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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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療養という名の所在  

 翌朝、王太女宮の執務室には、水路から渡る湿った風が入り込んでいた。


 高窓の向こうで、レヴァンティスの白壁が淡い青を映している。夜の名残を含んだ風は、窓辺に掛けられた薄い帳を音もなく揺らし、磨かれた床には窓枠の影が長く落ちていた。その先で、卓上に積まれた紙の端だけが朝の光を受けて白く浮かんでいる。


 ルシアンは卓の前に立ち、セレネが昨夜のうちに仕上げた筆跡比較表へ視線を落としていた。ノア・レヴァンティスの私信、アルヴェリアに届いた予告状、レヴァンティスで保管されていたもう一通の予告状。三つの紙は宛先も文面も違うのに、文字の傾きと払いの沈み方だけが同じ癖を残していた。丸みを帯びた末尾が、どの紙でもわずかに右へ逃げている。


 二通とも、ノアの筆です。


 昨夜、セレネが告げた声が、まだ紙の上に残っている気がした。


 卓にはほかにも、王家の古い名簿、療養所の登録記録、王家の縁戚が利用できる別邸の一覧が並んでいた。急ぎ書庫から運ばせたものらしく、紙束を結ぶ紐だけが新しい。古い紙の端は湿気を吸って波打ち、何度もめくられた頁には、指で押さえた跡が薄く残っている。


 セレネは卓の向こう側に座り、黒髪を低くまとめていた。海色の瞳は紙面へ落ち、白い指先が記録の端を揃えている。昨夜遅くまで筆跡を拾っていたはずだが、眠気を訴えることはない。目元に淡い疲れが残っているだけで、頁をめくる動きはいつもと変わらなかった。


 その平然とした様子が、ルシアンの眉間をわずかに狭めさせる。


 無理をしている時ほど、セレネは静かになる。大丈夫かと聞けば、きっと短く肯定する。だから今は何も言わず、椅子の背に掛けられた薄い外套と、彼女の手元だけを目に留めた。


 シオンは窓辺に近い席で、肘掛けに指を置いている。赤銅色の髪に朝の光が触れ、翠の瞳は卓上の地図を追っていた。普段なら軽口の一つでも落としそうな男が、今朝は口数を減らしている。椅子の肘掛けを叩きかけた指も、音を立てる前に止まった。


 扉の向こうで、衣擦れと靴音が近づく。


 侍女が扉を開けると、アリアナ王太女が入ってきた。薄い水色の衣には銀の飾り紐がきちんと重ねられ、髪も乱れなく結い上げられている。昨日、離宮で声を揺らした人間と同じ顔でありながら、今朝の彼女は背筋を崩さず、侍女に任せることなく自ら封書を卓へ置いた。ただ、紫水晶の瞳がノアの名のある紙へ触れた一瞬だけ、昨日の迷いがまだそこに残っているように、ルシアンには見えた。


「お待たせいたしました」


 アリアナは封蝋を切り、中から薄い紙束を取り出した。療養所の名と管理者の署名が並んでいる。


「ノアの公式の所在は、王都郊外の南の療養所です」


 シオンが、かすかに口の中でその名を繰り返した。南の療養所という響きを確かめるような声は紙に吸われるほど小さく、アリアナには届かなかったかもしれない。


 ルシアンは紙面へ視線を落とした。療養という名目は、追及を退けるには都合がよすぎる。病の名を詳しく告げずに人を遠ざけることができ、見舞いを断る理由にもなる。貴族社会では、身体を壊したという言い方ひとつで、踏み込む側が礼を欠いた者にされる。王家の縁戚ならなおさらだ。


 セレネが調査結果の紙を受け取り、上から順に目を通した。指先は紙の端を押さえ、視線だけが文字を追っていく。


「ですが、療養所の管理者からの報告では、ノアが直近の三ヶ月、療養所にほとんど不在」


「不在?」


 ルシアンが聞き返すと、アリアナは小さく頷いた。


「療養所の侍医は、ノアの療養が形式的なものだと知っています。けれど、王家の縁戚の動きを表向きの言葉で隠すのは、宮廷の慣例です」


「療養所は名だけ、ということか」


「ええ。少なくとも、そこで日々を過ごしていたとは言えません」


 アリアナは別の紙束を卓へ広げた。王都周辺に点在する別邸の一覧だった。東岸の海辺の別邸、南方の山岳地帯にある古い館、西の小島、そして北方の古い別邸。それぞれの横に、所有権、管理者、使用申請の有無が細かく記されている。


「王家の縁戚が、表向きの記録を薄くしたまま滞在できる場所は限られます」


 シオンが紙面へ身を寄せた。


「東岸は?」


「王太女宮の付属です。船着き場にも、厨房にも、人が多い場所ですわ。隠れて滞在するには向きません」


「西の小島は、船が要るな」


「出入りの記録が残ります」


 ルシアンは南方の山岳地帯にある別邸の欄へ目を落とした。古い時代の祭祀施設に近いと添え書きがある。


「南は」


「王都から距離があります。往復するたび関所の記録が増えますし、馬車の手配も目立ちます」


 アリアナの答えは早かった。自国の宮廷の抜け道も、不便さも知っている者の声だった。


 セレネはその会話の間、別邸一覧とは別に、古い離宮の閲覧記録を横へ置いていた。頁がめくられ、乾いた紙の音が卓の上を細く渡る。彼女の指は、ノアの名が残る日付を拾い、療養所の不在報告をその隣に並べ、さらに王太女宮への私信の送付日を重ねていく。


 ルシアンは、その手元を見ていた。


 セレネの指は、記録の上を急がずに進んでいく。日付と日付の間隔、空欄、同じ名で繰り返される随行者の署名。セルジオの名が、数枚の紙に薄いインクで残っている。そこにある文字は、どれも事務的で、誰かの焦りや悪意を語りはしない。だが、並べられた紙の隙間には、同じ日付の幅で空いている欄があった。書いた者は空白として処理しただけなのだろう。セレネの指は、そこから動かなかった。


「……ここです」


 ルシアンは身を屈めた。


 北方の別邸は、使用なし、と記されている。月初から数日間、次の月も同じあたりの日付、さらにその次の月にも、同じ幅で空白がある。使われていない場所のはずなのに、その空白だけが、ほかの記録より目に残った。


「ノアが古い離宮へ閲覧に来た日の前後、北方の古い別邸の使用記録が、不自然に空いています」


「空いているということは」


「使用していない、と公式に記録されているけれど、実際にはノアが滞在していた可能性が高い、ということです」


 セレネは別の紙を引き寄せた。王太女宮への私信の写しだ。ノアの筆跡は穏やかで、王太女を気遣う言葉は柔らかい。病を案じる文面、身を慎むような言い回し、療養所で静かに過ごしているかのような結び。その柔らかな文字の癖が、予告状の紙にも残っていた。


 朝の光が当たっているのに、柔らかな文面だけが妙に白々しく見える。


 セレネは古い離宮の閲覧日を指で押さえ、そこから数日後の私信の日付へ移り、さらに北方の別邸の空欄へ戻った。指先が三枚の紙を行き来するたび、古い離宮の閲覧、北方の別邸の空欄、王太女宮への私信が、同じ順で並び始める。


「古い離宮への閲覧は、過去三ヶ月で七回。そのうち五回に、セルジオの随行記録があります」


「残り二回は」


「ノア単独として扱われています。監督者の署名もありません」


 ルシアンはアリアナへ視線を向けた。


「単独で閲覧できるのか」


「王家の縁戚として許可状があれば、一部の記録は閲覧できます。本来なら、監督者が付きますが」


 アリアナの声は少し低くなった。ノアに与えられていた信頼と権限が、今になって別の形で返ってきている。


 セレネは銀の文鎮を置き、日付の列を固定した。窓から入る風で薄い紙の端が持ち上がり、文鎮の下で小さく鳴る。


「……並び方が同じです」


 彼女は紙面を見たまま言った。


「何がだ」


「古い離宮の閲覧、北方の別邸への移動、王太女宮への私信。この三つが、約一ヶ月の周期で繰り返されています」


 シオンの指が肘掛けの上で止まる。


「最後の閲覧は」


 ルシアンが問うと、セレネはすぐに最後の記録を引いた。古い紙の上に、ノアの名と日付が残っている。


「最後の閲覧から、もうすぐ三十日です」


 アリアナの紫水晶の瞳が、その日付へ落ちた。セレネは顔を上げる。表情はいつもと変わらない。だが、言葉を置く前のわずかな間に、卓上の紙だけが風で擦れた。


「次にノアが動くなら、三日以内」


 ルシアンは文鎮へ手を伸ばし、めくれかけた北方の地図を押さえた。その動作の間にも、これまで事件の中で繰り返されてきた三日という数字が、ノアの移動の間隔と重なっていく。首のない死体、三日目の死、名前が消える記録。そのすべてが、北方の別邸へ向かう道筋の上に並び始めていた。


「残るのは、北方の別邸か」


「はい」


 セレネは短く答えた。


 アリアナは北方の地図を手元へ寄せた。王都から北へ伸びる細い道、その先に森と古い狩場が描かれている。地図の端には、今は使われていない水路の跡も薄く残っていた。


「北方の別邸は、わたくしの曽祖父の代に王家の狩場として使われていた場所です。今は、王家の縁戚が休暇に使う程度で、常駐の管理人もいません」


「人目がない、ということか」


「人目がないだけではありません」


 アリアナは地図の北、森に囲まれた建物の印へ指を置いた。


「北方の別邸の地下には、古い祭祀のための部屋があります。正式な建築記録には残っていませんが、曽祖父の代の私的な目録にだけ、その名が出てきます。記録から消えている場所です」


 セレネの視線が、紙からアリアナへ移った。


「祭祀のための部屋」


「ええ。古い離宮の祭祀記録と、同じ時代のものかもしれません。ノアが離宮の記録に触れていた理由が、別邸の地下と結びつく可能性があります」


 ルシアンの視線は、離宮の閲覧記録から北方の地図へ移った。ノアが触れていた古い祭祀記録と、正式な建築記録に残らない地下の部屋。その二つが、同じ森の奥へ伸びている。


 シオンは地図の北を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。赤銅色の髪の影が頬に落ち、翠の瞳から、いつもの軽い笑みが消えている。彼はノアの名を口にしないまま、紙の端を指先で押さえていた。


 首のない胴体。三日目の死。名前が薄れていく記録。古い祭祀のための部屋。


 シオンの中で何がつながり、何が途切れたのか、ルシアンには分からない。ただ、シオンが今ここで余計な言葉を選ばなかったことだけは分かった。アリアナ王太女は、シオンとセレネが抱えている秘密を知らない。だから、この場で口にできるものには限りがある。


 セレネも何も言わなかった。頁を押さえる指だけが、紙の端をわずかに深く留める。薄い紙が爪の下で小さく沈み、すぐに戻った。


 ルシアンは、卓の中央に置かれた北方の地図へ視線を落とした。


「では、北方の別邸へ向かう」


 アリアナが顔を上げる。


「王太女宮の護衛をつけます」


「いや、最小限で」


「ルシアン殿下」


「ノアを刺激したくない。王太女宮の人間が大きく動けば、北方の別邸へ着く前に向こうへ伝わる可能性がある」


 アリアナはすぐには答えなかった。紫水晶の瞳が地図へ落ち、王都から北へ伸びる細い道を追う。ノアはレヴァンティス王家の縁戚で、この国の事件の中心にいる。彼女が報告を待つだけで済ませられないことは、ルシアンにも分かっていた。


「……では、王太女宮の護衛を少数、後方につけます。目に見える距離には置きません」


「助かります」


「表向きには、ノアの所在確認はまだ続いていることにします。王太女宮は動いていない。そう見せます」


 ルシアンは頷いた。


「では、その形でお願いします」


 アリアナはもう一度、北方の地図を見た。指先が、別邸の印の手前で止まる。


「ただし、連絡だけは途切れさせないでください。ノアが本当にそこにいるなら、これはレヴァンティス王家の問題でもあります」


「ああ」


「準備は、今夜のうちに整えます」


 セレネが言った。


 ルシアンは彼女を見る。伏せた目元には、昨夜の疲れが薄く残っていた。


「記録は俺が見る。少し休め」


「まだ整理が終わっていません」


「終わったら休む、じゃない。休んでから続けろ」


 セレネはすぐには答えなかった。頁を押さえていた指が、ほんの少しだけ止まる。


「……少しだけなら」


「それでいい」


 今度は押し返されなかった。短い返事の奥に、彼女が譲った気配があった。ルシアンはその小さな変化を拾い、卓上の紙を自分の方へ引き寄せる。


 シオンが地図から顔を上げた。


「三日以内、と言ったな」


「ええ」


 セレネが頷く。


 アリアナは北方へ向かわない。代わりに、王太女宮の印を持つ少数の護衛が、見えない距離で道を押さえる。表向きには、ノアの所在確認はまだ王太女宮の執務室で続いていることになる。


 ルシアンは卓上の北方に置かれた小さな印を見た。別邸の名は古いインクで書かれ、周囲の森は薄い線で囲まれている。そこにノアがいるのか。地下で何をしているのか。まだ分からないことの方が多い。


 だが、行き先は決まった。


「明日には動かなければ」


 その声に、誰も異を唱えなかった。


 窓の外では、レヴァンティスの白壁の上を午前の光が斜めに移っている。遠くで水路を行く舟の音がし、王太女宮のどこかで銀盆を重ねる音が小さく響いた。


 療養所の報告書は、卓の端で朝の光を受けていた。その隣に置かれた北方の地図には、小さな印がひとつ残っている。ノアの名はまだそこに書かれていない。けれど、北方の別邸を示す小さな印だけが、朝の光の中で消えずに残っていた。


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