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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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お前の仕業か

 ノアが「お話、します」と言ったあと、祭壇の前にはしばらく言葉が落ちなかった。


 高窓から斜めに差し込む白い光は、首のない胴体が並ぶ壁画の下をゆっくり滑っていた。古い顔料の剥がれた縁に光が触れるたび、肩だけを残した人型の輪郭が薄く浮かび、また石の色へ沈んでいく。祭壇の蝋燭は短くなり、橙の火が芯の先で細く揺れ、溶けた蝋が石の窪みへ溜まっていた。乾いた香の匂いに、湿った石と潮気が混ざっている。


 小卓の上には、白潮紙が並んだままだった。私信、予告状、記録の写し。薄い紙の端は光を受けると水を含んだ貝殻のように透け、紙目の細い筋がかすかに見える。セレネはその端に指を置いたまま、ノアを見ていた。淡い青の旅装の肩布は、湿った熱を吸って彼女の腕に沿い、海色の石を留めた金鎖だけが喉元で静かに光っている。


 シオンは祭壇の脇に立っていた。軽い砂色の旅装、赤銅色の髪、腰に下げた剣。指は柄にかかる寸前で止まり、翠の瞳はノアから離れない。


 ルシアンは、深い藍の上着をまとった男の顔を見据えた。


 ノア・レヴァンティスは、先ほどまで口元に残していた粘ついた笑みを消そうとしていた。礼儀正しい男の顔へ戻るまでに、わずかな遅れがある。祭壇に置かれた指は整っているのに、爪の先だけが石の粉で白く汚れていた。


「言葉を選ぶな。何をした」


 ルシアンが低く告げると、ノアはすぐには答えなかった。祭壇の縁に置いた指が、一度だけ石の上を滑る。爪先に付いた粉が、古い文字の溝へ落ちた。高窓の光はノアの横顔の片側だけを照らし、もう片側を首のない壁画の影へ落としている。深い藍の上着は乱れていない。けれど喉元の布だけが、呼吸に合わせてわずかに上下していた。


「ルシアン殿下。私は、殺した、と言うべきなのでしょうか」


「俺が聞いているのは、お前の言い換えじゃない」


「言い換えではありません」


 ようやく落ちた声は丁寧だった。だが、さきほどの粘るような響きが、まだ完全には抜けていない。


「私が何をしたのか。それを申し上げるには、先に、私が何を願ったのかをお話ししなければならない」


「願いで死者は戻らない」


「承知しています」


 ノアは目を伏せた。その仕草だけなら、罪を悔いる男にも見える。だが、次に持ち上げられた瞳には、悔恨よりも長い時間をかけて磨かれた硬いものが残っていた。浅い湖の底に沈んだ石のような光が、瞳の奥で動かない。


「ですが、順序を誤れば、あなた方は私をただの殺人者として裁くでしょう」


「十分だろ」


「いいえ」


 ノアの指が祭壇から離れた。


「私は、人を殺すためだけに始めたのではありません」


 その言葉に、ルシアンの胸の奥で何かが引っかかった。殺すためだけではない。そう言う者ほど、殺した事実を別の布で包もうとする。罪を軽く見せるためか、それとも罪より大きな何かを信じ込むためか。


 ノアはゆっくりと祭壇へ背を向けた。


「二つの国を、一つにする王」


 静かな声だった。


 蝋燭の芯が小さく爆ぜ、細い煙が上がる。ルシアンはその言葉を受け止めるより先に、横にいるシオンを見た。シオンの肩が、ほんのわずかに動いていた。驚きと呼ぶには小さすぎる。けれど何も知らない者の反応ではない。翠の瞳の奥に、光の筋とは別の揺れが一つ残る。


 シオンは口を開かなかった。


 唇は薄く閉じられ、剣の柄に近い指だけがわずかに曲がっている。その横顔から読み取れるものは多くない。だが、ルシアンの胸には、シオンがこの言葉を初めて聞いたわけではないという小さな引っかかりが残った。


 今拾うべきものは、ノアの口から出る言葉だった。


「古い記録に、そういう一文が残っています。アルヴェリアとレヴァンティス。元は同じ祖を持つ二つの国を、もう一度一つにする王」


 ノアは円形の建物の内側をゆっくり歩いた。白石の床を踏む足音は軽く、壁画に沿って深い藍の背が移動する。首のない胴体が並ぶ壁の前で、彼は足を止めた。


「それが、私の長く願ったことです」


「古い一文に従いたかったのか」


「いいえ。言葉そのものに膝を折ったわけではありません」


 ノアの指が、壁画の剥がれかけた線をなぞる。首のない人型の肩から胸へ。そこには顔も名もない。ただ、胴体だけが古い石の上に残っている。


「今のレヴァンティスを見ていると、時々、息が詰まるのです。王家は血筋を守ることに忙しく、宮廷は誰が誰の隣に立つかばかりを見ている。港も、海路も、外から流れ込む金も人も、本当ならもっと強く国を動かせるはずなのに、古い席順と婚姻の駆け引きに縛られている」


 声は穏やかだった。穏やかすぎるほどに。


「アリアナ王太女殿下が足りないと言っているのではありません。けれど今のままでは、この国は何も選べない。誰かの家の都合で伴侶が決まり、誰かの血の濃さで未来が決まり、また同じ宮廷が続いていく」


「だから、お前が国を動かすべきだと思ったのか」


「私なら、もっとよくできると思いました」


 ノアは静かに答えた。


「私は王家の血に連なる者です。けれど、その血は薄い。王太女殿下の伴侶候補として正式に名を連ねる者たちは、皆、私よりも近い場所を歩いていました」


 ノアの指が壁画から離れた。


「エリオット、セドリック、マティアス」


 その名が一つずつ落ちるたび、セレネの指が白潮紙の端を押さえる力をわずかに変えた。シオンは何も言わない。けれど、祭壇の脇に立つ姿勢が少しだけ硬くなったのを、ルシアンは見逃さなかった。


「彼らが王配になれば、二つの国は一つにならない。彼らは、王太女殿下の隣に立つことを名誉と考えていた。あるいは家の利益として見ていた。レヴァンティスを変える場所へ立つ者が、古い宮廷と同じ顔であっていいはずがない」


「だから、退かせる方法を探した」


「はい」


「殺す方法を、か」


 ノアは答える前に、唇を一度閉じた。薄く乾いた音がした。


「最初から、そう呼ぶつもりはありませんでした」


「呼び方の問題じゃない」


「ええ。今なら、分かります」


 その言葉に悔いがあるのか、ルシアンには分からなかった。ノアの表情は整っている。整いすぎていて、ひびの位置が見えない。


「けれど、その時の私は、彼らを排除すると考えていました。国を誤った場所へ運ぶ者を、王太女殿下の周囲から消す。そうすれば、レヴァンティスは選び直せると」


 ルシアンは喉の奥にこびりつく不快さを押し込めた。人の死を、排除と言う。首を落とす行為の前に、まず言葉から命を消している。


 セレネが短く問う。


「そのために、古い祭祀を使ったのですか」


「はい、ご令嬢」


 ノアは祭壇へ戻った。石の中央には古い文字と三つの線の記号が刻まれている。三本の線は重なり合わず、少しずつずれていた。一本目は首の高さで断たれた人型へ、二本目は削られた文字列へ、三本目は空欄の輪へ繋がっている。ルシアンはその並びを見て、それが飾りではなく手順を示すものだと気づいた。


「この祭祀の建物は、王家の縁戚だけが知る古い場所です。正式な建築記録には残っていません。曽祖父の代に、祭祀の方法だけが伝えられました。完全な書ではありません。断片です。古い離宮の記録、家に残った写し、ここに刻まれた記号。それらを合わせて、私は形を組み直しました」


 ノアの指が一本目の線をなぞる。


「ひとつ。首が落ちる」


 指は首のない人型へ移った。


「ふたつ。名が消える」


 次に、削られた文字列へ。


「みっつ。忘れられる」


 最後に、空欄の輪へ触れた。


「三日目に、すべてが終わります」


 セレネの指が白潮紙の端を押さえたまま、動きを止める。


「それは、人の手で行えるものですか」


「……古い方法では、そうです」


 ノアの声は少しだけ低くなった。


「首を落とすのは、人の手です。名が消えるのも、記録へ触れられる者がいれば不可能ではありません。婚約者候補の名簿、王太女宮の控え、候補者の家へ送られた私信、席次、贈答の記録。署名欄を書き換え、頁を抜き、空欄を作る。王家の縁戚であり、療養中という名目で人目を避けられる私なら、入り込める場所はいくつもありました」


「三日目に忘れられる仕掛けは」


 ルシアンが問うと、ノアは祭壇の上の三本目の線を撫でた。


「人は、記録が消えると忘れます。周囲が口を閉ざし、書かれたものがなくなり、残された者が死ねば、関係は薄れていく。王宮では特に、扱えない名はすぐに別の紙の下へ隠される」


 蝋燭の火が小さく伸び、すぐに戻った。


「最初は、それで足りるはずでした」


 その言葉を、ルシアンは逃がさなかった。


「アルヴェリアでも、同じ手口の事件があった」


 ノアの指が、祭壇の文字の上で止まった。


 ルシアンは一歩も動かず、続けた。


「使節団の一人の名前が、港湾記録、宿泊台帳、晩餐席次、返礼品管理から消されていた。帳簿の頁が綴じ直され、番号が飛び、宿泊台帳には薄い紙が貼られて、下の文字が隠されていた」


 ノアの顔に、初めて整えきれないものが浮かんだ。


 それは恐れよりも、先に戸惑いだった。瞳の奥が浅い湖の底のように揺れ、祭壇を押さえていた手の指が一本ずつ浮く。彼は何かを言おうとして、喉の奥で声を止めた。


「お前の仕業か」


「……それは」


 ノアの呼吸が止まる。深い藍の上着の胸元が、しばらく動かなかった。


「私の覚えにありません」


 その声に、ルシアンは目を細めた。


 言い逃れをする者の声ではなかった。証拠をかわすための滑らかさもない。ノアは自分の中の棚を一つずつ開けて、そこに何も見つからなかった男の顔をしていた。


「私は、アルヴェリアでそのようなことを行った覚えはありません」


「覚えがないだけで、していないとは言わないんだな」


 ノアの唇がわずかに震えた。


「……私が眠っている間に、こちらが動いた可能性があります」


「こちら、とは」


 ノアはすぐに答えられなかった。祭壇の石に目を落とし、首のない人型の線へ視線を移す。蝋燭の橙が、その横顔を浅く照らしていた。


「先ほど、お見せした方です」


 セレネが、白潮紙から手を離した。


「あなたは、アルヴェリアの記録に介入できる方法を持っていますか」


「白潮紙以外、私が直接アルヴェリアの記録へ触れる手段はありません。あちらの港湾記録や宿泊台帳に、私が自由に手を入れることはできない」


 ノアはそこで言葉を切った。


「けれど、こちらが動くなら、私の知らない手段があるのかもしれません」


 祭壇の下で、乾いたものが鳴った気がした。実際には蝋が石へ落ちただけかもしれない。ルシアンは音の出所を確かめようとせず、ノアの顔を見た。疲労や動揺だけで片づけるには、言葉の形が揃いすぎている。自分の犯行を隠すための演技なら、アルヴェリアの記録を突きつけられた瞬間、あの目は作れない。


 だが、作れないと断じるのも早い。


 高窓の光が、白石の床を一段だけ進んだ。蝋燭の芯がまた小さく爆ぜ、橙の火が祭壇の上で短く揺れる。ノアは祭壇の縁を掴んだまま、息を整えている。深い藍の上着の内側で、まだ何かが整いきっていない。


 ルシアンは、その肩の動きを見ていた。


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