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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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告白と抱擁

 夜の王太女宮は、昼間よりも水音が近かった。


 白石の回廊に沿って細い水路が走り、月を受けた水面が柱の影を揺らしている。昼の熱を吸った石はまだわずかに温く、けれど海から渡る風は薄い潮の匂いを含み、開いたレヴァンティス礼装の胸元へ静かに入り込んだ。ルシアンの胸にかかる金鎖が、その風に冷えて肌へ触れる。


 北方の別邸へ向かう準備は、すでに大方整っていた。王太女宮の護衛は目立たぬ距離で後方を押さえる。表向きには、ノア・レヴァンティスの所在確認はまだ王太女宮の執務室で続いていることになっている。明朝、少数で王都を出る。それだけを決め、余計な人間には知らせない。


 ルシアンは書類を確認したあと、セレネを探していた。


 彼女は記録の写しをまとめると言って、しばらく前に部屋を出ている。椅子に掛けてあった外套はなく、卓の端には写し損ねた紙が一枚だけ残されていた。休ませるつもりでいたはずが、気づけば水音のする方へ足が向いていた。


 水辺の柱廊へ差しかかった時、先の方から低い声が聞こえた。


「少しだけ話したい」


 シオンの声だった。


 ルシアンは足を止めた。白石の柱が月光を受け、床に長い影を落としている。その影の向こう、回廊が水辺へ開ける場所に、シオンとセレネが向かい合って立っていた。セレネの黒髪は夜の中で青を含み、肩から落ちる薄布が風でわずかに揺れている。シオンの赤銅色の髪にも月が触れ、翠の瞳の色だけが遠目にも暗く沈んでいた。


 いつものシオンなら、もっと柔らかく笑っていた。声にも、相手が返しやすい余白を残していたはずだ。だが、今聞こえた声には、その軽さがなかった。


 ルシアンは白石の柱の陰に身を寄せた。


 すぐに声をかけるべきだった。そう分かっていながら、柱に触れた指先が動かない。シオンはセレネの前に立っているのに、いつものように距離を詰めない。笑いかけようとして、まだ笑えていない。そのわずかな遅れが、今踏み込めば壊してしまうものの形だけを、ルシアンに知らせた。


 シオンの口元に、いつもの笑みに似たものが浮かび、すぐに消えた。


「明日、北へ行くだろ。ノアに会う前に、俺も片づけておきたいものがある」


「シオン」


 セレネの声は静かだった。彼の名を呼ぶだけで、問いは続かない。促すのではなく、待つ声だった。


「もう答えは分かってる」


 シオンは白石の欄干へ片手を置いた。水路を流れる水が月の線を細かく割り、彼の指先に薄い光を返す。


「君が誰を見ているかくらい、ここ最近一緒に過ごしてたら、さすがに分かるよ」


 ルシアンの指が、柱の縁に触れた。石は昼の熱を失いかけ、掌に乾いた冷たさを残す。


「それでも、言わないまま終わらせたら、俺はきっと一生、都合よく誤魔化す。恋じゃなかったとか、ただの意地だったとか、いくらでも言い換えられるから」


 シオンはセレネを見ていた。いつもなら距離を詰める男が、今夜は一歩分を残して立っている。その間を、水音と潮の匂いが通り抜けた。


「最初は恋じゃなかったんだと思う。君が何を見ているのか知りたかった。君を笑わせたかった。困らせたかった。俺だけには違う顔を見せてほしかった」


 セレネは動かない。黒髪の先だけが風に揺れ、胸元の海色の石が月光を鈍く受けている。


「子供の頃、周りの令嬢は俺が笑えば笑ったし、少し甘いことを言えば顔を赤くした。君だけは違った。俺が何を言っても、海の底みたいな目でこっちを見るだけでさ。腹が立つくらい、何もくれなかった」


 シオンは笑おうとしたのか、口元をわずかに上げた。けれど、最後の言葉だけは水音に紛れるほど低かった。


「だから、ずっと追いかけたんだと思う。君の目が何を拾っているのか。俺の言葉が、君の中のどこにも届かないのか。届いているのに見せないだけなのか」


 ルシアンは柱の陰で、拳をゆっくり握った。爪が掌に当たる。胸の奥で、熱に似たものが小さく広がった。シオンの声は低く、いつものように相手の隙へ入り込む軽さがない。


 今出ていけば、この言葉の続きを折ることになる。そう分かるだけで、足はまだ動かなかった。


「レヴァンティスへ来た時、ここで俺の物語が始まるんだと思った。君のことも、アルヴェリアに置いていけると思った」


 シオンの声が、そこで少しだけ掠れた。


「でも、無理だった。誰に求められても、違った。どれだけ名前を呼ばれても、俺が振り向きたかったのは、ずっと君だった」


 セレネの指先が、薄布の端に触れた。握るわけではない。ただ、そこにある布を一度だけ確かめるように押さえる。


 シオンは、その小さな動きを見ていた。


「セレネ。俺は君が好きだった。ずっと」


 ルシアンは、動かなかった。柱に触れた指先が冷えていく。自分の瞳の奥で、王家の金色が強くなるのが分かる。それでも前へ出なかった。ここで出ていけば、シオンがようやく口にした言葉の上へ、余計な音を重ねることになる。


 セレネはしばらくシオンを見ていた。


 月光が彼女の睫毛に細く乗り、海色の瞳の奥で水面の光が揺れた。大きく表情を変えることはない。けれど、返事までの時間が、いつもよりわずかに長かった。


「ありがとうございます、シオン」


 セレネはそう言った。


「あなたの言葉を、軽いものだとは思いません」


 シオンは黙って聞いている。翠の瞳は逃げず、けれど笑わない。


「けれど、私はあなたを選びません」


 ルシアンの胸にかかる金鎖が、風でわずかに揺れた。


 セレネは言葉を切り、はっきりと続ける。


「私は、殿下を選びました」


 その声は大きくない。けれど、水音の中でもルシアンの耳へまっすぐ届いた。誰かに言わされた言葉ではない。慰めるために曖昧にされた言葉でもない。白石の回廊に、一本の線が引かれた。


 シオンの口元に、いつもの軽さに近い笑みが浮かんだ。けれど、翠の瞳は追いつかないまま、彼の肩だけがわずかに落ちた。


「うん。知ってた」


 水路の向こうで、薄絹の帳が風を受ける。白い布が月明かりを含んで揺れ、すぐに元の位置へ戻った。


「知ってたけど、言わないと終われなかった」


「分かっています」


「君は本当に、最後まで俺の欲しい反応をくれないね」


 責める声ではなかった。負け惜しみに近い響きなのに、最後の音はどこかやわらかく沈んだ。セレネは答えない。ただ、シオンを見ていた。


 水路の水が、回廊の下で石に触れる。月の線が揺れ、二人の足元に細かな光を散らした。


 シオンは欄干から手を離した。指先に残っていた水の光が消える。


「最後に、抱きしめてもいい?」


 ルシアンの拳が、さらに強く握られた。


 出ていくべきだと、身体のどこかが言う。シオンの腕がセレネへ伸びるところなど、見たいはずがない。胸の奥に、焼けるような熱が走る。だが、セレネはすぐに答えなかった。視線を逸らさず、シオンの言葉が水音に沈みきるまで、その場に立っていた。


 シオンは少しだけ笑った。今度は声に、かろうじていつもの軽さが戻る。


「レヴァンティスでは、別れの抱擁くらい普通だよ。こっちでは、恋人じゃなくても抱きしめる。挨拶でも、慰めでも、別れでも」


 そこで一度、言葉が薄く途切れる。


「だから、これもただの挨拶。……って言えば、君は許してくれる?」


 最後の一文だけ、誤魔化しきれていなかった。


 セレネは黙っていた。月光の下で、黒髪の影が頬の線を細く覆う。ルシアンには、彼女が何を考えているのかまでは分からない。ただ、沈黙の間にも、セレネの視線はシオンから逸れなかった。


「……一度だけなら」


 やがて、セレネがそう言った。


 シオンは頷いた。


 彼はゆっくり近づいた。近づきながら、セレネが退かないことを確かめている。距離が縮まり、シオンの影がセレネの足元に重なった。ルシアンの指が白石の柱を押さえ、爪の下に硬い感触が残る。


 シオンの腕が、セレネの肩へ回った。


 その腕は強く締まらなかった。黒髪に顔を埋める寸前で止まり、肩を包む手も、すぐに離れられる位置に留まっている。それでも、セレネの黒髪がシオンの胸元で揺れた瞬間、ルシアンの胸は鈍く焼けた。開いた礼装の胸元へ夜風が入る。金鎖の冷たさだけが、熱くなった皮膚に触れている。


 セレネは動かなかった。腕を返すことも、身を預けることもしない。ただ、許した距離の中で立っている。薄布がシオンの袖に触れ、海色の石が月を受けて小さく光った。


「……好きだったよ、セレネ」


 シオンの声は、彼女の肩越しに落ちた。


 短い沈黙のあと、セレネが答える。


「……ありがとうございます」


 シオンは自分から腕をほどいた。


 その動きに、ルシアンはようやく浅く息を吐いた。胸の中の熱はまだ残っている。けれど、シオンが離れたことだけを、見間違えずに済んだ。


 セレネは乱れた薄布を静かに直した。肩にかかった金鎖を指で戻そうとして、その指先が一度だけうまく動かない。細い鎖が爪にかかり、月光の下で小さく揺れた。セレネはすぐに直したが、ルシアンはその一瞬を見逃せなかった。


 シオンの視線も、彼女の指先へ落ちた。彼は笑おうとして、少しだけ失敗した。


「ちゃんと振ってくれてありがとう」


「……優しくしたら、あなたが終われないと思いました」


「うん。だから助かった」


 シオンは目を伏せた。翠の瞳が月光から外れ、赤銅色の髪の影に隠れる。次に顔を上げた時、口元にはいつものシオンに近い笑みがあった。けれど、翠の瞳の端だけは、まだ水面の揺れを映したままだった。


「君は本当に、優しい顔をしないね」


「必要ありません」


「そういうところだよ」


 シオンの声には、いつもの軽さが少し戻っていた。けれど、最後の音は水音に紛れるほど低い。シオンはそれ以上近づかず、セレネも動かなかった。


 シオンの視線が、柱の影へ流れた。


 ルシアンは身を引かなかった。見つかったのかどうかは分からない。ただ、その翠の瞳は、月明かりの届かない場所にしばらく留まっていた。


 シオンは、柱の影へ向けるでもなく、セレネへ向けるでもない曖昧な角度で少し笑った。


「それから、君の婚約者は多分、思ってるより我慢強い」


 セレネの視線がわずかに動いた。


 シオンは肩を竦める。いつもの軽い仕草だった。けれど、それを支える足元には、さきほどまでの沈黙が薄く残っている。


「行ってあげなよ」


 それだけ言うと、シオンは先に背を向けた。


 白石の回廊を、赤銅色の髪が月明かりの中で遠ざかっていく。歩き方は崩れていない。背筋も伸びている。けれど、普段なら誰かへ投げるはずの冗談は落ちてこなかった。水路の音と、衣擦れと、靴音だけが、柱の間を渡る。


 ルシアンは柱の陰から、その背中を見ていた。


 最後に抱きしめることを願い、許された距離だけ触れ、自分から離れた。シオンが残した線は、月明かりの下でもはっきりしていた。内側に残る熱は消えない。それでも、ここで踏み出して何かを言えば、彼が自分で置いていったものに、余計な傷をつけるだけだった。


 シオンの姿が回廊の角に消える。


 セレネはまだ動かなかった。水辺に立ったまま、乱れを直した薄布の端に指を添えている。月光が黒髪の上を滑り、海色の瞳のあたりに淡く落ちる。涙は見えない。唇も震えていない。ただ、彼女の指先だけが、さきほど金鎖を直した位置で静かに止まっていた。


 夜風が、白石の柱廊を抜けた。


 潮の匂いが近づき、水面に映る月が細かく崩れる。ルシアンの胸元では、冷えた金鎖がまだ肌に触れている。彼は一歩も動かず、セレネを見ていた。


 やがて、セレネがゆっくりと顔を上げる。


 深い海色の瞳が、白石の柱の陰にいるルシアンの方へ向けられた。


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