夏の終わり
アルヴェリアへ戻ってから、一週間ほどが過ぎていた。
王族特務隊の執務室には、紙と革の匂いが満ちている。窓から差し込む光は、レヴァンティスで浴びた白い熱とは違っていた。あの国の光は海の湿りを含み、薄布や白石の表面で濡れたように跳ねた。王太女宮の水路、潮気を帯びた回廊、日除けの布を揺らす重い風は、帰路の五日と王城での報告を挟むうちに、少しずつ肌から抜けていった。
アルヴェリアの王城には、夏の終わりの乾いた光が落ちている。
庭園の緑はまだ濃い。だが、昼の影は少しずつ長くなり、白石の回廊へ射す光の角度も、出立前とは変わっていた。机に広げられた報告書の端を、窓から入る風がかすかに揺らす。潮の匂いはない。代わりに、乾いた石と紙、革張りの記録帳、磨かれた木の机の匂いがある。
レヴァンティスを発った翌朝から、アルヴェリアの港へ着くまでに五日を要した。甲板には潮気が満ち、夜明けの海は青と灰を混ぜた色をしていた。セレネの肩布が風に揺れ、彼女は海を眺めながら、波の色が変わるたびに深い海色の瞳だけをわずかに動かしていた。港の白石が乾いているのを見た時、ルシアンはようやく帰ってきたのだと思った。
執務室には、事後処理の書類がまだ残っている。クライヴは窓際で革張りの記録帳に筆を走らせ、セレネは白潮紙に関する控えを揃えていた。二人とも必要な言葉だけを落とし、それ以外は静かに手を動かしている。
机に積まれた紙の上には、まだレヴァンティスの影が残っていた。白潮紙、消えた名前、ノアの筆跡、首のない壁画。どれも今はアルヴェリアの乾いた光の下にあるのに、ふとした瞬間、湿った石の匂いが喉の奥へ戻ってくる。
その時、扉が叩かれた。
「入れ」
若い隊員が一礼し、銀盆に載せた封書を運んできた。
「レヴァンティスからの便です。公的な報告書の束に、こちらが添えられておりました。差出は、シオン・アステリオス様です」
クライヴの筆が止まる。セレネも、文鎮へ置いていた指を少しだけ止めた。
ルシアンは封書を受け取った。
封蝋はアステリオス家のものだった。だが、表書きの筆跡には見慣れた軽さがある。整えようとしているのに、どこかで線が崩れる。真面目に書き始め、最後には肩の力が抜けてしまったような字だ。
シオンの字だった。
ルシアンは紙切りを取り、封を開けた。蝋が割れる音は小さい。白潮紙ではなく、アステリオス家で使う上質な紙だ。けれど指先に、薄く透ける紙の感触が一瞬だけ蘇り、彼は無意識に力を緩めた。
手紙は、思ったより短かった。
『首はついてる。名前も残ってる。アリアナ王太女も、宮の人たちも、ちゃんと俺を覚えてる』
冒頭の数行は、わざと軽く書かれていた。その軽さが、かえって予告状に記された名の黒さを思い出させた。ルシアンは紙の端を押さえ、続きを追う。
『ノア・レヴァンティスは、王太女宮の地下監房から出ていない』
続く文面には、地下監房の様子が簡潔に記されていた。ノアは石壁の厚い部屋に収容され、紙も火も与えられていない。灯りは廊下側から入り、室内には記録を書けるものも、刃も、封蝋も、白潮紙もない。別人格は、時折表へ出るらしい。声が変わり、爪で壁に文字を書こうとする。だが、紙も火も奪われた場所で、あれは動けずにいる。
『消えたわけではない』
その一文だけ、シオンの筆跡が少し硬かった。
アリアナは約束通り、ノアを王家の縁戚としてではなく、罪人として扱っている。祭祀の建物は封鎖されたまま。蝋燭は消え、首のない壁画の下に火は戻っていない。
ルシアンは手紙の端を押さえた。
人が作った怪異が、本物を呼ぶ。
ノアが最後に告げた言葉は、勝利でも敗北でもなく、封じ込められたまま残った事実として、手紙の行間に沈んでいた。ノアの中に現れたものは、今もレヴァンティスの石壁の奥で息を潜めている。けれど、少なくとも今は誰の名も消していない。紙も火も名前を書く道具も奪われた場所で、あれは閉じ込められている。
シオンは、そろそろアルヴェリアへ戻るとも書いていた。アリアナの周囲の処理が一段落し、候補者たちの記録の修復も進んでいる。消された名を一つずつ戻す作業は、まだ終わっていないらしい。けれど、消えたまま蓋をするつもりはないのだと、シオンの字は伝えていた。
最後の数行だけ、筆跡が少し軽くなる。
『セレネには振られたよ。それはもう、受け入れてる。──でも、人生まで諦めた覚えはないからね。戻ったら、また顔を見せる』
最後の数行を読み終えても、ルシアンはすぐに手紙を閉じなかった。
軽く崩した筆跡の奥に、祭祀の建物で聞いたシオンの声が重なる。ノアの顔をしたものへ向けて、あの男は確かに言った。まだ何も諦めていない、と。ふざけた調子で書かれた文面の下に、その時の声だけが薄く残っている。
「シオン公爵令息は」
クライヴが、必要なことだけを問う声で言った。
「無事だ。ノアも、牢からは出ていない」
「承知しました。記録に残します」
クライヴはそれ以上、シオンの私的な文面には触れなかった。
セレネも、何も言わない。
彼女は文鎮で押さえていた頁を整え、白潮紙の封蝋控えを別の束へ移している。シオンの名が出た時、海色の瞳は一度だけ手紙の方へ向いたが、すぐに紙面へ戻った。表情は大きく変わらない。だが、紙を重ねる指が一つだけ遅れる。
ルシアンはその遅れを追わず、机の端に置いた手紙へ視線を落とした。封蝋の割れ目のそばには、シオンの軽く崩した字の余韻がまだ残っている。窓から入る風が紙の端をわずかに持ち上げ、乾いた光が白い机の上を薄く滑っていった。
王城の庭には、夏の終わりの光が落ちている。白石の縁は淡く明るく、けれど影は以前より長い。暖色の屋根の向こうで、薄い雲がゆっくり流れていた。レヴァンティスの海風も、王太女宮の水路も、湿った熱も、もうここにはない。
背後で、クライヴが記録帳に筆を走らせる音がした。セレネが資料の角を揃え、文鎮を置き直す。隊員が廊下を通る靴音も、遠くで誰かが扉を閉める音も、王城の日常へ戻っていくための音に聞こえた。
消されたはずの名も、消されずに残った名も、紙の上にまだ薄く重なっている。白潮紙の端を押さえた指の感触や、首のない壁画の下で聞いた声は、乾いた光の中でもすぐには遠ざからない。終わったものと、閉じ込められただけのものが、同じ紙束の上に残っている。そのどちらも、なかったことにはできなかった。
ルシアンは、机の端に置いたシオンの手紙へもう一度視線を落とした。
手紙は記録の束とは別に置いた。捨てるものではなく、保管するものとして。
窓から入る風が、机の上の紙をわずかに揺らす。セレネの指が自然に伸び、飛びかけた頁を文鎮の下へ戻した。クライヴの筆は止まらない。
ルシアンは、乾いた白石の光を見た。
白潮紙の端、首のない壁画、夜明けの王太女宮、そして誰にも渡さず胸に沈めたままの涙。あの夏の出来事は、今も胸の奥に沈んでいる。だが、窓の外の影は少しずつ長くなり、乾いた光が机の端まで届いていた。
夏が、終わった。
長くなった3章もこれで終わりです!
次回はセレネ視点でラブラブ会です!!




