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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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筆跡を集める

 朝の光は、王太女宮の白い壁へ薄い青を残していた。


 レヴァンティスの朝は、夜の湿り気を石の床へ残したまま色を変える。窓の外では水路の水が低く鳴り、潮を含んだ風が細い隙間から入り込んで、昨夜遅くまで灯されていた油の匂いを少しずつ薄めていた。白壁はまだ眩しさを持たず、磨かれた床へ落ちる光も青みを帯びている。その淡い明るさの中で、王太女宮の執務室だけが、夜から続く作業をまだ手放していなかった。


 ルシアンが扉を開けると、セレネはすでに卓の前にいた。


 黒髪は乱れなく整えられ、深い海色の瞳も普段と変わらず静かだった。レヴァンティス式の装いにも、もう見慣れたはずだった。謁見でも、海宴でも、王太女宮の回廊でも、彼女はこの国の光に合わせた薄布をまとい、何事もない顔で隣に立っていた。


 それでも朝の執務室で二人きりになると、肩にかかる細い飾り紐や、腰布の結び目が必要以上に近く見える。腹部へ落ちた朝の光を視界に入れる前に、ルシアンは卓上の控えへ目を落とした。


 机上には、昨夜の離宮で確認した古い祭祀記録について、セレネが自分の手で書き留めた控えが並んでいる。全文ではなく、気になる文句だけを短く写したものだ。日付の欠け、筆写した者の名、婚礼歌の端に添えられていた注釈。セレネの字は乱れていないが、インクの黒はまだわずかに湿りを残していた。


 細い指が、一枚の端を押さえている。


 そこには、昨夜見つけた一文があった。


 これらの文句は、口に出すと、本人が知らないはずの言葉まで継いでしまうことがある。


「眠れたか」


 ルシアンが問うと、セレネは紙から目を離さないまま短く答えた。


「あまり」


「だろうな」


「ルシアンも、あまり眠っていない顔です」


 彼女はそう言ってから、ようやく顔を上げた。海色の瞳に朝の青が薄く映る。声は普段通りだったが、控えを押さえる指が一度だけ遅れて動いた。疲れを訴えることはない。だからこそ、ルシアンはそれ以上問い詰めるのをやめた。


「俺の顔を見る余裕はあるんだな」


「見ていますので」


 それだけだった。


 飾った言葉ではない。ただ、言葉の末尾が少しだけ柔らかく沈んだ。その小さな変化に触れそうになって、ルシアンは意識を紙へ戻す。控えに写された一文が、伸びかけた朝の静けさを薄く遮っていた。


「ノアか」


「ええ」


 セレネの指先が、注釈の末尾へ移る。


「正しさと、怪異。どちらも紙の上にあります」


「本人がどこまで分かって使っているか、だな」


「そこが、まだ噛み合っていません」


 昨夜、離宮で見つかった記録は二系統あった。古い継承令の写しと、古い婚礼歌や誓約文に関する祭祀記録。ノア・レヴァンティスは、自分が正当な継承者だと示すための紙と、偽りの伴侶の伝承を事件へ絡ませるための紙に触れていた。


 人の手で用意された筋書きに見える。だが、整えられた紙の隙間から、別のものが滲んでいる。


 扉の向こうで足音が止まった。


 入ってきたシオンは、いつものように笑わなかった。赤銅色の髪は朝の光を受けて柔らかく光っているが、翠の瞳には軽い冗談を置く場所がない。彼は椅子へ腰を下ろさず、卓の端に置かれた控えへ視線を落とした。婚礼書の注釈を見つけると、唇の端がわずかに下がる。


「……これが、昨日の離宮で見つけた注釈か」


「ああ。ノアが触れていた記録の中にあった」


 ルシアンが答えると、シオンは紙面へ目を落としたまま、しばらく黙った。古い婚礼文句の注釈。それだけなら、王宮の棚に眠る古びた知識の一つでしかない。けれど、首のない死体と、三日目の死と、白潮紙に書かれた予告状を知った後では、そこに置かれた文字はただの記録で終わらない。


「ノアが、これを読んでいたんだな」


「少なくとも、触れていた可能性は高い」


「……そうか」


 シオンの指先が、腰布の飾り房を一度だけ摘まんだ。それ以上、彼は言わなかった。


 ほどなく、アリアナ王太女が入ってきた。


 今朝の彼女は、昨日の離宮で見せた揺れを衣の内側へ沈めていた。白と薄紫を重ねた執務用の薄布は簡素だが、胸元の金鎖も腰の飾り布も乱れていない。紫水晶の瞳は机上の控えを一枚ずつ見た後、まっすぐルシアンたちへ向けられた。


「直筆の閲覧許可は、こちらで整えました」


「持ち出しはできないか」


「できません。ノアの私信は王太女宮の保管記録に含まれます。確認は記録室で行います」


 アリアナ王太女の返答は早かった。そこに迷いはない。


 ルシアンは頷いた。古い記録も、王族間の私信も、簡単に机の上へ運んでいいものではない。持ち出せない紙なら、こちらが紙のある場所へ行く。それだけだ。


 セレネは控えを重ね、必要な一枚だけを手元に残した。


「予告状は」


「封をしたまま、私が持ちます」


 アリアナ王太女が言うと、侍女が小さな証拠包みを差し出した。布の口には王太女宮の封があり、紐には二つの印が重なっている。アルヴェリアで押収した予告状と、レヴァンティスで家令宛てに届いた予告状。白潮紙であることは、すでに確認済みだった。


 四人は執務室を出た。


 王太女宮の記録室は、執務室から長い回廊を二つ曲がった奥にあった。窓は高く、外の光は白い壁に当たってから床へ落ちる。扉の前には衛兵が二人立ち、アリアナ王太女の印を確認してから、重い鍵を外した。金属が擦れる音が、朝の回廊へ細く伸びる。


 中には、紙の匂いが満ちていた。


 古い棚の木、乾いた糊、インク、潮を吸った紙。白い布で覆われた閲覧卓の上には、すでに記録係が用意した箱が置かれている。箱の蓋には王家の紋が浅く彫られ、開ける前から、それが個人の手紙ではなく王太女宮の保管物として扱われていることが分かった。


 記録係が一礼し、手袋を差し出す。


 アリアナ王太女はそれを受け取らず、自分の手袋をはめ直した。紫水晶の瞳は、箱から離れない。


「ノアが、王太女宮へ送ってきた私信です。古いものも、近いものもあります」


 声は乱れなかった。


 記録係が蓋を開く。内側には薄い布が敷かれ、その上に数通の書簡が重ねられていた。


 ルシアンは、まず紙へ目を留めた。


 白潮紙。


 薄い端が朝の灯火を含んで淡く透けている。貝殻の内側に残る白い光にも似た艶が、紙面の奥から静かに浮いていた。昼の光を受ければ、もっと白く明るく見えるだろう。アルヴェリアで押収した予告状も、レヴァンティスで押収された予告状も、この紙だった。


 白潮紙を使える者は限られる。だからこそ、あの紙はレヴァンティス王宮へ続く細い糸として残っていた。だが、王宮に近い者というだけでは名を呼べない。王太女宮、王族の縁戚、王家に許された家、書簡を扱う官吏。紙だけでは、まだ広すぎた。


 けれど、目の前の書簡は違う。


 アリアナ王太女が保管していた、ノアからの私信だった。


「ノアは、白潮紙を使えたんですね」


 セレネが静かに言った。


 アリアナ王太女は頷いた。紫水晶の瞳は、紙面から離れない。


「王族の私信として、不自然ではありません。あの子は、使える立場にいました」


 記録係が便箋を閲覧台の上へ広げる。封蝋はすでに切られているが、紙の縁は破られていない。大切に保管されてきた紙だけが持つ、乾いた静けさがある。


 整った筆跡が、灯火の下に現れた。


 わずかに右上がりの字だった。行の幅は揃い、文字の大きさにも乱れが少ない。祝いの言葉も、見舞いの言葉も、線の温度が変わらない。古いものには、まだ少し幼さがある。だが、角度や余白の取り方は変わっていなかった。年を経るごとに筆は安定し、余計な揺れだけが消えていく。


 セレネが卓の端から覗き込む。白い指は紙へ触れず、視線だけが文字を追った。


「整っています。崩す癖が、ほとんどありません」


 それだけを言って、彼女は少し身を引いた。


 シオンも書簡を見た。しばらく黙っていたが、やがて低く呟く。


「……字まで、あいつらしいのが嫌になる」


 アリアナ王太女の睫毛が少し伏せられた。彼女は何も言わず、箱の縁へ添えた指を動かさない。


 記録係が、次の書簡を開く。


 同じ白潮紙。同じ右上がりの線。同じ余白。日付は違う。宛てた言葉も違う。それでも、書き手の癖だけは紙の底で揃っていた。


 アリアナ王太女が封をした証拠包みを開かせる。


 まず、アルヴェリアで押収された予告状が閲覧卓へ広げられた。薬品処理で浮かび上がった文字は、薄い褐色で紙の繊維に沈んでいる。完全な黒ではないからこそ、隠されていた時間が見える。


 続いて、レヴァンティスで家令宛てに届いた予告状が置かれた。封筒の端には、何度も持ち替えられた跡がある。内容を確かめるために、複数の手がそこへ触れたのだろう。


 閲覧卓には、ノアの私信と二通の予告状が並んだ。王太女宮に届いた書簡。アルヴェリアで押収された手紙。レヴァンティスで死の前に届いた予告状。来た道は違う。触れた手も、保管された場所も違う。それでも灯火の下で並べると、白潮紙の淡い透け方だけが同じ底から浮いてくる。


「紙だけなら、名は呼べない」


 ルシアンは低く言った。


「ええ」


 セレネの視線が、ノアの私信の文字へ移る。


「だから、筆跡を見ます」


 記録係が灯火を一つ近づけた。朝の光だけでは、紙の繊維やインクの沈み方まで追い切れない。小さな火は白潮紙の端を斜めから照らし、文字の跡に細い影を作った。


 誰もすぐには口を開かなかった。


 セレネは紙へ触れず、記録係に位置を動かさせながら、線の始まりを見ていた。筆が紙へ触れた場所、払いが抜ける角度、止めた部分の小さな溜まり。私信を少し傾け、灯火の下で同じ文字を探す。次に、レヴァンティスの予告状へ視線を移した。


 白い指先が、紙に触れないぎりぎりの高さで止まる。ノアの直筆の文字と、予告状の中の同じ文字。線は別々の紙にある。けれど、始まりの浅さと、最後に右上へ抜ける癖が重なっていた。セレネは眉を動かさない。ただ、次の文字へ移る速度だけが少し遅くなる。


 ルシアンは文字より先に、紙の端へ目を落とした。


 折り目の潰れ方、インクが繊維へ沈む濃さ、灯火に透ける白い艶。紙は、書かれた言葉とは別の場所で、持ち主の身分を残している。予告状は古い紙ではない。だが、普通の便箋では出ない滑りがあり、湿度を吸った部分の繊維も細かい。白潮紙を手に入れられる者。その上に、ノア本人の筆跡が重なるなら、線は急に細くなる。


 シオンは、文字そのものよりも余白を見ていた。ノアの書簡と二通の予告状を横に見比べ、行の始まりと終わりを目で測る。彼の指は卓の縁に置かれたまま動かない。だが、余白を追うたびに、翠の瞳の色が深くなっていく。前世で見た画面の中の人物と、今目の前にある生身の男の筆跡が、彼の中で別の重さを持って重なっているのだろう。


 アリアナ王太女は少し離れた場所に立っていた。


 手元には閲覧許可の書類を持っている。表面上はそちらへ目を落としているが、紙が動かされるたび、書類の端を押さえる指の力が変わる。ノアの私信が灯火の近くへ寄れば、紫水晶の瞳が一瞬だけ上がる。予告状の末尾へセレネの視線が移れば、唇が閉じ直される。


 弟から届いた私信と、死を告げる手紙が、同じ紙の上で近づいていく。


 長い時間が過ぎた。


 灯火の油が少し減り、火の輪郭が小さく揺れる。高窓から入る光は、青から淡い金へ変わっていた。紙を動かす音と、記録係の手袋が擦れるかすかな音だけが続く。誰かが急かすこともない。


 やがて、セレネの指が止まった。


 彼女はノアの私信と二通の予告状を並べさせ、最後にもう一度、同じ文字の払いを見比べた。深い海色の瞳が、ほんのわずかに細くなる。


「二通とも、ノアの筆です」


 声は低く、明瞭だった。


 アリアナ王太女はすぐには答えなかった。紫水晶の瞳が、白潮紙の上に残された文字を見ている。ノアから届いた私信と、アルヴェリアで押収された予告状と、レヴァンティスで死の前に届いた予告状。その三つは、別々の場所からここへ来たはずなのに、同じ手の癖を灯火の下へ浮かべていた。


 ルシアンは閲覧卓の上の紙を見下ろした。


 白潮紙を使える立場。ノア本人の筆。そして、両国へ届いた予告状。


 紙だけなら、まだ候補の一人で終わる。筆跡だけなら、紙の出どころを争われる余地が残る。だが二つが重なれば、偶然の逃げ道は細くなる。


「……ノアまで、届いたな」


 ルシアンがそう言うと、アリアナ王太女の指が書類の端で止まった。


「はい」


 彼女は短く答えた。声は崩れない。ただ、箱の蓋に添えられていた指が、金具から少しだけ離れる。


 セレネは予告状の末尾へ視線を落とした。


 偽りの伴侶は三日目に首を失う。


 その一文だけ、筆が迷っていなかった。古い文句を写す時に出る、慎重な間がない。ノアの右上がりの癖の中へ、最初から混ざっていたもののように収まっている。昨夜の注釈が、ルシアンの中で紙の擦れる音と一緒に戻ってきた。


 これらの文句は、口に出すと、本人が知らないはずの言葉まで継いでしまうことがある。


 ノアがどこまで知っていたのかは、まだ分からない。古い記録を読んで覚えたのか。誰かに聞いたのか。それとも、本人の中にないはずの言葉が、筆先へ先に出たのか。ここで決めつけるには、まだ紙が足りない。問いは、本人の前まで持っていくしかなかった。


「セルジオの線は」


 シオンが低く言った。


 ルシアンは、アリアナ王太女の手元にある別の報告書へ視線を移した。藤灰の家筋が出資する商会、白潮紙の納入記録、王宮へ入るはずだった紙の数。セルジオがどこまで手を貸したのかは、まだ紙の流れを追う必要がある。


「紙がどこから誰へ渡ったかを辿れば出る。だが、書いた手は今ここで見えている」


 シオンは頷いた。笑わなかった。


 アリアナ王太女が顔を上げた。


「ノアの所在を、王家として正式に確認します」


 紫水晶の瞳には、昨日の離宮で見せた痛みが残っている。だが、それは判断を鈍らせる場所には置かれていなかった。


「公式の療養所には、おそらくもういません。けれど、王家の縁戚が利用できる別邸が、王都の外にいくつかあります」


「逃がす気はない、ということか」


「はい」


 アリアナ王太女は静かに頷いた。


「明日には、絞り込めるはずです」


 その言葉で、閲覧卓の紙が別の意味を持った。私信ではなく、道標になったのだ。ノアへ近づくための、白く乾いた線。消せない筆跡。まだ触れていない問い。


 長く沈黙していたシオンが、ルシアンを見た。


「ルシアン殿下」


「何だ」


「俺、たぶん、ノアと会う時、軽口を叩けないと思う」


 ルシアンは黙って続きを待った。


 シオンは手元の予告状ではなく、ノアの私信を見ていた。翠の瞳に、朝の光が薄く入る。


「物語の中のノアは、ヒロインのミアと出会わなければ、こうなる男だった。俺は、それを画面の中で何度も見ていた。でも、画面の中の男に会うのと、同じ顔をした生身の男に会うのは、別の話だ」


 シオンの指が、卓の縁を一度だけ叩いた。音は小さい。


「俺は、ノアを止められなかった攻略対象のひとりだ」


「お前は、ノアじゃない」


 ルシアンはすぐに言った。


 シオンの目が、こちらへ向く。


「分かってる。でも、止められなかったことは、同じだ」


 それ以上、ルシアンは問わなかった。


 シオンの内側には、ルシアンには触れられない記憶がある。物語として見たはずの世界。選択肢の先で崩れていく人物。攻略対象という名で括られた男たち。その一人として自分を見てしまう時、シオンが何を失いかけるのか、完全には分からない。


 ただ、今この場で無理に言葉を引き出す必要はなかった。


 セレネが、二通の予告状を布へ戻した。ノアの私信には触れない。記録係が白い手袋の指先で便箋を整え、箱の中へ戻していく。白潮紙の端が擦れないよう、薄布が一枚ずつ重ねられた。


「物的証拠は、揃いました」


 セレネは言った。


「あとは、本人に会うだけです」


 ルシアンは高窓の外へ目を向けた。


 レヴァンティスの朝の光が、白壁の上で細かく割れている。水路から上がる湿った風が、紙とインクの匂いをわずかに揺らした。閲覧卓では、白潮紙の端が朝の光を受けて淡く透けている。王族の私信にも、死を告げる予告状にも使われた白さが、今は別々の場所へ戻されようとしていた。


 シオンの言葉が、耳の奥に残っている。


 俺は、ノアを止められなかった攻略対象のひとりだ。


 会う準備は整った。


 だが、ノアに会うことは、事件の犯人を確かめることだけではない。シオンにとっては、物語の中で止められなかった男と、生身の自分が向き合うことでもある。


 ルシアンは閲覧卓へ視線を戻した。


 箱へ収められる直前の白潮紙が、灯火の下で淡く透ける。その白さだけが、まだ誰の手にも汚されていないもののように、朝の光の中で残っていた。


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