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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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離宮の記録

 古い離宮へ向かう支度は、アリアナ王太女の一言で進んだ。


 王太女宮の執務室には、まだ先ほどまで開かれていた記録の匂いが残っていた。厚い紙に染みた潮気と、磨かれた床石の冷えた匂い。その中でアリアナ王太女は、側近が差し出した薄い上衣を受け取り、肩へ掛けながら言った。


「私が同行します。離宮の司書を動かすには、私がいた方が早い」


 侍従たちの指先が、わずかに忙しくなる。誰かが桟橋へ使いを走らせ、別の者が離宮へ先触れを出した。予定にない移動だと分かる。だが、誰も彼女の言葉を遮らない。


 ルシアンはその様子を見ていた。


 アリアナ王太女は、動くと決めた後が速い。王族としての権限を、どこまで押し通せるか分かっている者の速さだ。そこに見栄も、取り繕いもない。自国の古い制度に、ノアが触れていたかもしれない。その事実を前にしても、彼女はまず扉を開ける手順を選ぶ。


 哀れむべき相手ではない。


 ルシアンはそう思い、視線をセレネへ移した。


 セレネは机の上に残された写しへ目を落としていた。黒髪の先が頬の横で揺れ、深い海色の瞳は紙の文字を追っている。感情は声に出ない。ただ、頁の端に添えた指が、いつもより少し長く同じ場所に留まっていた。


「行くぞ」


 ルシアンが声をかけると、セレネは顔を上げた。


「はい」


 短い返事だった。だが、彼女はその写しから指を離す前に、ノアの名が記された行をもう一度だけ見た。


 王太女宮の裏手には、海へ降りる小さな桟橋がある。白い石段は陽を受けて温く、壁沿いに置かれた素焼きの鉢からは、乾いた草の匂いがした。舟はすでに用意されている。四人が乗れば余裕は少ない小舟だが、北の岬の付け根まで行くだけなら十分だった。


 櫂が水を押すと、舟底に低い振動が伝わった。


 午後の光は水面で細かく割れ、白い欠片になって舟の縁へ跳ねる。潮を含んだ雫がルシアンの指先へ触れた。レヴァンティスの衣装は、アルヴェリアの正装より肌を隠さない。手袋のない指に残った冷たさは、すぐに陽で乾いていく。


 向かいにはセレネが座っていた。薄い布の袖が海風に押され、手首の近くで淡く波打つ。彼女は揺れる舟の動きに合わせて姿勢を崩さず、膝の上で重ねた指だけを静かに組み替えた。その隣ではシオンが黙っている。赤銅色の髪に陽が入るたび、翠の瞳の下に落ちる影が変わった。いつもなら軽く笑って余計なことを言う男が、この短い航路では水面ばかりを見ていた。


 舟の先に座るアリアナ王太女は、北の岬を見つめている。


 レヴァンティスの海は明るい。だが、王太女の横顔に落ちる光は、王太女宮で見たものより薄く見えた。彼女が膝の上に置いた手は乱れない。けれど、親指の腹が人差し指の爪をゆっくり押している。その癖のような動きだけが、内側で計算され続けているものを示していた。


「古い離宮は、今も使われているのですか」


 セレネが尋ねた。


「住まいとしては使っておりません」


 アリアナ王太女は振り返らずに答える。


「曽祖父の代までは、あちらが王家の中心でした。今の王太女宮は新しい宮です。古い離宮は、祭祀と古文書の保管のためにだけ開かれます」


 セレネは小さく頷いた。


 それ以上、問いは続かない。けれどルシアンには、彼女が今の言葉を事件の中へ置いているのが分かった。人が住まなくなった王家の場所。日常から離され、古い記録だけを守る建物。そこへ、ノアは何度も足を運んでいた。


 舟はやがて、北の岬の付け根へ近づいた。


 古い離宮は、白い岩肌の上に低く建っている。王太女宮と同じ白壁を持ちながら、近づくほど印象が違った。壁の表面には潮風に削られた細かな筋が走り、丸窓の縁は陽と塩で浅く色を失っている。石段の継ぎ目には乾いた海草が絡み、門柱の足元には小さな貝殻がいくつも砕けていた。


 人が暮らすための柔らかさは少ない。庭らしき場所には刈り込まれた草と低い灌木があるが、花の匂いはほとんどしなかった。代わりに、古い石の熱と、海から上がる湿りが鼻先に残る。


 セレネの裾が風に取られた。ルシアンは半歩だけ近づく。彼女は自分で布を押さえ、こちらへ一瞬だけ視線を向けた。何も言わない。そのわずかな視線だけで、近づいたことには気づいていると分かる。


 離宮の扉は厚い木でできていた。金具は磨かれているのに、開く時には低く軋む。中へ入ると、外の光が背後で細く切れた。白と灰の石が敷かれた廊下には、使われていない長椅子が壁沿いに並び、燭台の皿には新しい蝋が置かれている。手入れはされている。だが、人が朝夕に行き来する場所の匂いではない。


 奥から紙と革の匂いが流れてくる。


 長く閉じられた本の匂い。乾ききらない湿気を吸った紙が、革表紙の油と混ざる匂い。ルシアンはフェリクスの研究室を思い出したが、こちらには薬草の青さがない。あるのは王家の古い言葉と、祭祀のために残された古い歌の名残だけだ。


 アリアナ王太女が短く命じると、控えていた侍従が奥へ向かった。しばらくして現れたのは、銀髪をきっちり結い上げた年配の女だった。黒い衣に鍵束を下げている。彼女は最初にアリアナ王太女へ深く礼をし、それからルシアンたちへ視線を移した。靴先、衣装の紋、顔。その順で確かめる目には、長年この場所を守ってきた者の慎重さがあった。


「記録番のマルタです」


 アリアナ王太女が告げる。


「直近三ヶ月の閲覧記録を見せなさい」


 マルタの指が鍵束の上で止まった。


 王太女の命令に逆らうつもりはないのだろう。けれど、離宮の記録を外から来た者へ開くことには、すぐに頷けないだけの歳月がその手に乗っている。鍵束の金属が触れ合い、小さな音を立てた。


「ノア・レヴァンティス殿下が、最近こちらへ何度か来られたと聞いています」


 アリアナ王太女は続けた。


「何をお探しでしたか」


 マルタは顔を上げなかった。唇だけが、わずかに動く。


「殿下は、王家継承の古い記録を御覧になっておりました。特に、第二位継承令以下の写しを」


 シオンの瞳が、そこで水面の影から戻った。


 ルシアンはその変化を横目で捉えたが、何も言わない。アリアナ王太女も振り返らなかった。ただ、紫水晶の瞳の焦点が、ほんの少し遠くなる。


 セレネが、マルタの鍵束へ視線を落とした。


「それだけですか」


 短い問いだった。


 マルタの指が、鍵のひとつを爪でなぞった。細い金属音が、石床の上を浅く滑る。


「いえ」


 彼女はようやく顔を少し上げた。


「古い祭祀の記録も、何度か御覧になっておりました。特に、婚礼にまつわる古いものを」


 その言葉の後、ルシアンは自分の指先が乾ききっていることに気づいた。舟で触れた潮の冷たさはもうない。代わりに、記録室へ続く廊下の奥から、乾いた紙の匂いが濃く流れてきた。


「案内を」


 アリアナ王太女の声に、マルタは鍵を選んだ。


 記録室は、離宮の奥にあった。


 窓は高く、数も少ない。昼間の光は細い線になって床へ落ち、棚と棚の間をまっすぐに切っている。壁一面に革表紙の帳簿や、紐で綴じられた写しが並んでいた。卓上には灯火が置かれ、炎は小さく揺れながら紙の端を淡く照らしている。


 マルタが厚い原簿を運んできた。表紙の角は丸く擦れ、開いた頁の端には、何度も押さえられた指の跡が薄く残っている。


 ルシアン、セレネ、シオンは卓を囲んだ。アリアナ王太女は少し離れた位置から、開かれていく頁を見ている。


 紙をめくる音が続く。


 ノアの名は、思ったより早く現れた。


 マルタの細い指が日付の行で止まる。過去三ヶ月の間に七回。並んだ日付は均等ではない。短い間隔で続いている箇所もあれば、しばらく空いた後にまた現れる箇所もある。ルシアンはその間隔を目で追い、事件が動いた時期と重ねた。


 ノアの名の横には、二つの流れがあった。


 ひとつは、王家継承に関わる記録だ。第二位以下の継承令を写したもの。かつて継承順位が動かされた時に先王が裁可を下した記録。傍系に退けられていた王族が再び継承権の列へ戻された前例。王位を一時的に代行する権限が誰へ移ったのかを示す古い承認文。


 もうひとつは、婚礼に関わる古い祭祀記録だった。頁の隅に記された分類名は、継承令の行とは違う棚を指している。婚礼歌、誓約文、伴侶を選ばなかった王太女にまつわる伝承、三日目の死に関する旧記録。時代も筆跡も違うはずの言葉が、ノアの閲覧記録の中で交互に現れていた。


「これだけの頻度で、わたくしの耳に入っていなかったのですか」


 アリアナ王太女の声は低かった。


 マルタは原簿のそばに立ったまま、深く頭を下げる。


「離宮の閲覧は、王家の縁者ならば原則として自由に通せます。禁書指定のあるものを除き、都度の報告義務はございません」


 アリアナ王太女の睫毛が伏せられた。


「制度の隙、ですね」


 その言葉に、マルタの手が鍵束を握り直した。王太女は記録番を責めているのではない。ルシアンにもそれは分かった。責める先が人ではなく、長い間そのまま通されてきた仕組みに向いている。


 セレネが原簿から視線を上げ、まず王家継承の棚へ向かった。


 マルタが示した一角には、継承に関わる写しが年代順に収められている。セレネの白い指が本の背を辿った。古い革の表面に触れるたび、細かな埃が灯火の近くへ舞う。彼女は一冊を抜き、卓へ置いた。続いて、同じ棚から二冊、三冊と選ぶ。


 表紙の金文字はところどころ剥げていた。それでも、古い王位継承令の写しという文字は読める。


 セレネは本の背を指で軽く撫でた。


「これらに共通するのは、継承順位の書き換えに使える根拠です」


 声は短い。余分な言葉は足されない。


 それだけで、卓の上の本が違う意味を帯びた。王家の歴史ではなく、今の王位へ手を伸ばすための道具になる。ルシアンは原簿に残るノアの名を見下ろした。三年前のアルヴェリアへの私的渡航。レヴァンティスで続く伴侶候補の死。アルヴェリアで起きた同じ型の事件。


 点だったものが、紙の上で線になり始める。


「ノアは、王位を奪うのではなく、自分が正当な継承者だと示そうとしていた、ということか」


 口に出すと、灯火の下の文字が一段濃くなった。


 シオンが卓の向こうで目を伏せた。赤銅色の髪が灯火を受け、いつもの明るさを少し失っている。彼は原簿に触れないまま、袖口の飾り紐を押さえていた。そこに何を思ったのか、ルシアンには分からない。ただ、その沈んだ横顔には、ノアを単なる敵として切り捨てられないものが残っている。


 セレネはそこで、継承の棚から離れた。


 次に向かったのは、記録室のさらに奥だった。そこだけ棚板の色が少し濃く、革表紙の背にも古い布が巻かれている。マルタが鍵束から細い鍵を選び、棚の前に掛けられた小さな留め具を外した。禁書ではない。だが、日常的に手に取られる書物ではないのだろう。扉が開くと、紙よりも古い布の匂いが先に出てきた。


「こちらが、祭祀記録です」


 マルタの声は先ほどより慎重だった。


 セレネは棚の前で足を止め、原簿の記載と背表紙を照らし合わせる。白い指が、布のかかった一冊に触れた。表紙の金文字はほとんど剥げている。それでも、斜めに入った傷の下に、偽りの伴侶という文字が残っていた。


 ルシアンは、その言葉を見た瞬間、首のない遺体を思い出した。


 偽りの伴侶は三日目に首を失う。首を落とされた者の名は、片割れの記憶から消える。忘れた者は、三日後に同じ場所へ迎えに来られる。


 噂として聞けば、古い国にありがちな言い伝えにすぎない。だが、その原典が今、卓へ置かれる。革表紙の角は擦り切れ、頁の間には薄い砂のようなものが入り込んでいた。海辺の離宮に長く置かれていたせいか、紙の端はわずかに波打っている。


 セレネは次の本を開いた。


 そこには古い婚礼歌が並んでいた。歌詞の横には、どの場面で歌われるかを示す細かな注がある。花嫁を迎える歌、伴侶を呼ぶ歌、選ばれなかった者を門の外へ送る歌。書き手の筆は丁寧で、音の上げ下げを示す小さな印まで残されている。けれど頁を追うほど、祝うための歌と遠ざけるための歌の境が薄くなっていく。


 その隣の写しには、婚礼誓約の古い文句が集められていた。現在のレヴァンティスで使われるものより長く、呼びかける相手の名を何度も重ねる形をしている。さらに奥の束には、三日目の死に関する旧記録が綴じられていた。頁の端には、過去に似た言い伝えが起こったとされる年と場所が、細く書き込まれている。


 セレネは、偽りの伴侶の表紙へ指を戻した。


「ノアは、継承令だけでなく、怪異の仕組みを学ぼうとしていた可能性があります」


 シオンが顔を上げた。


 その翠の瞳は、さっきよりも深い色をしていた。前世の記憶を口にする時の軽さはない。彼はアリアナ王太女の方を見ず、卓上に広がる婚礼歌の写しを見たまま言った。


「ノアは、怪異を本気で信じて動く男じゃない」


 低い声だった。


「少なくとも、俺がレヴァンティスで見ていた限りではね。なら、これは信仰じゃない。人の目に怪異として映すための材料集めだ」


 アリアナ王太女はその言葉を否定しなかった。


 ルシアンは、婚礼歌の頁に視線を落とす。歌、誓約、伝承、三日目の死。どれもひとつだけなら古い紙に眠る言葉だ。だが、これらを選んで取り出し、人の死と組み合わせればどうなるか。


「人の目には怪異と映る」


 ルシアンは言った。


「だが実際は、ノアが古い祭祀記録を借りて作り上げた演出だった、ということか」


 セレネはすぐには頷かなかった。


 彼女は婚礼誓約文の写しを開き、細い注釈の行へ目を留めている。灯火が揺れ、海色の瞳に小さな光が入った。白い指が、注釈の横で止まる。


「ただし……」


 言葉が切れた。


 紙のめくれる音だけが、棚の間で小さく響いた。セレネはその行を読み直してから、静かに続ける。


「これらの文句は、口に出すと、本人が知らないはずの言葉まで継いでしまうことがある、と婚礼書には注釈があります」


 ルシアンは顔を上げた。


「どういう意味だ」


「分かりません」


 セレネは短く答える。


「注釈には、それ以上の説明がありません」


 分からない、と言いながら、彼女の指はその行からすぐには離れなかった。ルシアンはその白い指先を見る。紙に書かれた古い文句が、人の口を通って別の言葉を連れてくる。そんなものを正面から信じるつもりはない。けれど、否定するには、これまでの事件はあまりに紙の上の伝承に沿いすぎている。


 シオンが目を伏せた。


 赤銅色の髪が頬に影を落とす。彼は何かを知っている顔をしていた。だが、口にはしない。袖口の飾り紐を押さえていた指が、今度は緩く握られている。


 ルシアンは問い詰めなかった。


 今ここには、アリアナ王太女がいる。離宮の記録番もいる。シオンの中にある前の人生の話を、この場へ出すべきではない。それに、彼が黙った理由は、おそらく後で聞かなければならない種類のものだ。


 ルシアンは卓上の記録へ視線を戻した。


 継承令の写しと、祭祀記録。


 同じ卓の上に、正しさを作る紙と、怪異を作る紙が並んでいる。


 婚約者候補が死ぬ。首を失った遺体が残り、結ばれていたはずの名や約束が薄れていく。三日後には、残された相手も死ぬ。伴侶を選べない王太女。近づく者を失う王太女。婚姻によって結ばれるはずだった家々は、手を伸ばす前に指を引く。


 アリアナ王太女の地位は、急に崩されるのではない。周囲から支えを一本ずつ抜かれる。


 その裏で、ノアは古い離宮へ通った。王家の縁者ならば自由に触れられる記録。第二位以下の継承令。継承順位変更の前例。先王の意思表示。力で玉座を奪う者ではなく、記録に沿って進む者の準備だ。


 同時に、祭祀の棚から婚礼にまつわる古い言葉を拾っていた。偽りの伴侶。三日目の死。名を消す伝承。伴侶を呼ぶ歌。人が恐れるための形を、紙の中から取り出していた。


 さらにアルヴェリアでも同じ型の事件が起きれば、問題はレヴァンティスの内側だけに留まらない。二つの国に、同じ不安が生まれる。人は怪異の名を口にし、王家の守りを疑い、強い答えを求める。そこへ、正当な継承者の顔をした者が現れる。


 混乱を終わらせる者として。


 両国を救う者として。


 ルシアンは指先で原簿の端を押さえた。紙は湿気を含み、わずかに波打っている。


「救世主になる前に、正当化が必要だった」


 低く言う。


「同時に、怪異の演出も必要だった」


 アリアナ王太女は卓へ近づき、古い記録の山を見下ろした。紫水晶の瞳に灯火が映る。揺れた炎の形はすぐに崩れたが、彼女の視線は動かなかった。


「ノアは、わたくしを孤立させるだけでは足りなかったのです」


 彼女は言った。


「自分が正しい王であることを、紙の上で先に証明していた」


 そこで、彼女の指が継承令の表紙から、偽りの伴侶の古い記録へ移った。


「そして、怪異を呼び出す道具も、同じ離宮で揃えていた」


 マルタの鍵束が小さく鳴る。誰もそれを咎めなかった。


 アリアナ王太女は、古い王位継承令の写しへ指を戻した。表紙に触れる寸前で一度止まり、それから、金文字の剥げた部分をなぞる。王太女の爪は整えられていたが、その先が紙の上でほんの少し白くなった。


「彼を子供の頃から知っています。穏やかで、宮廷の華やかさを少し疎んでいる若者でした」


 ルシアンは黙って聞いた。


 慰める言葉は、今ここでは役に立たない。王族としての判断と、幼い頃から知る者への記憶が、同じ卓の上で重なっている。ルシアンに見えているのは、その重さを受け止めながらも背を曲げない王太女の姿だけだ。


「あの子が、ここまで」


 声は小さかった。


 シオンが目を伏せる。翠の瞳は隠れ、赤銅色の髪が頬の影を深くした。彼は何か言いかけたのか、唇をわずかに開いたが、結局、言葉にはしなかった。


 セレネが原簿の頁をそっと押さえる。戻ろうとする紙を、白い指が静かに留めた。


「次は、筆跡です」


 彼女の声が、紙と革の匂いの中を細く通る。


「両国の予告状とノア、セルジオの直筆を照合できれば、動機と手口が一本の線で繋がります」


 ルシアンは頷いた。


「明日、進める」


 それで、今この場で開けるべき箱は閉じた。


 真相に辿り着いたわけではない。だが、これまで水面の下で揺れていた影に、ようやく骨の形が見え始めている。ノアは王位を奪うつもりではなかった。奪ったように見せないために、古い紙の上で先に道を作っていた。さらに、人々が怪異と呼ぶ形まで、同じ紙の中から取り出している。


 記録室の高い窓から、北の岬の海が見える。


 夕方へ傾き始めたレヴァンティスの海は、王太女宮から見る朝の海とは違う色をしていた。青の底に灰と金が混ざり、岩へ寄せる波の縁だけが白く砕ける。シオン、セレネ、ルシアンは並んで、その色を見た。櫂の音も、王太女宮のざわめきも、ここまでは届かない。


 背後で、紙の表紙を撫でるかすかな音がした。


 アリアナ王太女だけは窓を見ず、古い記録へ指を置いたままだった。


 ノアは、紙の上で正しさと怪異の両方を準備していた。


 その事実だけが、書架の間に残っていた。


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