幕間 紺碧の答え
今回の幕間はセレネ視点です。
アルヴェリアへ戻ってから数日、私の部屋には、いつもの午後が戻っていた。
王城の窓から入る光は、レヴァンティスの宮殿で見た陽射しよりも白い。海に反射して揺れる光ではなく、石壁に受け止められて、床の上へ薄く伸びていく光だった。机の上には読みかけの書物があり、硝子の水差しの底には、侍女が入れた檸檬の輪切りが沈んでいる。乾いた草の匂いを含んだリネン、磨かれた木の床、廊下の向こうを通る靴音。どれも、私がよく知っているアルヴェリアの午後だった。
それでも、頁をめくる指が時々止まる。
文字を追っていたはずなのに、ふと水辺の柱廊を思い出した。夜の石柱、遠くで揺れていた灯火、潮を含んだ風。シオンが笑っていた顔。いつものように軽く見せようとして、最後だけ、笑う前にほんの少し黙った人。
『俺は君が好きだった』
あの言葉を思い出すたび、私は水辺の柱廊に立っていた時の自分まで一緒に思い出した。責められたわけではない。引き止められたわけでもない。だからこそ、答えを間違えてはいけないと思った。
あの時の自分の声も、私は覚えている。
『私は、殿下を選びました』
そう口にした瞬間、胸の奥で、ふつふつと蓋が開きかかっていたものが、はっきり音もなく開いた。
何も知らなかったわけではない。
ルシアンに他の女性が近づくたび、胸の奥が苦しくなった。彼が誰かに微笑みかけるのを見ると、その視線が私へ向けばいいのにと思った。感情に乏しいと、自分でも思っていた。けれど本当に何もないのなら、あんなふうに苦しくなるはずがなかった。
私は、ずっとルシアンに見てほしかった。
リリアーナ様やミレイユ様に相談したこともある。どうすれば婚約者としてだけではなく、一人の女性として見てもらえるのか。どんな夜着なら不自然ではないのか。どこまで近づけば、彼は私を避けずにいてくれるのか。
ルシアンは、私を見ていた。
触れる前に確かめ、近づく前に待ち、私が頷くまで決して踏み込まない人だった。唇が触れた夜も、同じ寝台で朝を迎えた時も、私が思っていたよりずっと、彼は私を女性として扱っていた。
そして私も、分かっているつもりだった。
もっと口づけてほしいと思ったことがある。彼の手が離れる時、少しだけ物足りないと思った夜もある。この先へ進んでもいいと、言葉にしないまま考えていたこともある。けれど、それが何から生まれているのかまでは、分かっていなかった。
婚約者だから。彼が優しいから。彼の隣が落ち着くから。
そういう言葉で、私は自分の中にあるものを、分かったことにしていた。
シオンに告げた一言で、ようやく自覚してしまった。
私は、ルシアンを愛しているのだと。
数日後の午後、アリアナ王太女からの個人的な贈り物が王城へ届けられた。
箱は大きくない。淡い砂色の紙で包まれ、細い銀の紐がかけられている。結び目には青い封蝋が添えられ、王太女宮の印が残っていた。私は封蝋を崩さないように紐をほどき、紙を一枚ずつめくる。レヴァンティスの紙は、指に乾いた繊維を残した。
最後の薄紙を開いた時、紺碧の布が午後の光を受けた。
深い海の色だった。
上下に分かれた布は、アルヴェリアの衣装にはない形をしている。銀鎖が細く渡され、小さな青い宝石が銀糸で繋がれていた。華やかなのに、騒がしくはない。肌の上で光が揺れた時、いちばん綺麗に見えるよう作られているのだと分かる。
箱の底には、紫水晶色の文字で添え書きがあった。
『セレネ嬢へ。レヴァンティスの夏の習わしを、いつかご一緒できる日のために。あなたは、私の友です』
あなたは、私の友です。
その一文を、私はしばらく見ていた。王太女としてではなく、事件の夜を共に越えた一人の女性として、アリアナはこれを贈ってくれたのだと思った。国も身分も、簡単には越えられない。けれど、その文字は細い橋のように、私の手元まで届いていた。
指先で布の端に触れる。
以前、シオンが王城へ持ち込んだ水辺の装いを思い出した。あの時、ルシアンは怒っていた。顔を赤くし、言葉を荒くし、けれど私を責めたのではなかった。今なら、少しだけ分かる。あの時の水着は、私自身が選んだものではなかった。
けれど、今ここにある紺碧は違う。
アリアナが、友として贈ってくれたものだ。いつか一緒に夏を過ごすために。
それでも、アルヴェリアでは着られない。貴族令嬢が外で身体の線を見せる装いを身につけることはない。海辺で肌を出す習わしも、この国にはない。侯爵令嬢として考えれば、箱に戻しておくのが正しい。
そう考えた時、私は少しだけ安堵した。
着られない理由がある。
そう思えば、箱に戻すことができる気がしたからだ。
けれど、指は動かなかった。
紺碧の布を見ているうちに、前の人生の試着室を思い出した。白い灯り。狭い鏡。身体に当てただけで、すぐに外してしまった水着。誰かに見られる前に、自分で自分を見ることができなかった。
前の人生でも、着られなかった。
今の人生でも、人前では着られない。
また同じように、理由をつけて箱へ戻そうとしているのだと気づいた。
ルシアンなら、どんな顔をするだろう。
そう考えた瞬間、胸の奥に小さな熱が落ちた。怒るだろうか。呆れるだろうか。また眉を寄せて、何か言うかもしれない。けれど、あの空の青と夕日の金を混ぜた瞳で、最初に私を見るのだと思った。
綺麗だと、思ってくれるだろうか。
その問いが生まれた時、私は、自分がこの水辺の装いを箱の奥へ戻せないことを知った。
好きな人に、見てもらいたい。
それは思っていたより柔らかく、そして、私の中で一度形を持つと消えなかった。触れてほしいというより先に、見つけてほしかった。前の人生で鏡から目を逸らした自分を、今の私がもう一度鏡の前に立たせること。誰のためでもなく、けれど一人だけに見てほしいと思うこと。
ルシアンの前でなら、きっと立てる。
夜、侍女を下がらせてから、私は私室の鏡の前に立った。
薄絹の上着を肩にかけ、その下に紺碧の水着を身につける。布は思ったより冷たかった。銀鎖が鎖骨の下に触れ、青い宝石が灯火を受けて小さく光る。黒髪を下ろすと、白い肌と紺碧の境が、鏡の中で静かに際立った。
私は、鏡の中の自分を見た。
前の人生の試着室では、できなかったことだった。自分には似合わないと思っていた。もしかしたら、雑誌の中で笑う誰かや、当然のように水着を選べる誰かと、無意識に比べていたのかもしれない。
耳の奥だけが、少し熱かった。薄絹の端を撫でる指が、同じ場所を何度も行き来する。鏡の中の自分と目が合うたび、すぐに視線を外したくなる。
けれど、今夜は外さなかった。
ルシアンの目に、今の私はどう映るのだろう。
そう考えると、落ち着かなくなる。怪異の記録を読む時とも、遺体の傷を確かめる時とも違う。答えのない問いを抱えたまま、それでも進みたいと思う。
私は薄絹の前を合わせ、燭台の火をひとつ落としてから扉へ向かった。
夜の廊下は、昼よりも石の匂いが近い。窓の外にはアルヴェリアの夏の夜が広がり、庭園の木々は黒い層を作っていた。壁際の灯火が床に細く映り、薄絹の裾が足首へ触れるたび、肌の上に冷たさが戻る。
ルシアンの私室の前で、私は足を止めた。
この扉を叩くことは、もう珍しいことではない。けれど今夜は、事件の相談でも、眠れない夜の訪問でもなかった。
見てほしい。
綺麗だと思ってほしい。
その二つを胸の奥に置いたまま、私は扉を叩いた。
「入れ」
低い声が返る。
私は扉を開けた。ルシアンは執務机の前にいた。夜用の簡素な室内着に着替えているが、肩の線にはまだ公務の名残がある。机には書類が広げられ、羽根ペンの先に黒いインクが溜まっていた。灯火の橙が金髪の端を照らし、顔を上げた瞳の中で、空の青が静かに揺れる。
「ルシアン、お時間をいただけますか」
「ああ」
彼はすぐに書類を脇へ寄せた。ペンを置く音が、机の上で小さく響く。私が部屋へ入り、扉を閉めると、廊下の灯りが細い線になって消えた。
「どうした」
ルシアンの視線が、私の薄絹に止まる。夜着よりも軽く、灯火を透かして下の紺碧を隠しきれない布だった。彼は何かに気づいた顔で、椅子から立ち上がる。
私は両手を前で重ねた。
「……お見せしたいものがあります」
言ってから、薄絹の端を持つ指に力が入った。
ルシアンは何も言わなかった。急かしもしない。ただ、机の前に立ったまま、私の次の動きを待っている。そういう人だと知っていた。私が言葉を探す時も、手を伸ばすか迷う時も、彼はいつも、踏み込む前に少しだけ待つ。
その沈黙に、少しだけ救われた。
私は薄絹の合わせ目へ指をかける。布越しに触れた紺碧の端が、肌の上で冷たかった。前の人生の試着室で、鏡を見る前に脱いでしまった水着のことが、一瞬だけ頭をよぎる。
あの時は、見られなかった。
けれど今夜は、自分でここまで来た。
肩から薄絹を落とすまでのわずかな時間が、思っていたより長かった。布が腕を滑り、肘を抜け、指先から離れていく。そのたびに、隠れていた肌へ室内の灯りが触れる。
床に落ちた薄絹が、白く重なった。
紺碧の水着が、灯火の下に現れる。銀鎖が胸元で細く光り、小さな青い宝石が、浅くなった呼吸に合わせて揺れた。
私はすぐには顔を上げられなかった。
ルシアンがどんな顔をしているのか、知りたい。けれど、知るのが少し怖い。綺麗だと思ってくれるだろうか。その問いを抱えたまま、私はゆっくり視線を上げた。
ルシアンの瞳が、私の上で止まっていた。
空の青に、夕日の金がゆっくり混ざっていく。彼はすぐに言葉を出さなかった。机の端に置いた指がわずかに曲がり、視線が私の顔へ戻るまでに、少しだけ時間がかかる。
その間、私は床へ落ちた薄絹を見ていた。
何か言ってほしい。けれど、今すぐ言われたら、きっと最後まで聞けない。胸元の青い宝石が、浅くなった呼吸に合わせて小さく揺れる。
綺麗だと、思ってくれただろうか。
答えを聞く前から、耳の奥が熱かった。
顔を上げると、ルシアンはまだ私を見ていた。
その目を受け止めたまま、私は口を開いた。
精一杯、いつも通りの声を出したつもりだった。
「アリアナ王太女から、贈っていただきました」
言い終えてから、少しだけ早口になっていたかもしれないと思う。ルシアンの喉が、わずかに動いた。
「アルヴェリアでは、外で着ることはできません」
そこまでは、用意してきた言葉だった。けれど次の言葉だけは、扉の前で何度も考えたのに、口にする直前で胸の奥が熱くなる。
「けれど、ここでなら、着られると思いました」
私は顔を上げる。
「……ルシアンに、見ていただきたかったのです」
声にした後、胸元の青い宝石がもう一度小さく揺れた。
ルシアンが机から離れる。
椅子の脚が床をかすめる音がして、私は反射的に指先を握った。近づいてほしいと思っていたはずなのに、実際に距離が縮まると、どこを見ればいいのか分からなくなる。
ルシアンの足音は、急いでいなかった。
一歩近づくたびに、灯火の色が彼の髪の上で揺れる。私は顔を上げたままでいようとして、胸元の青い宝石が視界の端で揺れていることに気づく。呼吸を整えようとすると、かえって浅くなった。
彼は、すぐには触れなかった。
手を伸ばせば届く場所で止まる。近い。けれど、まだ触れてはいない。その距離が、ルシアンらしかった。欲しいものに手を伸ばす前に、私が本当に頷くのかを待つ人。
私は薄絹を落とした時よりも、少しだけ恥ずかしくなった。
「いつもこういうことするけど、本当にわかってるのか?」
低い声だった。
責められているわけではないのに、胸の奥が小さく震えた。怒っている声ではない。けれど、何かを抑えているのは分かる。分かるからこそ、目を逸らせなかった。
以前なら、分かっているつもりだった。
けれど今夜は違う。恥ずかしさも、戸惑いも、消えてはいない。それでも私は、ルシアンに見てほしくてここへ来た。彼が手を伸ばしてくれるなら、その手を取るつもりでいた。
私は、小さく頷いた。
ルシアンの瞳の奥で、金色がはっきり表に出る。それでも、彼はすぐには触れなかった。私が頷いたあとも、ほんの少しだけ待った。そのわずかな間に、私は自分の指先が冷えていることに気づく。
次の瞬間、ルシアンの腕が背と膝の下へ回った。
身体がふわりと浮く。思っていたよりも簡単に抱き上げられて、私は反射的に彼の肩へ手を置いた。近い。彼の首筋に灯火の匂いと、わずかなインクの香りが残っている。私を抱く腕は強いのに、指先だけはひどく慎重だった。
ルシアンは何も言わず、寝台へ向かった。
白い布の上へ降ろされる時も、彼は急がなかった。背中が寝台に触れる前に、片手で私の髪を避ける。黒髪が枕の上へ広がるのを見てから、彼はようやく腕を抜いた。
私は、寝台の上からルシアンを見上げていた。
見上げる形になると、先ほどまでよりも胸の奥が落ち着かない。紺碧の布も、銀鎖も、青い宝石も、もう隠すものがない。けれど、恥ずかしさの奥に、離れてほしくない気持ちがあった。
ルシアンが寝台へ片膝をつく。
そのまま私の上へ影が落ちた。押さえつけられているわけではないのに、視界の中が彼で満ちていく。金の髪が灯火を受け、空の青と夕日の金を混ぜた瞳は、もうほとんど金色に近かった。
彼の手が、私の髪へ触れる。
指先が、枕に散った黒髪をゆっくり梳いた。いつもより少しだけ熱い手だった。髪を整えるだけの動きなのに、胸の奥まで触れられている気がして、私は息を浅くする。
次に、その手が頬へ移った。
親指が、頬の輪郭をたどる。近すぎる視線に、まばたきが少し増える。それでも、ルシアンがどんな顔で私に触れているのか、見ていたかった。
彼が身を屈める。
唇が触れた。
優しい口づけだった。けれど、ただ優しいだけではなかった。確かめるように触れて、すぐには離れない。私は彼の室内着の胸元を、指先でそっと掴んだ。布が少しだけ皺になる。ルシアンの呼吸が変わるのが、唇越しに分かった。
顔が離れた時、ルシアンの頬は赤かった。
私を見下ろす瞳は、金色を濃くしている。いつものように平静を装おうとして、うまくいっていない顔だった。
「……セレネ」
名前を呼ばれただけで、胸の奥が小さく震えた。
次の瞬間、ルシアンが私の胸元へ顔を伏せた。
金の髪が肌に触れ、銀鎖がかすかに揺れる。口づけの続きが来ると思っていた。だから、彼の額が胸元へ落ちてきた時、私は一瞬、指先の置き場を失った。
彼の額と頬が、紺碧の布越しに触れている。熱い。けれど、強引ではなかった。何かを堪えるように、そこへ息を落としている。
胸元に彼の呼吸がかかるたび、身体の奥が小さく反応した。
どうしていいか分からず、私はしばらく天井を見ていた。それから、ゆっくりと手を上げる。ルシアンの後頭部に触れると、彼の髪は灯火の熱を含んでいた。
私は、その髪をそっと撫でた。
ルシアンが、胸元から少しだけ顔を上げる。頬には熱が残っていて、金色の濃くなった瞳が、近すぎる距離で私を見る。先ほどまでの口づけよりも、その視線の方が、胸の奥に触れた。
「もう別々の部屋に帰るなんて無理だ。一緒の夫婦の部屋にこれからは住まないか?」
その言葉は、私の内側へ静かに落ちてきた。
夫婦の部屋。
それは、今夜だけの言葉ではなかった。水着を見たから、今だけ近づきたいという意味でもない。明日の朝も、その次の夜も、同じ場所へ帰る未来の形だった。
私は、ルシアンの髪に触れていた手を少しだけ握る。
声にすると、きっと震えてしまう。
だから、頷いた。
ルシアンの表情が、ほんの少しだけ崩れた。ほっとしたような、まだ熱を逃がしきれないような、けれど今まででいちばん近い顔だった。
その顔を見て、私はもう一度、小さく頷いた。
今回どっぷり恋愛方面なんですが、この続きをムーンライトノベルズの方で短編で書きました!
感情を持たない婚約者は夜だけ素直になる〜第三王子と月夜の秘め事録〜
という短編集です!R18ですので18歳未満は閲覧禁止です!




