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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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呼ばれた者

 ノアは壁画へ向き直った。円形の壁を囲む首のない胴体は、どれも同じ高さに胸を描かれている。顔がないせいで、誰の姿か分からない。肩の線と手の位置だけが少しずつ違い、名を剥がされた人間の名残が並んでいる。


「私は、これらを人の手で組み立てたつもりでした」


 ノアは言った。


「予告状を送る。候補者の動きを把握する。三日後に祭祀を行う。記録へ触れ、名を薄くする。すべて、人の手で完結する仕掛けです」


 言葉の末尾が、わずかに低く沈んだ。


「最近、私の意思を離れて動くことがあります」


 セレネの海色の瞳が細くなる。


「予告状を書いた覚えのない日付に、王太女宮へ届いている。祭壇に火を入れた覚えのない夜に、蝋燭が燃えている。私が起こしたものが、私の知らないところで、別の形を持ち始めている」


「……別の形」


「ええ」


 ノアは祭壇の縁を掴んだ。爪が白くなる。


「人が作った怪異が、本物を呼ぶ」


 その言葉が落ちた直後、ノアの息が止まった。


 ルシアンは半歩前へ出る。セレネは動かない。シオンの手が、腰に下げた剣の柄へ触れた。金具が小さく鳴り、すぐに止まる。


 ノアの瞳の奥に、濁った影が広がった。唇の端がゆっくり上がる。礼儀正しい男が笑みを作る動きではない。皮膚の下から別のものが持ち上がり、顔だけが従っている。


「呼んだのは、こっちだよぉ」


 甘く伸びる声だった。


 同じ喉から出ているはずなのに、舌の動きが違う。言葉の端が湿った布のように床を引きずる。


「ノアが書いたんじゃないの。ノアが燃やしたんじゃないの。ノアが眠ってる間に、こっちがやったの」


「下がれ、セレネ」


 ルシアンは短く告げた。


 セレネは一歩だけ位置を変えた。逃げるためではなく、小卓の白潮紙と祭壇の両方を視界に入れるための動きだった。肩布の裾が白石の光を拾い、すぐに影へ落ちる。


 ノアの顔をしたものは、祭壇の三つの線を指で行き来していた。


「ノアね、ぼんやり寝てるんだよぉ。三日目になると、ぐずぐず溶けて、こっちが出てくるの」


「お前は、何者だ」


「ノアが呼んだものだよぉ」


 それは、首のない壁画へ歩み寄った。深い藍の上着の裾が石床を掠める。指先が壁画の胸を撫で、顔のあるべき空白のあたりで止まった。


「首がなくなる仕掛け、名前が消える呪い、三日目の死。ノアが必死に組み立てたから、こっちが目を覚ましたの」


 指が、古い顔料の剥がれた縁を擦る。白い粉が爪の下へ入り込む。


「眠ってたんだよぉ、ずっと。この祭壇の下で、白い骨と一緒に。でも、ノアが毎日、丁寧に呼んでくれたから、ぐずぐず、ぬるぬる、上がってきたの」


 シオンの剣の柄を握る手に、力が入った。抜いてはいない。だが指の節が白い。


「首を落とすのは、ノア。名前を消すのも、ノア。でもね、忘れさせるのは、こっちなの」


 ルシアンは目を逸らさなかった。


 怪異の名を借りて人を殺す者を、これまで何度も見てきた。噂に罪を着せ、伝承に刃を隠し、人の恐怖を道具にする者たち。だが目の前のこれは、人が作った道具の中から、別の刃が伸びてきているように見える。演技か、病か、暗示か。どれか一つに押し込めるには、ノアの肩の揺れ方も、声が切り替わる瞬間も、あまりに整いすぎていた。


「アルヴェリアでも、お前が動いたのか」


 ルシアンが問うと、ノアの顔をしたものは楽しげに笑った。笑い声は喉の奥で転がり、石壁に薄く返る。


「行ったよぉ、アルヴェリアにもぉ」


 ルシアンの拳が固くなる。


「ノアね、ちっとも知らないんだ。ふらっと行って、ふらっと帰ってくるの。使節団の一人ね、名前をするるって消してきた」


 それは壁画から離れ、祭壇へ戻った。指先が空欄の輪を撫でる。


「港湾の記録、宿泊の台帳、晩餐の席次、返礼の控え。全部、ぬるぬると剥がしてきた。紙の下に紙を貼るの、楽しいよねぇ。番号がひとつ飛んでも、みんな急いでると見ないんだよぉ。名前って、案外薄いの。少し湿らせて、押さえて、剥がして、別の紙で撫でれば、そこにいた人がいない人になる」


 セレネは小卓から動かない。目だけがノアを捉えている。


「ノアが組み立てた手口を、こっちも試してみたかったんだよぉ。だぁれも気づかないと思った? でも、気づいたねぇ。ねえ、ルシアン殿下」


 シオンが、祭壇の脇から低く呼んだ。


「ノア」


 それは応えなかった。粘る笑みを浮かべたまま、シオンの方へは振り向きもしない。シオンの呼びかけが、別人格の耳には届かないことが分かる。翠の瞳の奥に、警戒の色がさらに濃くなった。


「黙れ」


 ルシアンが告げる。


「怒ったぁ?」


「話を続けろ。対象は誰だ」


 それは唇を尖らせるようにして、わずかに首を傾けた。


「まだ言わないよぉ。三日目は、待つものだから。ひとつ、ふたつ、みっつ。首がころん、名前がするる、記憶がべたべた剥がれていく」


 その瞬間、ノアの肩が大きく揺れた。


 壁画へ伸びていた手が止まり、爪先が石から離れる。笑みは残ったまま、喉の奥で別の音が引っかかった。


「……違う」


 かすれた声だった。


 ノア本人の声だ。


「違わないよぉ」


「私が……組み立てたものです」


「でも、最後まで完成させたのは、こっちでしょぉ?」


 同じ唇から、二つの声がずれて重なる。ルシアンは剣へ手を伸ばさなかった。刃を抜けば、ノアの身体ごと止めることになる。必要なら迷わない。だが、まだ聞かなければならないものが残っている。


「ノア・レヴァンティス」


 ルシアンは名を呼んだ。


 ノアの目が閉じた。長い睫毛の影が頬に落ち、胸元が大きく上下する。開いた時、瞳の濁りは薄れていた。完全に消えたわけではない。底に残ったものが、水の下で形を変えている。


「……失礼、しました」


 整えようとした声は、途中で掠れた。


 セレネが小卓から離れた。白潮紙の端が少し浮き、光を透かして白く見える。彼女は祭壇の前へ一歩近づき、ノアを正面から見た。


「あなたは、もう、自分ではないのですね」


 静かな声だった。


 責める響きではない。憐れむ声でもない。ただ、目の前の事実を紙の上へ置くような言い方だった。


 ノアはすぐには答えられなかった。唇が開く前に、何度か呼吸を整える。蝋燭の橙が喉元に揺れ、深い藍の上着へ落ちた。


「中にいるもう一人を、あなたは知っている」


 セレネは続けた。


「けれど、止められない」


 ノアの指が祭壇の縁を掴む。爪が白くなる。


「……ええ」


 初めての、明確な肯定だった。


 ルシアンはその一言を聞き、胸の奥で情報を並べ直した。レヴァンティスで首を落とす手順を組み立てたのはノア。記録を消したのも、候補者たちを三日目へ追い込んだのもノア。だが、アルヴェリアで名前を消したものは、ノア自身の記憶から抜け落ちている。白潮紙と予告状を手がかりに追ってきた事件は、人の手で作られた形を保ったまま、その外側へ足を出し始めていた。


 いや、もう出ている。


 そう言い切りかけて、ルシアンは奥歯を噛んだ。断定する時間より、止めるための時間が要る。


「今、進行中の事件はあるか」


 ノアは顔を上げた。


 返答までの間に、蝋燭の芯が小さく音を立てた。高窓の光は壁画の首のない胴体の真上へ移り、胸の部分だけを白く照らしている。顔のない列は、こちらを見ていない。それでも、祭壇を囲む輪のようにそこにあった。


「次の三日目は、すでに始まっています」


 ルシアンの拳が固まる。生成りの旅装の袖口で、金鎖がかすかに鳴った。


「対象は」


 セレネが問う。


「……それは、私が選んだのではありません」


「誰だ」


「こちらが、すでに動いています。私が眠っている間に、予告状を出した可能性があります」


 シオンの目が鋭くなる。


「いつ届く」


「分かりません」


 ノアは唇を濡らした。先ほどの甘く崩れた声は戻ってこない。けれど奥に残った揺れが、言葉の末尾をわずかに濁している。


「けれど、王太女宮を通る筈です。白潮紙は、そこからしか出ません」


 王太女宮。


 アリアナがいる場所。表向きの調査と記録確認を任せた場所。ルシアンは高窓の光から目を離し、セレネを見た。セレネはすでに小卓の白潮紙をまとめている。焦りは見えない。だが、紙を重ねる指に無駄がなかった。


 シオンは剣から手を離さないまま、ノアを見ている。恋敵としての色は、今はない。ここに立っているのは、レヴァンティスを知る者であり、アリアナの周囲を知る者であり、候補から外れた男だった。


 ルシアンは祭壇の前で目を閉じた。


 浮かんだのは、白潮紙の透ける端。王太女宮の水辺回廊。三日目という言葉。首のない壁画。セレネの涙を受け止めた夜の、指先の冷たさ。シオンが何も言わず肩を動かした瞬間。そして、ノアの唇から出た、呼ばれたものの声。


 目を開ける。


「今夜のうちに、止める」


 ノアは祭壇の前で立っていた。別の声はもう出てこない。だが、深い藍の上着の内側で、彼の呼吸はまだ乱れている。


「セレネ、王太女宮へ戻る」


「分かりました」


「シオン、ノアの監視」


「ああ」


 短い返答が白石の床へ落ちた。


 ルシアンは小卓の上から白潮紙を一枚取り、光に透かした。薄い紙の繊維は、潮の流れに似た筋を持っている。その端は柔らかく、少し力を込めれば指の中で折れてしまいそうだった。


 だが、紙は残る。名も、記録も、誰かが守れば消えない。


 まだ終わっていない。けれど、止められる。


 この夜のうちに。


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