


「優しい王子枠、って言われていたけど、最初から穏やかなだけの男じゃない。あいつは国を変えたがっていた」


 紙の上で、ノア・レヴァンティスの名は動かない。


「今のレヴァンティスの制度も、宮廷の風習も、よしとは思っていない。けれど、それを正す方法がずれていた。王太女を支えるんじゃなく、自分が王位を取ればいい。自分が上に立てば、国を作り替えられる。そう考える男だった」


 ルシアンは、王太女宮の白い回廊を思い出した。水の音。青硝子の影。笑みの奥でこちらを測るアリアナ王太女の紫水晶の瞳。レヴァンティスの制度や風習を、ルシアンはまだ表面しか知らない。それでも、この宮に満ちる甘い香油と、王家の血を持つ者たちが当然のように差し出すものの重さは、短い滞在の中でも皮膚に残っている。


「そのためなら、非道なことも必要な犠牲として扱う。本人の中では、たぶん善意なんだよ。国のため、未来のため、正しい形に戻すため。そういう言葉で、自分の手が汚れていくことを許せる男だった」


 王位の近くにいる者が、自分だけを正しいと信じる。それは、ただの欲より厄介だった。欲なら奪うものが見える。金。権力。地位。だが、善意の形をした執着は、自分が踏みつけたものに名前をつけない。犠牲と呼び、必要と呼びながら、切り落としたものの重さを測らない。


「でも、ミアと出会う」


 シオンの声が、少しだけ低くなる。


「彼女と話して、ノアは初めて自分の考えが間違っていたと気づく。国を変えたいなら、奪うんじゃなく、支える道もある。王太女を支えることで国を変える道もある。そういうところへ、ミアとの会話で辿り着く」


 壁の火が、紙の上へ細い影を伸ばした。ノアの名の端に触れた影は、すぐに揺れて離れる。


「それは、ミアに攻略されるかどうかとは別だった。恋人にならなくてもいい。ノアのルートに入らなくても、彼女の言葉に触れるだけで変わる。最後には、レヴァンティスは王太女に任せよう、自分は国を支える側に回ろうと思う男だった」


 シオンの指が、原簿の端を押さえた。爪の下の皮膚が薄く白くなる。


「正しい言葉を受け取れた時だけ、優しい場所へ戻れる男だったんだと思う」


 ルシアンは、ノアの名前を見た。


 細い筆致で整えられたその名は、王太女宮の記録の中に沈んでいる。人の気配よりも先に、制度の匂いがする名だった。ミアという女に出会えれば変わる男。出会わなければ、変わらないまま進む男。同じ一人の中で、その分岐が並んでいる。


「物語では、そこで止まったのか」


「ああ。少なくとも、本編ではね」


 シオンは目を伏せた。睫毛の影が頬へ落ちる。


「だけど、攻略本の脚注に、別の分岐があった。普通に見ていれば、読み飛ばしても構わない場所に、小さく書かれていた」


 湿った紙の匂いが、灯火の熱でわずかに立つ。セレネの指先が、頁の端から離れたまま止まっていた。彼女は何も言わない。深い海色の瞳だけが、シオンの声と原簿の名前の間を往復している。


 シオンは、原簿から目を離さずに言った。


「ノアは、二つの国を一つにする王になろうとしていた。そう書いてあった」


 ルシアンは、机の縁に指を置いた。


「二つの国を、一つに」


 アルヴェリアとレヴァンティス。


 その二つを同じ手の中に入れる。以前から事件の奥にちらついていた輪郭が、ここでようやく形を持った。レヴァンティスで事件を起こし、同じ型をアルヴェリアへ持ち込む。怪異の噂を両国に広げ、恐怖を同じ名で結び、やがてそれを解ける者として自分を立たせる。


 ノアが欲しかったのは、レヴァンティスの王位だけではない。


 アルヴェリアも含めた、二つの国の上に立つ場所だ。


 シオンが頷いた。


「物語の筋では、ノアはレヴァンティスの王位に近づくために、両国で同じ呪いめいた事件を起こす。やがてアルヴェリア側でも事件が続けて起きる。そこでノアは言うんだ。アルヴェリアの事件は、レヴァンティスから流れた呪いだ。それを解けるのは、新しい王である自分だけだ、と」


 ルシアンは、頁の上の符号を見た。


 セルジオの名。ノアの名。三年前の渡航記録。レヴァンティスで起き、アルヴェリアへ波及した同型の事件。怪異の名を使い、人の記憶と記録が薄れる状況を作り、残された者の三日目へ手を伸ばす。


「救世主化、か」


「アルヴェリア王家がそれを信じれば、頼るしかなくなる。レヴァンティスで起きたものが、アルヴェリアへ流れた。なら、レヴァンティスを知る新しい王に任せるしかない。そう思わせる筋書きだよ」


 シオンの言葉は、いつもの軽さで飾られていない。だからこそ、紙の上へひとつずつ置かれていく。


「物語の本編では、ミアとの出会いで止まる男だった。現実のノアには、その出会いがない。止まる理由を、誰からも与えられないまま、今に至っている」


 ルシアンは、ノアという名前の輪郭が少しだけ変わるのを感じた。


 完全な悪意だけで動く男なら、斬り捨てる場所はまだ見つけやすい。だが、救われるはずだった位置に誰も現れず、分岐の先だけが残った男だとしたら、そこには別の厄介さがある。哀れみで片づく相手ではない。ただ、刃を向ける相手の形が変わる。


 救われるはずだった場所から、ひとりで外れた男。


 その輪郭だけが、湿った紙の匂いと一緒に沈んだ。


 セレネが、そこで頁へ視線を戻した。白い指先が、セルジオの名前の横をなぞらずに辿る。


「物語の筋書き通りであれば、ノアに王位を奪還させるためにセルジオは動いたことになりますね」


 短い言葉だった。だが、机の上に散っていた符号と名前が、事件の側へ引き戻される。


 シオンは頷いた。


「そうだと思う。薔薇の夜会でも、セルジオは色々調べていたんじゃないかな。ルシアン殿下とセレネ嬢の距離、誰が誰と結ばれているのか、どの屋敷へ入りやすいのか、どの時間に人目が薄くなるのか。そういうものを集めて、ノアに渡す」


 ルシアンは、セルジオの名を見た。


 原簿には名前がある。主従欄にはノアの名が残っている。だが、それだけでノアを縛るにはまだ弱い。セルジオが何を見て、何を渡し、ノアがどこまで動いたのか。その間を埋めるものがなければ、問い詰めても逃げ道を残す。


「だが、証拠が薄い」


 ルシアンは低く言った。


「本人を問い詰めるには、材料が足りない」


 シオンの指が、頁の右上にある小さな文字へ動いた。


「だから、もう一段必要だ」


 彼は細い但し書きを指した。ルシアンは目を細める。そこには、本文よりもさらに細い筆で、閲覧と照合に関する規定が記されている。湿気を吸った紙の繊維にインクが滲み、ところどころ線が太く見えた。


「私的随行枠の符号と名前の照合は、アリアナ王太女の許可だけで通る。けれど、この欄の中身を、誰が誰の随行だったかまで正式に突き合わせるには、王太女宮の許可だけでは足りない。王家記録官の承認が要る」


「王家記録官を動かせるのは」


「アリアナ王太女」


 シオンは短く答えた。


 ルシアンは、原簿の頁を見下ろす。セルジオの名とノアの名は、確かに同じ頁にある。だが、王家の決まりが壁になる。外から来たアルヴェリアの王子が、王太女宮の内側の記録を勝手に掘り返せば、それは事件捜査だけでは済まない。ノアが王家の血筋であるなら、なおさらだ。


 シオンが、ゆっくりと原簿から手を離した。


「もう一度、アリアナ王太女に話を通してくる」


 その言葉に、ルシアンは原簿から顔を上げた。


「一人で行かせると思うか」


 シオンの翠の瞳が、わずかに揺れた。


「ルシアン殿下?」


「これはアルヴェリアで起きている事件でもある。俺が話す」


 シオンは、ほんのわずかに笑みの形を作り損ねた。朝食の席で見せた、軽い逃げ道めいた顔は戻らない。


「アリアナ王太女は、ただ話しただけで許可を出す相手じゃないよ」


「知っている」


 ルシアンは写しの紙を机の上で整えた。


「だから、王族として話す」


 シオンはすぐには返さなかった。翠の瞳がルシアンを見て、それから机の上の原簿へ落ちる。朝から彼の身にまとわりついていた香油の気配は、書庫の紙の匂いに薄められている。それでもルシアンの記憶から消えてはいない。


 許可を得るたびに、誰かが何かを払う。そういう道を当然のように歩かせるつもりはなかった。


 セレネが、冊子の縁から指を離した。


「許可が下りれば、次は主従欄まで見られます」


 深い海色の瞳が、原簿へ戻る。


「その前に、ノア・レヴァンティスの名が出る頁だけ抜き出しておきます。戻られた時、すぐ確認できるように」


 必要なものだけを、順に置いた声だった。


 ルシアンはセレネを見る。黒髪の影が頬へ落ち、海色の瞳は原簿とルシアンの間を一度だけ行き来した。そこに引き止める色はない。だが、ほんのわずかに、瞬きの間隔が遅い。彼女はそれを言葉にしない。事件の前に置くべきものを、先に置く。


「頼む」


 ルシアンが言うと、セレネは静かに頷いた。


 シオンもまた、小さく息を吐く。


「……助かるよ、セレネ嬢」


 セレネはそれ以上応じず、机の上の紙へ視線を戻した。白い指が、湿った頁の端へかかる。火の影が細く揺れ、黒髪の艶をわずかに青く沈めた。


 ルシアンとシオンは書庫を出た。


 扉の外では、ナディルが控えていた。彼は二人の顔を見て、わずかに顎を引く。書庫の中で何かが進んだことを、足音だけで読み取った顔だった。


「ナディル」


 ルシアンは言った。


「アリアナ王太女へ取り次ぎを。アルヴェリア王家から、正式に話がある」


 ナディルの目が一度だけシオンへ流れた。すぐに戻る。


「畏まりました」


 王太女宮の奥へ向かう通路は、書庫へ降りた時よりも明るかった。壁の高い位置に開いた細い窓から、午後の光が斜めに落ちている。白壁には青硝子の影が伸び、歩くたびに足元で水の色が割れた。香油の甘さが、少しずつ戻ってくる。花の匂いも混じっていたが、その下には宮の石に染みた湿り気が残っていた。


 シオンは隣を歩いていた。赤銅色の髪が光を受けるたび、火の色から錆びた金属の色へと沈む。口を開かない。いつもなら、こういう時こそ軽い言葉を挟んでくる男だ。だが、今は沈黙の方を選んでいる。


「何だ」


 ルシアンが低く問うと、シオンは視線だけを向けた。


「いや。ルシアン殿下が、ちゃんと怒ってるなと思って」


「怒ってる。だいたい合ってる」


「俺に?」


「それもある」


 シオンの口元が、ほんの少し動いた。


「正直だね」


「褒めるな。気色悪い」


 短いやり取りの後、また水の音だけが残った。ナディルは前を歩き、曲がり角で一度立ち止まる。そこから先は、王太女宮の中心に近い。床の石はさらに白く、柱の装飾も細やかになる。薄布が何枚も重ねられた入口の向こうで、涼しげな水音が広がっていた。


 アリアナ王太女は、青硝子の影が落ちる私室の奥にいた。


 朝よりも香油の匂いは薄い。白い薄布の向こうで水が流れ、床に落ちた光がゆっくり揺れている。アリアナは長椅子の上で片肘をつき、紫水晶の瞳を細めた。衣装は朝よりも軽いものに替わっていたが、布の重なりと宝飾の位置に隙はない。王太女として見られることに慣れた人間の座り方だった。


「午後にもお会いするとは思いませんでした、ルシアン殿下」


「こちらも、同じ日に二度も王太女宮の奥へ入るとは思っていませんでした」


 シオンはルシアンの半歩後ろに立っている。いつものように前へ出ない。アリアナの視線が一瞬だけ彼へ流れたが、ルシアンはその前に言葉を置いた。


「アルヴェリアで起きている事件と、レヴァンティスで起きている事件は繋がっています」


 アリアナの指が、長椅子の肘掛けで止まった。


「ずいぶん大きなことをおっしゃるのね」


「大きくしたのは、こちらではありません」


 ルシアンは、王太女宮の原簿から写した符号の紙を差し出した。ナディルが受け取り、アリアナの前へ運ぶ。彼女は紙へ視線を落としたが、すぐには手に取らない。


「三年前、セルジオという男がアルヴェリアへ私的渡航しています。その主従欄に、ノア・レヴァンティスの名がある。レヴァンティスで起きた事件と同じ型のものが、今、アルヴェリアでも起きている」


「それで、わたくしに何を?」


「王家記録官の承認をいただきたい。主従欄の正式照合が必要です」


 アリアナの口元に、薄い笑みが浮かんだ。


「アルヴェリアの王子は、レヴァンティスの内側へ随分と踏み込むのですね」


 ルシアンは、その笑みを見た。


 朝なら、シオンが言葉を挟んだかもしれない。軽く笑い、甘く流し、彼女の機嫌を取る側へ回ったはずだ。だが今、ルシアンはそれを待たなかった。


「他国のことを、うだうだ言いたいわけではありません」


 声は低く落ちた。


「ですが、権限や許可のたびに、人の身体や寵愛を差し出すことを当然にしているなら、その風習そのものが、王位を奪おうとする者につけ込まれているのではありませんか」


 アリアナの紫水晶の瞳から、笑みの薄膜が消えた。


 水音だけが、白い薄布の向こうで続いている。


「王族のそばにいる人間が、誰の許可で動き、誰の寵愛で扉を開けるのか。その流れが読めるなら、王家の内側を動かす道も読める」


 ルシアンは言葉を切った。


「ノアは、そこを見ているのではありませんか」


 アリアナは動かなかった。


 紫水晶の瞳は、ルシアンではなく、手元の紙へ落ちている。長椅子の肘掛けに置かれた指が、布の縫い目を押さえた。強く握ってはいない。だが、指先の色だけが薄く変わっている。


「レヴァンティスでは、結婚後にそのような関係を続けるわけではありません」


 アリアナの声は、いつもより乾いていた。


「王族の結婚は、家と国の形を定めるものです。未婚の間の寵愛と、婚姻後の責務は別のものとして扱われてきました」


「その別が、外から見て分かると思いますか」


 ルシアンは返した。


「今、王族が何を許し、何を当たり前にしているか。そこに人が集まり、権限が集まり、扉が開く。王位を狙う者がいるなら、まずそこを見る」


 アリアナの視線が、ゆっくりとシオンへ移った。


 シオンは何も言わなかった。赤銅色の髪が薄布越しの光を受け、翠の瞳は床へ落ちた水の影を見ている。アリアナの視線を受けても、いつもの笑みは浮かべない。


 薄布が水の動きでかすかに揺れる。布の端についた小さな銀飾りが、互いに触れて低い音を立てた。


 アリアナは、手元の紙を取った。


 細い指が符号の横を辿り、セルジオの名の位置で止まる。そこから主従欄へ移り、ノアの名のあたりで沈黙が落ちた。彼女の瞳はまだ美しい紫水晶の色を保っていたが、その奥に映る光が、さきほどまでより深く沈んでいる。


「……ノアは、昔から王太女宮のやり方を好んではいませんでした」


 アリアナの声は、薄布の向こうの水音に混じらず、まっすぐ届いた。


「それを、若い者の潔癖だと思っていたこともあります。レヴァンティスの風習に慣れない者は、王家の内側にいくらでもいる。けれど、いずれ誰もが折り合いをつけるものだと」


 ルシアンは黙って聞いた。


「ですが」


 アリアナの指が、紙の端を押さえる。


「折り合いをつけない者もいる、ということですね。王家の内側の流れを嫌いながら、その流れを読める者なら、使うこともできる」


 ルシアンの言葉を、彼女自身の場所へ置き直す声だった。


 アリアナは少しだけ目を伏せた。睫毛の影が頬へ落ちる。怒りを抑える顔ではない。認めたくないものを、ひとつずつ指で確かめている顔だった。


「協力しましょう」


 やがて、彼女は顔を上げた。


「王家記録官の承認も、わたくしから通します」


 ナディルがわずかに頭を下げる。彼の表情は変わらなかったが、手元の布を握る指だけが動いた。


 ルシアンは礼を述べるより先に、アリアナの目を見た。紫水晶の瞳は、もう先ほどの薄い笑みをまとっていない。王太女としての顔は保たれている。だが、その奥に、一度見えてしまった罅を塞ごうとする硬さがあった。


「感謝します」


「礼には及びません。これは、レヴァンティス王家の内側の問題でもあります」


 アリアナは、手元の紙をナディルへ返した。


「ただし、その前にお伝えしておきます」


 水音が、そこで一度だけ近く聞こえた。どこかの水盤から水が落ちたのだろう。白い薄布の下で、床に映る青い影が細く揺れる。


 アリアナは、ルシアンを見た。


「ノアは最近、王太女宮ではなく、古い離宮の記録に触れようとしていました」


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