予告された名
王太女宮へ着く頃には、空の縁が薄く青くなり始めていた。
海から吹く風は湿っている。白石で組まれた宮の壁には夜の名残がまだ青く沈み、水辺回廊の水面は暗い色を抱いたまま細かく揺れていた。灯りを落としきれない窓には橙の火が点々と浮かび、眠っていたはずの宮の奥から、絹の衣擦れと急ぎ足を抑えた靴音がいくつも重なって聞こえてくる。
アリアナ王太女は、回廊の奥で待っていた。
薄い水色の衣に銀の飾り紐を垂らし、紫水晶の瞳をこちらへ向けている。夜明け前に呼び出された王族としての乱れはない。けれど、薄い唇はわずかに固く結ばれ、背後に控える上級官女たちは、互いに目を合わせることもなく王太女の指示を待っていた。
「ノアは」
アリアナの問いは短かった。
「捕えた。けれど、まだ終わっていない」
ルシアンが答えると、アリアナの指が銀の飾り紐をわずかに握った。細い紐が薄布の上で擦れ、乾いた音を立てる。
「まだ、とは」
セレネが一歩前へ出た。黒髪は夜気を含んで重く、淡い青の旅装に掛けた肩布が水辺の風で静かに揺れている。彼女は王太女へ向かい、感情を大きく動かさない声で、必要なことだけを告げた。
ノアが予告状を書いたこと。古い祭祀を人の手で組み立てたこと。首が落ち、名が消え、三日目に忘れられるという筋道を自ら作ったこと。だが、アルヴェリアで起きた記録の消失については、ノア本人に覚えがないこと。彼の中にいるもう一つの声が、本人の知らない場所で動いている可能性が高いこと。そして、次の三日目がすでに始まっていること。
セレネは長く語らない。けれど、白潮紙の束を差し出す指先には、今夜積み重ねたものが残っていた。紙の端は回廊の灯りでも薄く透け、王太女宮の水の匂いを吸ってわずかにしなっている。
アリアナの紫水晶の瞳が、白潮紙の端で一度止まった。
「白潮紙は、王太女宮からしか出ない」
「ノアはそう言った」
ルシアンが答える。
「次の予告状があるなら、ここを通っている可能性が高い」
アリアナは少しの間だけ黙った。王太女としての顔が、そこに戻っていく。揺れていた瞳の奥に、冷えた水晶の硬さが宿った。
「白潮紙の使用記録を、すべて確認します」
彼女は背後の官女たちへ視線を向けた。
「過去三日分。王族、王家の縁者、王太女宮付き上級官女、正式に使用許可を持つ者。使用記録、保管箱、封蝋控え、未使用紙の残数、すべて記録室へ」
官女たちは一斉に動き出した。誰も声を上げない。薄布の裾が白石の床を擦る音、鍵束が手の中で触れ合う音、回廊の奥へ急ぐ足音が、夜明け前の宮を細かく満たしていく。
王太女宮の記録室は、水辺回廊から奥へ入った場所にあった。厚い白石の壁に囲まれた部屋で、外の湿った熱は少しだけ遠のく。代わりに、紙と香油と古い木箱の匂いが濃かった。棚には布で包まれた白潮紙の束が納められ、使用台帳は銀の留め具で閉じられている。机の上には貝殻を磨いた文鎮、細い金属製の紙切り、封蝋を受ける浅い皿が整えられていた。
ここは人が命を落とす場所ではない。
王太女宮の日々の用向きが、規則に従って紙に残される場所だ。誰が何枚の紙を使い、誰が鍵を開け、どの封書がどの箱へ戻されたか。丁寧で退屈な記録が、棚の中に積み重ねられている。
だからこそ、そこに一つでも欠けがあれば目立つ。
ルシアンはそう思いながら、机の脇に立った。セレネは台帳の前に座らず、立ったまま行を追っている。腰を落ち着ける時間すら惜しいというより、紙へ顔を近づけすぎないための距離だった。海色の瞳が、日付、受取人、枚数、用途、保管者の署名へ順に触れる。
アリアナは上級官女の背後に立っていた。
「鍵を持つ者は」
「私と、王太女殿下の筆頭女官、それから保管係長の三名です」
「昨夜、その鍵を開けた者は」
「記録上は、誰も」
筆頭女官の声は落ち着いている。だが、台帳をめくる指は、紙の端に触れるたび一瞬だけ止まった。
白潮紙は、ただの紙ではない。王太女宮の名で出る文書に使われる。公的な封書、王家縁者への私信、正式な婚約者候補への通知。薄くしなやかで、光に透かすと潮の筋のような紙目が見える。その出所を押さえることは、この宮の権威を押さえることでもあった。
その紙が、殺しの予告に使われている。
記録室の壁に並ぶ棚が、ふいに別のものに見えた。人の名を守るための棚であり、名を隠すためにも使える棚。紙はただそこにあるだけだが、誰が何を書くかで、人の居場所を作りも消しもする。
最初の台帳に、不審な記載はなかった。
二冊目には、王太女宮付きの上級官女が式典準備のために白潮紙を五枚使用した記録がある。用途欄には招待文の草稿とあり、残数の照合も合っていた。三冊目には王族用の封書が二通。どちらもアリアナの署名があり、封蝋控えも正しい。
時間だけが進む。
夜明け前の青が窓の外で少しずつ明るくなり、記録室の灯りの橙が弱くなっていく。官女が運んできた保管箱は一つずつ開かれ、封蝋の控えが並べられた。蝋の匂い、紙をめくる音、誰かが息を整える微かな音。どれも小さいのに、ルシアンの耳には妙に近かった。
四冊目の台帳に移った時、セレネの指が止まった。
大きな反応ではない。白潮紙の端を押さえる指が、ほんの少し沈んだだけだった。
「殿下」
その声だけで、ルシアンは彼女の隣へ寄った。
台帳の一行。日付は昨夜。白潮紙、一枚。封書用。受取人欄にはノア・レヴァンティスの名がある。用途欄には、薄く擦った跡の上に別の文字が乗っていた。私信、と読める。だが、末尾の払いが途中で切れ、下の紙目に沿ってインクが少し滲んでいた。
「この日付、ノアは北方の別邸にいたはずです」
セレネは短く言った。
アリアナが筆頭女官を見る。
「この紙を渡した者は」
筆頭女官は台帳を覗き込み、すぐに隣の保管係へ目を向けた。保管係の女官は青ざめていたが、逃げるような目ではなかった。むしろ、自分の中の記憶と台帳を必死に照合している顔だった。
「私は、その日、ノア様へ直接お渡ししておりません」
彼女は震える息を整えてから続けた。
「ただ、夜の回収箱に封書が一通入っておりました。王家縁者の印があり、白潮紙の使用記録も添えられていたため、通常の処理へ回したはずです」
「誰が回収箱へ入れたかは」
「確認しておりません。回収箱は、内廷許可のある者だけが使える場所にございます」
ルシアンはその言葉を聞きながら、台帳の擦れた一行を見た。
内廷許可のある者だけ。王太女宮の奥。鍵があり、記録があり、官女の目がある。それでも、紙はそこに入っていた。
ノアの言葉が蘇る。
私が知らない間に、こちらが動いた可能性があります。
「封は残っているか」
ルシアンが問うと、保管係は小さく頷き、奥の棚から白木の箱を運んできた。箱には銀の金具があり、側面に保管日が刻まれている。アリアナが自ら鍵を差し込んだ。金具が外れ、蓋が開く。
中には、封蝋控えのために保存された封書が一通あった。
白潮紙の封筒。端は整っている。封蝋はノアのものだった。だが、蝋の縁だけがわずかに歪んでいる。印章の中心は合っているのに、外側だけが熱で撫でられたように甘く崩れていた。
セレネが封書へ手を伸ばす。
ルシアンは彼女の指先を見た。白潮紙へ触れる時、彼女は力を入れすぎない。紙を傷つけず、けれど逃がさない指の置き方をする。今、その指が封蝋の縁でわずかに止まった。
「開けます」
アリアナが頷く。
紙切りが封の下へ差し込まれた。白潮紙の裂ける音は小さい。けれど、記録室にいた全員の手がそこで止まった。誰も口を開かない。紙の中から出てくるものが、ただの名前でしかないと分かっているのに、その名前が誰かの命へ繋がっていることを、もう誰も否定できなかった。
セレネが中の紙を開いた。
白い紙面に、黒いインクで名が書かれている。
その瞬間、セレネの指が止まった。
「……シオン・アステリオス」
名は、そこにあった。
ルシアンの拳が固くなる。胸元の金鎖が旅装の布へ触れ、細い音を立てた。視界の端で、アリアナの紫水晶の瞳が揺れる。彼女は名を見つめたまま、すぐには何も言わなかった。
アリアナが、紙から目を離さずに言う。
「シオンは、かつて私の婚約者候補に名を連ねていました。ですが、彼は退いたのではありません。自分で選び直したのです」
「別人格にとって、その区別は意味がないかもしれない」
ルシアンが言うと、セレネは予告状の文字を見たまま、静かに言った。
「むしろ、別人格は、自分が王位を継ぐために必要な生贄であれば、婚約者候補を外れていようと関係ない可能性があります」
「生贄、か」
「はい」
セレネの指が、シオンの名の横で止まる。
「シオンはレヴァンティスに長くいました。王太女殿下の婚約者候補にも名を連ねていた。けれど、本来はアルヴェリアの公爵令息です」
ルシアンは紙面の名を見た。
シオン・アステリオス。
アルヴェリアの五大公爵家に連なる男であり、レヴァンティスの宮廷にいた男。二つの国の間に立つ者。
「二つの国を一つにする王、か」
ルシアンが低く言うと、セレネは頷いた。
「ノア本人、あるいは中にいるもう一人がその言葉に囚われているなら、シオンは都合が良すぎます。レヴァンティスに関わりを持ちながら、アルヴェリアの名を持つ人間ですから」
アリアナの紫水晶の瞳が、紙の上で細く揺れた。
「シオンを殺すことで、二つの国にまたがる名を捧げるつもりだと?」
「可能性です」
セレネの声は変わらない。
「ただの候補者ではなく、二つの国を結び得る名前。その名前を消すことに意味を見出しているのかもしれません」
その瞬間、ルシアンの中で、紙面の名と北方の別邸が一本の線で繋がった。
シオンは今、ノアのそばにいる。
ノア本人は拘束している。祭壇へ近づけるなとも命じた。だが、あの声はノアの口から出る。あの手はノアの身体を使う。紙を消し、記憶を剥がすものが、刃を持たないとは限らない。
ルシアンは短く舌打ちした。
「まずい」
セレネが顔を上げる。
「殿下」
「シオンは、犯人と同じ部屋にいる」
言葉にした瞬間、記録室の白い壁がやけに遠く感じた。北方の別邸。祭壇。首のない壁画。そこに残したシオンの横顔が、はっきりと脳裏に浮かぶ。
「見張りを任せた相手が、次の対象だ」
アリアナの紫水晶の瞳が大きく揺れた。
「すぐ戻る」
ルシアンは言った。
アリアナが顔を上げる。
「私も参ります」
「王太女宮の護衛を連れてくれ。少数でいい。馬車を最速で出す」
ルシアンは予告状を持つセレネへ視線を向けた。
「セレネ、その紙は離すな。シオンの名が書かれている」
「分かりました」
セレネは白潮紙の端を折らないよう、両手で静かに持ち直した。薄い紙の上には、シオン・アステリオスの名がまだ残っている。消される前に見つけた、今はそれだけが確かな証拠だった。
ルシアンは踵を返した。
間に合え。
その言葉だけは、声にしなかった。




