もう一人の声
海色の瞳と、浅い湖の底に別の色を沈めたような瞳が、祭壇の前で向かい合う。長い沈黙ではない。けれど、言葉を選ぶには十分な間だった。
「療養のため、と言えば」
ノアは静かに口を開いた。
「あなたがたは、その答えを受け取ってくださるのでしょうか」
「療養所には、ほとんど不在だったと聞いています」
セレネが返す。
「ええ」
ノアは否定しない。
「療養の形は一つではありません。静かな場所で古い記録を読むことが、私には必要でした」
「そのために、使用記録を空けたのですか」
セレネの問いは短かった。
ノアの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。目は、紙の上へ落ちたままだ。
「王家の縁戚の動きは、表向きの言葉で隠されることがあります。あなた方も、それをお調べになったはずです」
「はい」
セレネは頷いた。
「だから、空欄を見つけられました」
ノアの指が、ようやく私信から離れた。
そこで、シオンが初めて口を開いた。
「死亡した婚約者候補。エリオット、セドリック、マティアス」
ノアの目が、シオンへ向く。
シオンは祭壇の脇に立っていた。赤銅色の髪に高窓の光が触れ、翠の瞳はいつもの軽さを薄く残している。だが、言葉は軽くなかった。
「全員、アリアナ王太女の婚約者候補だった。俺も、かつて候補の一人だった」
ノアは黙っている。
「候補だった者が死んだ。候補から外れた俺は残っている。君は候補じゃない。けれど、記録の中ではずっと近くにいた」
シオンの指が、祭壇の縁に触れた。そこに刻まれた古い文字へ、目は落とさない。
「ただ巻き込まれただけ、とは言えないだろ」
ノアは、シオンの翠の瞳をしばらく見ていた。
穏やかな顔のまま、瞳の奥だけがわずかに動く。過去のどこかに触れたのか、それとも今の問いだけを測ったのか、ルシアンには分からない。ただ、ノアの指が袖の縁を軽く押さえるのが見えた。
「……はい」
短い肯定だった。
その一語で、小卓に並べられた紙の白さが少し違って見えた。療養所の登録、離宮の閲覧、使用なしの記録、王太女宮への私信。別々に置かれていたものが、ノアの声で一つの線へ近づく。
ノアは小さく息を吐いた。
「あなたがたが、私を突き止めたのは、認めなければなりません」
彼は並べられた紙を見下ろし、またセレネへ視線を戻した。
「筆跡も、記録も、確かに私のものです」
そこで一度、言葉が止まる。蝋燭の火が、藍の上着の袖に小さな影を揺らした。
「予告状を書いたのは、私です」
セレネが小さく頷く。
ルシアンは、そこで一歩踏み込んだ。石床に靴音が落ち、ノアの視線が彼へ戻る。
「死亡を引き起こしたのは、お前か」
ノアは答えなかった。
祭壇の縁へ伸びた指が、古い石に刻まれた三つの線をなぞる。ひとつ、ふたつ、みっつ。乾いた爪先が記号の上を滑ったあと、ノアの唇がゆるく持ち上がった。
「死亡をぉ? 引き起こしたぁー?」
語尾が、石の壁にべたりと貼りつくように伸びた。
「んふ。やだなぁ、ルシアン殿下。そんな言い方したら、まるでノアが悪いことしたみたいじゃないですかぁ」
シオンの顔から、笑みが消えた。
ノアは祭壇に刻まれた首のない人型を、指先でゆっくり撫でる。
「ただ死ぬだけじゃ、足りないんですよぉ。首がころん、名前がずるん、約束がべたべた剥がれてぇ、三日目には、ほら。だぁれも覚えていない」
セレネの指が、小卓の上の白潮紙を押さえた。
ノアは祭壇の上に視線を落としたまま、石に刻まれた首のない人型を撫でている。指先はゆっくりで、丁寧だった。だが、石の線を何度も往復するその動きは、図を確かめるというより、肌の上をなぞる指に近かった。
「顔がないと、探すんだよぉ。どこ、どこ、どこに置いてきたのって。名前がないと、呼べないんだよねぇ。ねえ、セレネ嬢。呼べない愛って、どろどろに溶けた愛と同じだと思わない?」
「……今、誰と話していますか」
セレネの声は低かった。
ノアの瞳が、ゆるりとセレネへ流れた。
「誰ぇ?」
首を傾げる動きが、子供のように遅い。
「ノアだよぉ。ノア・レヴァンティス。王家の縁戚で、療養中で、候補たちの名前が消えるのを、ずぅっと見ていた人」
そこで、ノアは唇の端をさらに上げた。
「でもねぇ、ノアは駄目なんだ。すぐ震える。すぐ目を伏せる。首がなくなると、かわいそうって顔をする。名前が消えると、怖いって思う。だから代わりに見てあげるの。ぐずぐずにほどけるところを、最後まで」
シオンが低く呼んだ。
「ノア」
ノアはシオンを見なかった。
「婚約者候補、伴侶候補、真実の愛、偽りの伴侶。みんな、みんな、紙の上にべたぁっと塗った名前でしょ。剥がしたら、下には何が残るのかなぁ。ねえ、見たいよねぇ」
祭壇を撫でていた指が、首のない人型の胸元で止まる。
「三日待つの。三日だよぉ。ひとつ、ふたつ、みっつ。涙も、記憶も、誓いも、ぬるぬる手から滑っていく。そうしたら分かるんだ。最初から、なぁんにも結ばれていなかったって」
ルシアンは一歩前へ出た。
「ノア・レヴァンティス」
低く名を呼ぶ。
その瞬間、祭壇を撫でていた指が止まった。
ノアの瞳がルシアンへ向く。濁った色はまだ残っている。唇の端には、粘るような笑みが貼りついたままだ。
「呼んだぁ?」
その声は、明らかに先ほどのノアではなかった。礼儀も、遠慮も、王家の縁戚としての整った響きもない。甘く伸び、石壁にまとわりつくような声だった。
「ねえ、ルシアン殿下。捕まえるの? 聞くの? どっち? どっちでもいいよぉ。どうせ聞いたら、耳の奥に残るから。べたべた、べたべた、ずっと残るから」
ルシアンは目を逸らさなかった。
「今の言葉は、お前のものか」
ノアは首を傾げた。
「お前?」
くす、と喉の奥で笑う。
「どっちの?」
その言葉に、シオンの手がわずかに動いた。セレネは小卓の上の紙を押さえたまま、ノアを見ている。
ノアの肩が、ふいに小さく揺れた。
祭壇に置かれていた指が石から離れる。だが、宙で止まった爪先は、まだ何かを撫でる形をしていた。ノアはその手を見下ろし、初めて自分の指が何をしていたのかに気づいたように、ゆっくり握り込んだ。
唇の端に貼りついていた笑みが消えるまで、少し時間がかかった。
「……失礼、しました」
声は穏やかに戻ろうとしていた。けれど、語尾だけがわずかに引っかかる。
「少し、言葉が過ぎました」
整った謝罪だった。整いすぎていて、かえって先ほどの声との継ぎ目が目立つ。
ルシアンはノアを見ていた。
さきほどの声は、まだ耳の奥に残っている。語尾の粘りも、祭壇を撫でた指も、笑う場所を間違えたような目も。疲労や動揺だけで片づけるには、形が揃いすぎていた。
シオンが、祭壇の脇から静かに口を開いた。
「ねえ、ノア」
軽い声だった。けれど、いつものシオンの軽さとは違う。翠の瞳には、警戒だけが薄く残っていた。
「今の、君じゃなかっただろ」
ノアの目が、シオンへ流れた。穏やかな顔のまま、瞳の奥だけが一度だけ静かに動く。
「……同じ私です」
短い返事だった。
「同じ口調では、ありませんでした」
セレネが続けて言う。
ノアはセレネを見た。海色の瞳が、祭壇の前から動かない。
「あなたの中に、もう一人、いますか」
ノアは答えなかった。
唇の端だけが、わずかに上がりかけて、すぐに元に戻る。整えた笑みでも、粘る笑みでもない、どちらにもなりきらない中途半端な動きだった。
「……お話、しましょう」
声は穏やかに戻っていた。けれど、肯定でも否定でもないその答えが、室内の沈黙をかえって深くする。
「あなたがたは、私を捕えに来たのですか? それとも、私を聞きに来たのですか?」
ルシアンは、ノアから目を逸らさなかった。
捕えるだけなら、ここで手を伸ばせばいい。聞くだけなら、証拠を並べる必要はない。ノアが何をしたのか。何を知っているのか。どこまでが人の手で、どこから先に別のものが混じっているのか。それを確かめなければ、この事件は終わらない。
「両方だ」
ノアはすぐには答えなかった。
薄い微笑みが口元に戻りかける。けれど、その形は途中で一度崩れた。唇の端に残っていた粘るような歪みと、王家の縁戚らしい礼儀の笑みが、同じ顔の上でうまく重ならない。ノアはそれを整えるように、ゆっくり息を吸った。
祭壇に触れていた指は、もう石から離れている。それでも爪先だけが、まだ三つの線を数える時の形を覚えているように、わずかに曲がっていた。ノアはその手を見下ろし、指を一本ずつ閉じる。
「……お話、します」
声は穏やかだった。だが、途中に挟まった短い切れ目が、さきほどの声の名残を隠しきれていなかった。
セレネは小卓の上の白潮紙から手を離さない。シオンも動かなかった。ルシアンは、ノアの声が整うまでのわずかな遅れを聞いていた。
高窓から落ちる光は、首のない胴体を描いた壁画の下へゆっくり移っていく。祭壇の蝋燭の火が小さく揺れ、白潮紙の端が、石の部屋の中で淡く透けていた。




