対面
夜明け前のレヴァンティスは、白い壁の輪郭だけが青く沈んでいた。
王太女宮の門前では、馬の鼻息と水路の音だけが先に立っている。石畳を低く滑る風には、夜の湿り気がまだ薄く残っていた。馬車の車輪には布が巻かれ、護衛たちは砂色の肩布で金具を覆っている。門前に、余計な光や音が立たないよう整えられていた。
ルシアンは、薄い生成りの旅装の胸元にかかる金鎖を指で整え、門の内側に立つアリアナ王太女を見た。
アリアナは、ノアの名を含む封書を自分の手で閉じたところだった。薄い朝の光を受けた紫水晶の瞳が、ルシアンたちへ向けられる。
「無事に戻ってください」
声は静かだった。
「必ず戻ります」
ルシアンは短く答えた。
セレネはすでに馬車のそばに立っていた。黒髪をまとめ、薄布を重ねた淡い青の旅装に、陽除けの肩布をゆるく掛けている。胸元の海色の石と細い金鎖が、夜明け前の光を鈍く受けていた。腕には布で包んだ書類の束がある。昨夜の涙の跡はもうない。けれど、目元にはほんのわずかに水で洗われたあとのような淡さが残っている。ルシアンはそれを横目で確かめ、何も言わなかった。
シオンは馬車の扉の近くで、赤銅色の髪を朝風に揺らしていた。軽い砂色の旅装はレヴァンティスの男たちが好む仕立てで、襟元は開き、肩から落とした布を金具で留めている。翠の瞳にはいつもの軽さが少し戻っていたが、口元の笑みは浅い。
三人が乗り込むと、馬車は音を抑えて門を離れた。
王都から北へ伸びる道は細く、朝の光が届く前の石畳には水気が残っている。馬車の振動が足元で続き、窓の外では白壁の家並みが少しずつ低くなっていった。やがて水路の匂いが薄れ、温まり始めた土と葉の匂いが混じり始める。
セレネは膝の上で、布に包んだ書類の束を整理していた。予告状、王太女宮へ届いたノアの私信、古い離宮の閲覧記録、北方の別邸の使用記録。細い指が紙の端を揃えるたび、馬車の揺れに合わせて白い束がわずかにずれる。彼女はそれをまた直し、必要な順に重ねていく。
ルシアンは地図を広げていた。王都から北方の旧狩場へ向かう細い道が、森の手前で途切れる。そこから先は徒歩だ。護衛は外周に置く。中へ入るのは、ルシアン、セレネ、シオンの三人だけでいい。
シオンは窓の外を見ている。指先が膝の上で組まれ、ほどけ、また組まれる。いつもなら馬車の揺れに合わせて何か言いそうな男が、今は黙っていた。翠の瞳は窓の外へ向けられたまま、森の輪郭が近づいても逸れない。
昨夜の柱廊のことを、誰も口にしない。
馬車は王都を抜け、北方の森へ近づいていった。
森の入口で馬車を止めると、朝の光は木々の高い葉を薄く照らし始めていた。ここでは水路の匂いよりも、乾いた葉と熱を含み始めた土の匂いが先に立つ。護衛たちは言葉少なに配置へ散り、外周へ回った。馬車を降りたルシアンは、砂混じりの土を踏む。靴底の下で細い枝が折れ、木々の奥から名も知らぬ鳥の声が一度だけ聞こえた。
セレネは腕に抱えていた書類を、肩布の下で持ち直した。シオンは森の奥へ視線を向ける。木々の間には細い石畳が続いていた。使われなくなって久しい道に見えるが、苔や草に覆われきってはいない。石の間に溜まった葉は、中央だけ薄く潰れていた。
三人は石畳を辿って進んだ。
北方の古い別邸は、森の中に沈むように建っていた。灰色の石造りの壁に苔と蔦が絡み、半分閉ざされた窓は朝の光を鈍く返している。かつて王家の狩場として使われていた建物らしく、正面には古い紋章の跡が残っていた。金具は黒ずみ、扉の周囲には乾いた葉が積もっている。
「ここで合っています」
セレネが短く言った。
ルシアンは扉へ手を伸ばした。施錠はされていない。重い木扉は、押すと低い音を立てて内側へ開いた。
別邸の中は無人に見えた。
広間には薄暗い光が差し込み、低い卓や籐を編んだ椅子が整った位置に置かれている。壁際の水盤には水が張られていない。香炉の灰は古く、乾いた花を挿した細い壺には埃が薄く乗っていた。だが、卓の表面には厚い埃がなく、椅子の縁にも、指で払ったような跡がある。
生活の匂いは薄い。食べ物の残り香も、人が夜を過ごした湿りもない。けれど、誰かがここへ来て、必要な場所だけを触っている。床の一部だけが乾いた砂を払われ、低い卓の角には新しい擦れがあった。籐椅子の背には、人の手が通ったあとにだけ残る艶が細く出ている。
セレネが卓の端へ指を置き、すぐに離した。
「最近、人がいたようです」
シオンが広間を見回す。声は軽く整えられていたが、目は笑っていない。
「泊まる場所というより、通る場所だね」
ルシアンは奥の扉へ目を向けた。広間の奥には、裏手の庭へ続く扉がある。そこだけ、床に落ちた葉が少ない。扉の取っ手も、ほかの金具より鈍い艶が残っていた。
扉を開けると、庭は半ば森に呑まれていた。
かつては手入れされていたのだろう。低い石垣と古い花壇の跡が見える。だが今は、蔦が石を覆い、熱帯の葉が道の上へ濃い影を落としていた。白い小花が、誰にも摘まれないまま枝の先で乾きかけている。その中で、古い石畳だけが奥へ向かって続いていた。
石の隙間には土が入り込み、ところどころ細い草が伸びている。だが、中央の一列だけは踏まれている。葉の割れ方が新しい。朝露に濡れた苔の上に、薄い靴跡が一つ残っていた。ルシアンはそれを見下ろし、言葉にしないまま歩を進めた。
三人は石畳を辿った。
庭の奥へ進むほど、本館の気配は薄くなる。水盤も、籐椅子も、香炉も見えなくなり、木々の葉が光を細かく遮った。風が通るたび、広い葉が擦れ、低い音を立てる。その先に、小さな石造りの建物があった。
本館から離れたその建物は、苔と蔦に覆われ、屋根の縁には乾いた葉を詰まらせていた。長く人目から外れていたことは、外壁に残る黒ずみだけでも分かる。だが、扉の周りだけは違った。蔦が切られ、木の板には新しい傷があり、鉄の取っ手には手の脂で生まれる鈍い光が残っている。扉の前の石だけが、周囲より埃を薄く払われていた。
セレネが扉へ指を伸ばすと、古い木板は抵抗なく内側へわずかに沈んだ。施錠されていないことを確かめた彼女が手を引くのを見て、ルシアンは一歩前へ出る。蝶番の低い軋みが円形の建物の内側へ吸われていき、古い石と蝋の匂いが、開いた隙間から薄く流れた。
中の様子を先に確かめるため、ルシアンはセレネの前を遮るようにして扉を押した。
室内は円形だった。外の熱を含んだ風が扉から入り、すぐに古い石の匂いに沈む。中央に石の祭壇があり、壁には古い壁画と文字が巡っていた。高い小窓から午前の光が斜めに落ち、石の床へ細い帯を作っている。
ルシアンの視線は、まず祭壇へ向いた。
祭壇の上だけ、埃が薄い。端には指で拭った跡があり、石の窪みに乾いた花弁が数枚残っている。新しい供え物ではない。だが、放置されて朽ちたものでもなかった。石床の上には、同じ場所を何度も歩いた靴底の擦れが浅く残っている。
壁際の蝋燭は新しかった。
芯の先が黒く、蝋の垂れ方も古くない。昨夜か、少なくとも数日のうちに誰かが火を入れたのだろう。古い石と苔の匂いの中に、蝋の甘い匂いがわずかに混じっていた。
次に、壁画が目に入った。
首のない胴体を描いた人型が、円形の壁を囲むように並んでいる。腕の位置は祈りの形に近いのに、頭部だけがどこにもない。胴体の胸元には古い文字が刻まれ、隣には三つの短い線と、三日目を示す記号が続いていた。さらにその先では、名を記す欄だけが削り取られたような印が連なっている。
名を記す欄だけが削り取られたような印は、これまで追ってきた記録の欠落を、古い石壁の上へ形として残していた。文字を完全に理解できるわけではない。けれど、死と記録の空白が、ここでは同じ並びの中に置かれている。ルシアンは壁の線を目で追い、喉の奥にかすかな苦みを覚えた。
その祭壇の前に、男が立っていた。
深い藍の上着を身につけた、王家の縁戚にふさわしい姿の男だった。療養という言葉から想像される衰えはない。顔色は悪くなく、背筋もまっすぐに伸びている。穏やかな面差しをしているが、扉の枠に三人が現れた瞬間、瞳の奥が一度だけ揺れた。浅い湖の底で、別の色が動くような揺れだった。
すぐに、その揺れは消えた。
男は祭壇の前から動かず、礼を崩さぬ姿勢でこちらを見た。
「……なぜ、ここに」
声は穏やかだった。だが、その言葉が問うているのは、訪問の目的ではない。
「ここの場所をご存知の方は、限られているはずです」
所在を突き止められたことへの驚きが、丁寧な言葉の下に薄く残っている。ルシアンは祭壇へ向かって一歩踏み出した。石の床に靴音が落ちる。
「ノア・レヴァンティス」
男の瞳が、ルシアンへ向いた。
「お前に、確かめたいことがある」
ノアはすぐには答えなかった。短い間を置き、指先を上着の袖へそっと添える。礼儀の所作に見えるが、言葉を選ぶ時間にも見えた。
「確かめる、というのは、お聞きになる、という意味でしょうか? それとも、お調べになる、という意味でしょうか」
「両方だ」
ノアの口元に、わずかな微笑みが浮かぶ。けれど、目は笑っていない。
「では、お聞かせください」
彼は祭壇の前で姿勢を整えた。こちらに席を勧めることはしない。この場所を屋敷の一室として扱うのではなく、自分もまた祭壇の前に立つ者として振る舞っている。その所作が、ルシアンには引っかかった。
セレネが前へ出た。
彼女は肩から掛けた布袋を静かに開き、中から書類の束を取り出した。祭壇の手前に置かれた小卓へそれを置くと、紙の白が、蝋燭の橙と高窓の光を受けて浮かび上がる。指先は乱れない。昨夜の涙の名残は、紙を扱う手には出ていなかった。
「お見せしたいものがあります」
「拝見します」
ノアは穏やかに答えた。
セレネはまず、一枚目を手前へ置いた。
王太女宮へ届いたノアの私信の原本だ。白い紙面は高窓から落ちる光を受け、端だけが淡く透けている。白潮紙と呼ばれるその紙について、以前、王太女宮の者はこう説明していた。使えるのは、王家、王太女宮に仕える上級官女、王家の縁者、それから正式に名を連ねた婚約者くらいだと。
彼女は私信をノアからも見える位置へ寄せ、署名のある一行へ指を置いた。灯火の橙が、丸みを帯びた文字の端を浮かび上がらせる。
「この手紙を書いたのは、あなたですね?」
ノアは私信へ視線を落とした。
深い藍の袖口から伸びた指が、紙の端に触れる。自分の書いたものだと確かめるには短すぎ、否定するには長い間があった。
「……ええ。私の私信です」
セレネは頷き、次にアルヴェリアへ届いた予告状を隣へ置いた。高窓から落ちる光の中で、その紙の端も同じように淡く透ける。さらに、レヴァンティスで保管されていたもう一通の予告状を並べると、三枚の白い紙は、同じ薄い光を小卓の上に浮かべた。
「三通とも、白潮紙です」
ノアの指が、私信の端に触れたまま止まる。
「白潮紙を使える者は限られます。王家、王太女宮に仕える上級官女、王家の縁者。それから、正式に名を連ねた婚約者くらいです」
セレネの指が、予告状の端へ移った。
「それを知らずに、予告状へ使ったのですか」
ノアはすぐには答えなかった。
セレネは返事を急がず、私信の一行へ指を戻した。
「そして、紙だけではありません」
彼女の指が、私信の中ほどにある一文字を押さえ、次に予告状の末尾へ移る。
「文字の傾きと、払いの沈み方、末尾の右への流れ。ここが同じです」
ノアは答えない。
セレネはもう一通、レヴァンティスで保管されていた予告状の同じ箇所を示した。重ねず、少しだけ位置をずらして置かれた三枚の紙が、小卓の上で白く並ぶ。
「こちらにも同じ癖があります」
ルシアンはノアの顔を見ていた。表情は穏やかなままだ。だが、私信の端に触れていた指先は、紙から離れない。
セレネは少しだけ間を置いた。
「二通の予告状は、この私信と同じ筆跡です」
ノアはようやく視線をセレネへ戻した。
「同じ筆跡だと、あなたはおっしゃるのですね」
「はい」
「では、それは、どういう意味になるのでしょうか」
セレネの指が、三枚の紙の端を静かに揃えた。無理に畳みかけることはしない。ただ、紙の位置だけが少しずつ変わり、ノアの前に逃げ場のない形を作っていく。
「少なくとも、この二通を書いた人物は、王太女宮へ届いたあなたの私信を書いた人物と同じです」
そこで初めて、セレネはノアを見た。
「予告状を書いたのは、あなたですね?」
ノアは答えなかった。
高窓から落ちる光が、祭壇の角にかかる。石の上に刻まれた古い文字が、細い影を作った。ノアの指はまだ私信の端に触れている。爪の先が白い紙へ浅く沈み、それからわずかに離れた。
「筆跡だけで、そこまで言い切るのですか」
穏やかな声だった。
「筆跡だけではありません」
セレネは三枚の紙をそのまま小卓に残し、布袋から次の束を取り出した。
古い離宮の閲覧記録は、端が少し黄ばんでいる。北方の別邸の使用記録はそれより新しく、欄の線がまだ濃い。王太女宮への私信の送付日を写した一覧だけは、昨夜セレネが整えたものだった。彼女はそれらを重ねず、祭壇の前にいるノアからも見えるよう、少しずつ間を空けて並べていく。
紙が置かれるたび、小卓の上で乾いた音がした。
「こちらは、古い離宮の閲覧記録です」
セレネの指が、一番上の欄へ触れる。そこにはノア・レヴァンティスの名と、閲覧許可を示す印が残っていた。
「過去三ヶ月で、あなたの名は七回出ています」
ノアは否定しなかった。視線だけが、紙面の上を静かに移る。
「古い離宮には、王家の縁戚として閲覧を許された記録があります。そこへ足を運ぶこと自体は、不自然ではありません」
セレネはそこで指を止めた。
「ですが、随行者の欄が揃っていません」
彼女は五つの欄を順に辿る。セルジオの名が、薄いインクで繰り返されていた。紙の上を滑る指は速くない。一つずつ見せるように進み、五つ目の欄で止まる。
「五回は、セルジオの随行記録があります」
次に、指が二つの空いた欄へ移った。
「残り二回は、単独です。監督者の署名もありません」
ノアの指先が、私信の端でわずかに止まった。ルシアンはその動きを見ていた。言葉はまだ出ない。けれど、ノアの視線が一度だけ、閲覧記録の二つの空欄を避けるように横へ流れる。
セレネは次の紙を手前へ引いた。
「そして、こちらが北方の別邸の使用記録です」
使用なし、と書かれた欄が続いている。几帳面な筆跡で同じ言葉が並び、何も起きていない記録のように見える。セレネはその中から三箇所を選び、細い指で一つずつ押さえた。
「ここも、ここも、ここも。いずれも使用なしと記されています」
ノアは黙っている。
「けれど、その前後の記入だけが抜けています。使用していないなら、空ける必要のない欄です」
高窓から落ちる光が、紙の空欄を白く浮かび上がらせた。そこには何も書かれていない。だが、何も書かれていないことが、かえって目に残る。
セレネは最後に、王太女宮への私信の送付日を写した一覧を置いた。
「古い離宮への閲覧日。北方の別邸の空欄。その数日後に届く、王太女宮への私信」
彼女の指が三枚の紙を順に渡る。離宮、別邸、私信。その動きが一度終わり、また同じ順で繰り返される。
「この並びが、三度あります」
シオンが小さく息を吐いた。ルシアンはノアから目を離さなかった。
ノアの顔は穏やかなままだ。けれど、私信の端へ置かれていた指は、もう紙を撫でていない。爪の先が、白い紙の上で浅く止まっている。
セレネは顔を上げた。
「記録の上では、あなたはここにいないことになっています」
声は静かだった。
「けれど、実際にはいた」
そこで初めて、彼女は問いにした。
「それを認めていただけますか」
室内の蝋燭が、わずかに揺れた。風は入っていない。高窓の光が、石床の上で少しだけ位置を変えている。
ノアはセレネを見た。




