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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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セレネの涙

 深い海色の瞳が、白石の柱の陰にいるルシアンへ向けられていた。


 水路を渡る夜風が、柱廊の薄絹を揺らしている。シオンの靴音はもう角の向こうへ消え、白石の回廊には水が石を撫でる音だけが残っていた。月光は柱の影を細長く伸ばし、セレネの足元で揺れる水面の光を細かく砕いている。


 ルシアンは動かなかった。


 柱に触れていた指先には、石の冷たさが残っている。先ほどまで握り込んでいた手のひらには、爪の跡が鈍く残り、胸元ではレヴァンティス礼装の金鎖が夜風に冷えて肌へ触れていた。セレネの視線は、問いかけるでも責めるでもなく、ただそこにいるルシアンを静かに捕えている。


 ルシアンは柱から手を離した。


 一歩、月光の中へ出る。


 胸元の金鎖が小さく揺れ、白石の床に細い影を落とした。セレネの海色の瞳は、彼が柱の陰を離れても逸らされない。黒髪の先が風に触れ、肩へかかる薄布の端がゆるく揺れている。二人の間には、先ほどシオンが立っていた水辺の石床がそのまま空いていた。


 ルシアンは、その距離を急いで詰めなかった。


 水面に映る月が崩れ、また戻る。セレネの指先は、金鎖を直した位置でまだ静かに止まっていた。涙はない。表情も変わらない。ただ、あの抱擁のあとに一度だけ止まった指の動きが、ルシアンの目に残っている。


 ルシアンは白石の床へ一度視線を落とし、すぐに戻した。


「すまん。聞くつもりはなかった」


 セレネは何も言わなかった。海色の瞳が、月光の下で静かに彼を見ている。


「声をかけるべきだった。けれど、途中で出ていけば、お前の言葉を遮ることになると思った」


 セレネの睫毛が、ほんのわずかに動いた。


「……はい」


 短い返事だった。責める響きも、驚きもない。けれど、その声が水音の中へ落ちたあと、彼女の目元に小さな変化が生まれた。


 セレネの睫毛の際に、涙が溜まっていた。


 ルシアンは一瞬、月光の反射かと思った。水路の揺れが彼女の目元へ届いたのだと。だが、セレネが瞬きをしたあとも、その滴は消えず、睫毛から離れて白い頬を伝った。


 ルシアンの足が止まった。


 彼は、セレネの涙を見たことがなかった。死体の前でも、怪異の噂が宮廷を騒がせた夜でも、彼女は感情を顔に出さなかった。前世のことを明かした夜でさえ、彼女は声を乱しても、涙を見せなかった。


 そのセレネの頬に、今、涙の線がある。


 セレネの指が、少し遅れて目元へ上がった。細い指が瞼の下に触れ、そこで止まる。けれど、その指では隠しきれず、もうひと粒だけが頬を伝った。月光がその線を細く照らし、水路の音が足元で小さく重なる。


 ルシアンは、ゆっくりとセレネへ近づいた。


 セレネは退かなかった。逃げるように顔を背けることもない。ただ、目元に触れた指をそのままに、彼が近づくのを見ている。ルシアンは彼女の前で足を止め、手を上げた。


 触れていいか、と言葉にする前に、セレネの瞳がわずかに伏せられた。そのまま退かなかった。


 ルシアンは、濡れた頬へ指を触れさせた。肌は夜風に冷えていたが、涙の跡だけがほんの少し温かい。親指でその細い線を拭うと、セレネの睫毛がかすかに震えた。


 言葉は出なかった。


 その代わりに、ルシアンは彼女の肩へそっと手を回した。急かすでもなく、逃げ場を塞ぐでもなく、ただ、こちらへ来てもいいと伝えるだけの力で引き寄せる。


 セレネの指が、目元からゆっくり下りた。白い指先が薄布の端に触れ、そこで一度止まる。次の瞬間、彼女の額が、ルシアンの胸元へ静かに寄せられた。


 金鎖が、彼女の黒髪に触れて小さく鳴った。


 ルシアンは片腕を彼女の背へ回し、もう一方の手で黒髪の上からそっと支えた。力を込めすぎないように、けれど離さないように。セレネの薄い肩が、彼の腕の中でゆっくり沈む。水音と潮の匂いが回廊に残り、白石の柱の影が二人の足元で重なった。


 先ほど柱の陰で焼けていたものは、まだ胸の奥に残っている。けれど、今は同じ場所で静かに熱を持っていた。セレネが自分の言葉で選び、その声をルシアンが聞いたことが、金色に揺れていた視界をゆっくり沈めていく。


 泣き声はなかった。ルシアンの胸元に触れた額だけが、しばらく動かなかった。


 ルシアンは何も言わなかった。胸元に触れる額の重さと、腕の中にある体温だけを確かめる。黒髪が金鎖に触れ、細い音がまた一度鳴った。


「……泣くつもりなんて、なかったんです」


 声は布越しに小さく届いた。


 ルシアンは答えず、彼女の背に置いた手を動かさなかった。


「私が泣くのは、おかしいと思うのに」


 セレネの指先が、ルシアンの礼装の端にわずかに触れる。掴むほどではない。ただ、そこにある布を確かめるような動きだった。


「勝手に、流れてきてしまうんです」


 ルシアンは、黒髪へ触れていた手を少しだけ緩めた。


「おかしくない」


 短く言うと、セレネの呼吸がほんの少し止まった。


「お前が泣くのは、おかしくない」


 セレネは答えなかった。額を寄せたまま、ルシアンの礼装に触れていた指先だけが、ゆっくり力を抜いた。


 水路の水が石に触れる。遠くで薄絹の帳が風に揺れ、どこかの窓辺に掛けられた飾りが、微かな金属音を立てた。ルシアンはセレネの背に置いた手を動かさず、その音が消えるまで抱いていた。


 セレネは、少しずつ呼吸を整えた。


 しばらくして、額を寄せたまま、ぽつりと言葉が落ちた。


「……シオンには、見られたくなかった」


 ルシアンは黒髪の上の手を動かさなかった。


「分かっている」


 セレネは、それから一度だけ顔を上げた。海色の瞳が、月光の下でルシアンを見上げる。涙はもう流れていない。けれど、目元には水の名残がまだ残っていた。


「……殿下にだけ、見せられたものだと思います」


 ルシアンの胸元で、金鎖が小さく揺れた。


「ああ」


 それ以上、どちらも何も言わなかった。


 やがてセレネは自分から、ルシアンの腕の中を離れる。急に退くのではなく、まず額を離し、次に薄布の端を整え、最後に肩へかかる金鎖を指で戻した。今度は指先が乱れない。細い鎖は月光を受けて、彼女の肩で静かに収まった。


 涙の跡は、もう乾き始めている。


 ルシアンは自分の手に残ったわずかな湿り気を見た。白い頬を伝った二粒の涙。そのうち一つを拭った感触だけが、親指の腹に残っている。握り込む気にはなれなかった。消してしまうには、あまりに小さく、重いものだった。


 セレネは回廊の先へ視線を向けた。シオンが去った方向ではなく、そのさらに向こう、明日北方へ向かうための通路が続いている方だった。


「明日、北方の別邸へ向かいます」


「ああ」


「準備を整えてきます」


「俺も行く」


 セレネはルシアンを見た。海色の瞳には、もう涙は残っていない。けれど、目元を押さえた指の跡が、白い肌にわずかに残っている。


「……はい」


 短い返事のあと、二人は並んで歩き始めた。


 白石の柱廊に、二人分の足音が落ちる。ルシアンの胸元の金鎖と、セレネの肩にかかる金鎖が、月光の下で同じ歩幅に揺れていた。水路の水は回廊の下で石に触れ、月の線を細く崩してはまたつなげる。


「明日、北へ」


 ルシアンが低く言うと、セレネは小さく頷いた。


 水の音は、二人の足元でしばらく続いていた。


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