最後の名前
別邸へ向かう馬車は、来た時よりも速く走った。
王太女宮の白壁が後ろへ遠ざかり、水路の匂いが森の湿った葉に変わっていく。車輪が石の継ぎ目を越えるたび、セレネの膝の上に置かれた予告状が小さく揺れた。彼女は両手で紙を押さえている。海色の瞳は窓の外ではなく、その紙の上にあった。
アリアナは向かいの席で、唇を固く閉じていた。紫水晶の瞳に怒りは見える。けれど、その怒りは声にならず、指先で銀の飾り紐を押さえる形で残っている。
「シオンの命を救うために、急いでください」
アリアナの声は低かった。
「必ず戻ります」
ルシアンは短く答えた。
馬車の外では、熱帯の葉が薄青い光を含み始めている。夜の終わりが近い。だが、三日目の終わりがどこにあるのかは分からない。ノアの言葉では、すでに二日目へ入っている可能性がある。首が落ちるのか、名が消えるのか、記憶が先に剥がれるのか。順序すら、もう人の手の通りではないかもしれない。
ルシアンは窓枠に置いた指に力を込めた。
名前は、紙だけにあるものではない。
誰がその名を呼ぶか。誰が覚えているか。誰が消されかけた時に、そこにいたと言い張るか。そのすべてを、守らなければならない。
シオンは軽い男だ。軽い言葉で入り込み、笑って距離を詰め、時に人の内側へ不用意なほど近づく。ルシアンは何度も苛立った。セレネに触れるその手に、声に、昔から当然のように共有してきた時間に。
だが、あの夜の水辺回廊で、シオンは自分の恋を自分で終わらせた。
セレネの答えを受け取り、最後の抱擁だけを許され、そこから自分の足で離れた。誰かに奪われたのではない。選び直したのだ。
こっちのノアは、それを諦めと呼ぶのだろう。
ルシアンは奥歯を噛んだ。
ならば、あの男自身に否定させるしかない。
別邸の門が見えた時、空は薄い藍から青へ変わり始めていた。庭の白石には夜露が残り、祭祀の建物へ続く道は湿った光を返している。馬車が止まるより早く、ルシアンは扉へ手をかけた。
護衛が制止しかけたが、アリアナが目で止める。
祭祀の建物の扉は閉じていなかった。
中へ入ると、蝋燭はまだ燃えていた。短くなった芯の火が、祭壇の上で小さく揺れている。首のない胴体の壁画には、夜明けの光が高窓から落ち、胸のあたりだけを白く照らしていた。顔のない人型の列が、白い光の下で古い顔料のひびを露わにしている。
シオンは祭壇の脇に立っていた。
彼は約束どおりノアから離れていない。腰の剣に片手を添え、もう片方の手には記録用の紙片を持っている。赤銅色の髪には夜明けの青がかかり、翠の瞳はわずかに細められていた。
ノアは祭壇の前で座り込んでいた。深い藍の上着の前を少し緩め、背を石に預けている。顔色は悪い。けれど、さきほどの粘ついた笑みはない。浅い湖の底のような瞳だけが、こちらを見上げた。
シオンの足元には、数枚の紙片が置かれていた。そこには時刻と短い言葉が書かれているらしい。声が変わった時刻と言葉を残せ。ルシアンの指示を、シオンはそのまま守っていた。
「戻ったか」
シオンが言った。
ルシアンは彼の顔を見た。冗談の一つでも言いそうな口元は、今は静かに閉じている。
「何か変化は」
「何度か笑った。声は変わりかけたけど、完全には出てきてない。祭壇には近づけてないよ」
シオンは紙片を軽く持ち上げる。
「言葉も残してある」
「助かる」
「それで」
シオンの視線が、セレネの手元へ移った。
「見つかったんだろ」
セレネは答えず、予告状を差し出した。
「確認してください」
シオンは紙を受け取った。
すぐには開かなかった。白潮紙の端に親指を置き、紙の薄さを確かめるように一度だけ撫でる。封はすでに切られている。彼はゆっくりと開き、そこに書かれた名を見た。
シオン・アステリオス。
指が止まる。
祭壇の蝋燭が短く揺れ、高窓から落ちる光が白潮紙の端を淡く透かした。シオンは紙を見たまま、すぐに顔を上げない。唇の端に笑みはない。ただ、予想していたものを目の前に置かれた男の静けさがあった。
「……俺か」
軽い声ではなかった。驚きでもない。遠くで鳴っていた鐘の音を、ようやく自分の耳で確かめたような響きだった。
シオンは一度だけ、ノアへ視線を移した。
「やっぱり、俺だったんだな」
「分かっていたのか」
ルシアンが問うと、シオンは白潮紙を畳まず、名前を見たまま答えた。
「いや。候補から外れた者の中で、生きてるのは俺一人だから、そういう順番なんだろうと、薄く思ってた」
アリアナの指が、衣の薄布を握った。彼女は何か言いかけて、すぐに口を閉じる。シオンはそれを見て、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「そんな顔しないでください、王太女殿下。俺がここにいるのは、俺が選んだ結果ですよ」
その言葉は軽く聞こえた。だが、軽さの裏に置かれたものを、ルシアンは見た気がした。見えたと断定するつもりはない。ただ、今のシオンは逃げていない。
ノアの肩が、そこで大きく揺れた。
座り込んでいた身体が、祭壇の縁へ手を伸ばす。指先が石に触れ、爪が古い文字の溝を引っかいた。ノアの顔が少しずつ上がる。目の奥に濁った影が広がり、唇の端がゆっくり持ち上がった。
「気づいちゃったねぇー、ルシアン殿下」
甘く伸びた声が、祭祀の建物の壁を撫でる。
アリアナの護衛が一歩前へ出ようとしたが、ルシアンは片手で制した。剣を抜かせるには早い。ここで刃の音を立てれば、ノア本人まで遠ざかる。
「でも、もぉ遅いんだよぉー」
ノアの顔をしたものは、シオンへ視線を向けた。唇だけが笑っているのに、瞳の奥は濁った水のように動かない。
「シオン公爵令息、三日目はもう、二日目に入ってるの。ねぇ、早いよねぇ。名前って、気づいた時にはもう半分くらい剥がれてるんだよぉ」
シオンの翠の瞳が細くなる。
「君、なかなか面白いね」
いつもの軽口に似ている。だが、音の置き方が違う。相手をからかうためではなく、自分の足場を確かめるための声だった。
「面白い?」
別人格の声が、少しだけ跳ねる。
「ねえ、シオン公爵令息は、もう諦めたんでしょ? ご令嬢を」
セレネの指が、予告状の端で止まった。
ルシアンの胸の奥が、硬くきしむ。白石の水辺回廊。シオンの告白。セレネの答え。最後の抱擁。柱の陰に立った自分。セレネが二粒だけ涙を流した夜。そこへ、この声が湿った指を差し込んでくる。
「諦めた者には、何も残らないんだよぉ」
ノアの顔をしたものは、楽しげに続けた。
「首も、名前も、覚えていてくれる人も、ぜんぶ、ぐずぐず溶けて、なくなるの。振られて、退いて、笑って、何もなかったみたいな顔をして、でも中身はからっぽ。ねぇ、シオン公爵令息。からっぽなら、消しても困らないよねぇ」
シオンは笑わなかった。
予告状をセレネへ返し、両手を空ける。剣を抜くためではない。自分の手を、相手へ見せるためのような動きだった。
「俺は、まだ何も諦めてないよ」
声は軽かった。
だが、いつものシオンの軽さとは違う。飾りの下へ逃げるための音ではなく、落とされた名前を自分の手で拾い上げる声だった。
「セレネ嬢のことは、振られた。それは認める」
セレネは動かなかった。海色の瞳だけが、シオンを見ている。ルシアンはその横顔を見たが、そこに何かを読み取りすぎないよう視線を戻した。
「けど、俺の人生はそこで終わってない」
シオンはノアの顔をしたものを見た。
「君の言う諦めた者が、俺の中にはいない」
その瞬間、ノアの唇が止まった。
短い沈黙だった。けれど、これまで舌に絡みついていた甘い粘りが、そこでふつりと切れた。ノアの顔をしたものは、シオンを見たまま、ゆっくり瞬きをする。
「……へぇ」
低く、乾いた声だった。
さっきまで語尾にまとわりついていた湿りが、そこだけ抜け落ちている。けれど、消えたわけではない。むしろ薄く削がれた分、奥に残ったものが石の下から覗いた。
「まだ、残ってるんだぁ」
ノアの唇が、笑いの形に戻りきらないまま歪む。
「じゃあ、そこから消さなきゃねぇ」
祭壇の蝋燭が短く揺れた。ルシアンは剣の柄へ指を近づけたが、抜かなかった。シオンの言葉が届いている。届いたからこそ、こっちのノアは笑えなくなった。ここで刃を立てれば、ノア本人の声を塞ぐことになる。
シオンも動かない。
彼はただ、ノアを見ていた。
「消せるものなら、やってみなよ」
声は静かだった。
「俺の名前は、俺だけのものじゃない」
その言葉に、ノアの肩が大きく揺れた。祭壇に置いた手が滑り、爪が石を引っかく。深い藍の上着の胸元が荒く上下し、目の奥の濁りが揺れた。別人格の笑みが残ったまま、別の声が喉の奥から押し上がってくる。
「……シオン公爵令息」
かすれた声だった。
ノア本人の声だ。
「ノア」
シオンが名を呼ぶ。
その名が石の壁にぶつかり、祭壇の上へ落ちた。ノアの瞳が、わずかに焦点を取り戻す。唇が震え、言葉が一つずつ落ちた。
「……止めて、ください」
祭壇の蝋燭が短く揺れた。
「私の中の、もう一人を」
シオンはすぐには答えなかった。
彼はノアを見ていた。つい先ほどまで、自分の名前を剥がそうとしていた口。諦めた者には何も残らないと笑った声。その同じ唇が、今は乾いた息をこぼしながら助けを求めている。
シオンの指が、腰の剣からゆっくり離れた。
「……分かった」
短い返事だった。
ノアの肩から力が抜ける。だが、安堵には見えなかった。石壁に背を預けた身体はまだ細かく震えていて、深い藍の上着の胸元だけが荒く上下している。彼は祭壇へ視線を落とした。そこには三つの線、首のない人型、削られた文字、空欄の輪が刻まれている。ノアの指が、その上を撫でようとして止まった。
「……あなたたちに、止めてほしいのです」
「私には、もう止められない」
掠れた声だった。
「声が変わる時があります。私が見ているのに、私の手が違う文字を書くこともある。紙を見つければ名を書く。火を見れば祭壇へ向かう。あれは、私の中から出てくるのに、私の命令を聞かない」
ノアはそこで一度、唇を閉じた。
高窓から落ちる光が、祭壇の端へ移っている。蝋燭の橙は夜明けの白に少しずつ押され、それでも芯の先で細く残っていた。
「ですが、万能ではありません」
その言葉に、ルシアンは目を細めた。
ノアは自分の両手を見下ろした。拘束されていない指が、まだわずかに震えている。
「あれは、私の身体を使います。私の手で書き、私の足で歩き、私の声で話す。紙がなければ名を書けない。火がなければ祭壇を起こせない。扉を開けるには手が要る。誰かを殺すにも、この身体が動かなければならない」
アリアナの紫水晶の瞳が細くなる。
「つまり、身体を封じれば動きは止まると?」
「完全には、分かりません」
ノアは首を横に振った。
「けれど、少なくとも遅らせることはできます。紙も、火も、刃も、祭壇も、名前を書けるものも遠ざける。私の手を使わせない。私の足を、この場所から離す。それしか、今は思いつきません」
ルシアンはノアの手を見た。
その手は、首を落とす手順を組み立てた手だ。記録をずらし、白潮紙へ名を書き、祭壇の線を撫でてきた手だ。だが同時に、今は震えながら自分自身を止める方法を差し出している。
許されるわけではない。
それでも、今この場で次の名を守るには、この男の言葉を使うしかない。
「王太女宮の地下監房へ」
ノアは言った。
「石の壁が厚く、紙を持ち込めず、火を使わない場所へ。できれば、水路から遠い部屋を。あれは、湿った紙と火と名前に寄ります。祭壇に近づけないでください。白潮紙にも、記録台帳にも、触れさせないでください」
アリアナが一歩前へ出た。
「地下監房には、火を使わない部屋があります。灯りは外側から入れる構造です。紙も刃も持ち込ませません」
ノアは小さく頷いた。
「それでも、逃げないとは言えません」
彼の声が、少しだけ低くなった。
「私ではなく、あれが隙を探します。人の記憶の隙、記録の空白、鍵を持つ者の油断。怪異のように見えても、通る場所は必ずある。だから、私を人として扱わないでください」
アリアナの指が止まった。
ノアは、王太女へ向かって静かに目を伏せる。
「罪人として扱ってください。王家の縁戚としてではなく、名前を消した者として」
アリアナの指が、銀の飾り紐を一度だけ握り込んだ。
「……分かりました。王家の縁戚としてではなく、罪人として扱います」
「ありがとうございます、王太女殿下」
「礼を言われることではありません」
アリアナの声は硬い。
「あなたの罪は、消えません」
「はい」
ノアは静かに頷いた。
「消しては、いけません」
その言葉に、ルシアンはノアを見た。
消してはいけない。自分で名前を消し、記録を消し、死者の場所を奪った男が、最後にその言葉を口にする。許しではない。償いにもまだ遠い。ただ、ノア本人がそこに残っている証だけが、短い灯のように揺れていた。
護衛たちが近づき、ノアの手首へ拘束具をかける。重い鎧ではない。白い布と金具を組み合わせた、王太女宮の内廷で使う拘束具だった。布が肌に触れる音が、妙に近く聞こえる。
ノアは立ち上がる時、少しふらついた。シオンが一歩動きかけたが、護衛が支える。ノアはそれを受け、祭壇の前へ向き直った。
最後に一礼した。
深い藍の上着が揺れ、額がわずかに下がる。首のない胴体の壁画、高窓から落ちる白い光、溶けかけた蝋燭。そのすべてへ向けるような礼だった。
「人が作った怪異が、本物を呼ぶ」
ノアは静かに言った。
「私は、それを見誤りました」
ルシアンはその言葉を聞き、祭壇の下へ視線を落とした。白い骨が本当にあるのか、それともノアの口が作った像なのか、今は分からない。だが、人が作った怪異は、人の手を離れて人を殺しかけた。少なくとも、それだけはここに残っている。
アリアナが短く命じる。
「扉を閉じてください。封鎖します」
護衛が蝋燭へ近づいた。小さな火が、銀の火消しに覆われる。橙が一度だけ揺れ、黒い芯から細い煙が上がった。香の匂いと蝋の匂いが混ざり、湿った石の上をゆっくり流れる。
祭祀の建物の扉が閉じられた。
白石の扉が重く合わさる音は、夜明けの庭に低く沈んだ。
王太女宮へ戻る頃、空は完全に明るみ始めていた。
レヴァンティスの白壁は薄い青に染まり、水路の水面には朝の光が細かく散っている。潮気を含んだ風が、宮の門前を通り抜けた。夜の間に熱を含んだ石はまだ冷えず、足元から湿ったぬくもりが上がってくる。
アリアナはノアの移送に立ち会っていた。紫水晶の瞳に眠気はない。深い藍の上着を着た男は、護衛に挟まれて宮の奥へ連れていかれる。途中で振り返ることはなかった。
ルシアンは門前に立ち、その姿が白壁の陰へ消えるまで見ていた。
セレネは隣にいる。淡い青の肩布が風に揺れ、黒髪の先が白い頬へ触れていた。彼女はノアの方ではなく、王太女宮の水面を見ている。表情はいつもと大きく変わらない。けれど、白潮紙を持っていた指先には、まだわずかな紙の跡が残っていた。
シオンは一歩離れた場所で、夜明けの空を見ていた。赤銅色の髪が青白い光を受け、翠の瞳はどこか遠くへ向けられている。首はある。名もある。誰も彼を忘れていない。
ルシアンはその横顔を見てから、前を向いた。
「アルヴェリアへ戻る」
「はい」
セレネが答える。
シオンが振り返った。
「俺は、もう少しここに残る。アリアナ王太女の片付けを手伝う」
ルシアンは横目でシオンを見た。
「お前が?」
「何、その顔」
「別に」
「信用ないなぁ」
シオンは薄く笑った。いつもの調子に少し近い。だが、完全には戻っていない。戻らなくてもいいのだろうと、ルシアンは思った。戻る必要のないものもある。
シオンは王太女宮の門へ視線を移した。
「俺はもう候補じゃない。でも、まだ生きてる。三日以内に死なない保証だって、今のところない」
シオンは肩を竦めた。
「なら、もう一人のノアに見せてやらないとね。俺はまだ、自分の人生を諦めてないって」
ルシアンは答えなかった。
だが、その言葉を否定もしなかった。
アリアナが少し離れた場所でこちらを見ている。王太女としての顔をしていたが、シオンへ向けた視線だけは、ほんのわずかに柔らかかった。セレネはその横で、静かに目を伏せる。何かを言うことはない。ただ、風で揺れた肩布を押さえる指が、少しだけ緩んでいた。
夜明けの光が、三人の影を白石の上へ長く伸ばしていく。
消されたはずの名も、消されずに残った名も、まだこの宮のどこかに薄く重なっている。白潮紙の端を押さえた指の感触や、首のない壁画の下で聞いた声は、朝の光を浴びてもすぐには遠ざからなかった。
終わったものはある。
消えずに残った名もある。
そして、ルシアンの隣には、黒髪の婚約者が立っている。感情を大きく見せない彼女は、朝の光の中で静かに白石の庭を見ていた。だが、ルシアンはもう、その静けさの奥にあるわずかな揺れを知っている。誰かの名を守るために紙を押さえた指の強さも、言葉にならないものを飲み込む沈黙も。
風が白潮紙の匂いを連れてきた気がした。
ルシアンは目を細め、青くなり始めた空を見上げた。




