隣に帰るための許可
レヴァンティスの港でまとわりついていた潮気も、夏の夜の熱も、王城へ戻ってひと月半も経てば遠いものになる。星見宮の回廊には白い朝光が斜めに入り、磨かれた床石の上で、窓枠の影が細く長く伸びていた。庭木の葉先はまだ濃い緑を残しているが、光の色だけが少し薄く、夏の終わりを告げるように壁の白さへ静かに溶けている。
ルシアン・アルヴェリアは、自分の私室の扉の前で立ち止まり、使用人たちが荷を運び出していくのを見ていた。大きな家具は昨夜のうちに移され、今朝は細かな私物が中心になっている。王族特務隊の報告書を収めた革箱、使い慣れた地図筒、短剣の手入れ道具、机の奥に押し込んだままだった古い訓練記録。見慣れたものが順に廊下へ出されていくたび、自分の部屋だった場所が、少しずつただの箱へ戻っていくように見えた。
その向こうから、今度はセレネの荷が運ばれてきた。
彼女の私物は、見慣れているようで、まだ近くで見るには慣れていないものばかりだった。黒檀の小さな書見台、薄い栞を挟んだ書物、銀の留め具がついた筆記箱、丁寧に布で包まれた香油の小瓶、淡い手袋を収めた細長い箱。衣装箱の蓋がわずかに開いた拍子に、月白の布地が覗き、朝の光を受けて水面のように柔らかく色を変えた。
ルシアンは、思わず視線を外した。
別に、見てはいけないものではない。今日からそれらは、同じ区画の中に置かれる。そう決めたのは自分だ。だが、セレネの書物や筆記具が、自分の暮らす場所の奥へ入っていく光景は、剣を突きつけられるより落ち着かなかった。衣装箱の紐を結び直す侍女の手つきなど、ただ目に入っただけで、喉の奥が妙に乾く。
決めたのは、あの夜だった。
レヴァンティスから戻って数日後、セレネは薄絹をまとって夜の私室を訪ねてきた。事件の相談でも、眠れない夜の訪問でもない。薄い布の下には、レヴァンティスの夏を思わせる水辺の装いが覗いていた。
「……ルシアンに、見ていただきたかったのです」
そう告げた声は、いつも通り静かだった。けれど、胸元の青い宝石が浅い呼吸に合わせて揺れているのを見た瞬間、ルシアンはまともに返事ができなかった。
ここ最近のセレネは、ときどきこうして、こちらの理性に妙な試練を与える格好で夜に訪れる。自覚があるのかないのか分からないところが、余計にたちが悪い。
「いつもこういうことするけど、本当に分かってるのか?」
低く問うと、セレネは小さく頷いた。
その頷きだけで、ルシアンの中に残っていた逃げ道はなくなった。腕を伸ばし、背と膝の下へ手を回して抱き上げる。寝台へ運ぶまでの短い距離でさえ、彼女の黒髪が腕に触れるたび、胸の奥で熱が増した。
このまま、また別々の部屋へ帰すのか。
そう考えた瞬間、肋骨の内側で何かがきしんだ。
今夜だけ近くにいたいわけではなかった。触れたいから、手放したくないから、そんな熱だけで口にする言葉でもない。明日の朝も、その次の夜も、彼女がひとりで扉の向こうへ消えていくのを、もう平気な顔で見送りたくなかった。
「もう別々の部屋に帰るなんて無理だ。一緒の夫婦の部屋に、これからは住まないか?」
気づけば、その言葉が自然に零れていた。
セレネはすぐには答えなかった。彼女はルシアンの髪に触れていた手を少しだけ握り、声を出す代わりに静かに頷いた。灯火の下で、その小さな動きだけが夜の続きに深く刻まれた。
翌朝、ルシアンは王族居住区に関する書類を前にしていた。
正式な婚姻誓約前に、夫婦の部屋へ移る。言葉にすればそれだけだ。前例がないわけではない。むしろ身近に、あまりにも分かりやすい前例がある。
フェリクス兄上だ。
あの人は婚約した時から、当然のようにミレイユ義姉上を自分の隣へ置いた。研究室でも、食卓でも、私室でも、まるで昔からそこが彼女の場所だったかのように扱った。軽さではない。好きで、離したくなくて、彼女が困らないように、先に居場所を整えてしまっただけだ。
アルヴェリア王家の男は、たぶん、そういうところがある。
レオニス兄上はリリアーナ義姉上に関わることになると、完璧な王太子の顔のまま、予定も人員も一番良い形へ組み替える。フェリクス兄上は緩く笑いながら、ミレイユ義姉上の手に危ないものが触れないよう、硝子皿の位置ひとつまで自分で確かめる。そして自分も、セレネが別の扉の向こうへ消えていくのを、もう何でもない顔で見送れなくなっていた。
だからこそ、同じことをするにしても、自分の形で進めたかった。フェリクス兄上の真似ではない。勢いで押し切るのでもない。セレネが頷いたことを、王城の誰かに軽く扱わせないために、夫婦の部屋へ移る理由をきちんと形にする必要があった。
まず話を通すべき相手は、父王ではなかった。王太子レオニス・アルヴェリア。王城の実務を捌く長兄であり、この手のことを最も早く正式な形へ落とし込める相手だった。
ただ、早いことと、気楽であることは違う。
セレネが頷いた翌日の午前、ルシアンは星見宮を出て公務区域へ向かった。東側の居住宮から中央へ進むにつれ、庭の湿った緑の匂いは薄れ、磨かれた床石と紙、封蝋、インクの匂いが近くなる。公務区域は王城の心臓部だ。政務を扱う文官、書類を抱えた侍従、近衛、各宮からの使者が、声を抑えながらも絶えず行き交っている。
王太子の執務室へ通されると、レオニスは大きな机の向こうで書類を読んでいた。
長い金髪は黒いリボンで低く結ばれ、肩へ落ちた幾筋かが、窓辺の光を受けて淡く光っている。伏せられた青金の瞳は、紙面の文字を一行も逃さない。羽根ペンを持つ指先は静かで、必要な箇所へ短い印を残す時だけ、袖口の金具がかすかに鳴った。装飾を抑えた黒の上衣も、机上に積まれた書類の列も、王太子本人と同じように隙がない。
その机の斜め後ろに、黒髪の男が控えていた。
カイル・ヴァルキュリア。
セレネの兄であり、王太子の補佐官。侯爵家の者らしい端正な顔立ちをしているが、セレネとは瞳の色が違う。深い海色ではなく、灰色。雨の降る前の石を磨いたような、冷えた色だった。
カイルはルシアンを見た瞬間、書類を持つ指をほんのわずかに止めた。顔立ちは崩れない。けれど、睫毛の影の下で灰色の瞳だけが、こちらを測るように動く。
「ルシアン殿下」
カイルは補佐官として頭を下げた。声は正確で、礼を欠くところはない。
レオニスは書類の端に目印を挟み、顔を上げた。
「星見宮の件だと聞いた」
「はい。レオニス兄上。正式な報告として参りました」
「聞く」
それだけ言って、レオニスは羽根ペンを置いた。
逃げ道のない短さだった。余計な話を挟めば、その分だけ自分の首を絞める。ルシアンは膝の上で一度だけ指を握り、兄を見た。
「セレネと、星見宮の夫婦の部屋へ移ります」
カイルの筆先が、紙の上で止まった。
レオニスではない。カイルだった。記録用の紙に、濃い点がひとつできている。カイルは顔を動かさず、灰色の瞳だけをルシアンへ向けた。言葉はない。王太子の前で補佐官が第三王子へ余計な口を挟むはずもない。ただ、その視線だけが、こちらの言葉を一つずつ切り分けている。
セレネの兄か。
ルシアンは、そこで初めて、報告先を一人間違えたような気分になった。もちろん、正式に話を通す相手はレオニスで合っている。だが、目の前で筆を止めている男は、書類上の補佐官である前に、セレネの兄だった。
レオニスはすぐには答えなかった。伏せていた青金の瞳を上げ、弟を正面から見る。
「報告か」
「形式上は、許可が必要な件です」
「なら、許可を待つ顔をしろ」
「待っています」
言いながら、ルシアンは自分でも、あまり待っている顔ではないだろうと思った。
レオニスは机の端を指先で一度だけ叩いた。小さな音が、書類と封蝋の匂いの中で短く響く。
「理由は」
「警備と、今後の事件資料の管理。レヴァンティス以降、星見宮内の夜間導線も組み直した方がいいと考えています。それから」
「それから」
「俺が、もう別々の部屋に帰ることができません」
カイルの筆が、紙を擦った。
音は細い。だが、普段の記録には必要のない強さだった。紙の繊維をわずかに削るような音が、数文字分だけ続く。ルシアンはそちらを見ないようにした。見れば何か言いたくなる。だが、ここで応じれば、王太子の執務室がヴァルキュリア家の応接間に変わる。
レオニスはしばらくルシアンを見ていた。青金の瞳は感情を荒く出さない。ただ、今の言葉が一時の熱でないかを測るように、わずかに細められている。
「……そうか」
短く言って、レオニスは書類を引き寄せた。
「なら、外に余計な隙を作るな」
「はい」
「警備配置、使用人の動線、セレネ嬢の侍女の勤務割。すべて今日中に出せ。婚姻前である以上、説明できる形にしておけ」
「承知しました」
「許可する」
その一言で、話はほとんど終わった。
けれど、レオニスは印を押す前に、もう一度だけ顔を上げた。
「軽く扱うなよ」
「そのつもりはありません」
「ならいい」
レオニスは書類に印を押し、カイルへ渡した。カイルは無言で受け取り、記録欄へ必要事項を書き込む。その動作は正確で、無駄がない。けれど、筆圧だけが明らかに仕事の範囲を超えていた。
「カイル卿」
ルシアンが声をかけると、灰色の瞳が上がった。
「何でしょうか。ルシアン殿下」
「書類、よろしく頼む」
「王太子殿下のご命令ですので」
礼儀正しい返答だった。礼儀正しすぎて、むしろ痛い。
ルシアンは、これ以上は何も言わない方がいいと判断した。椅子から立ち上がり、レオニスへ礼を取る。
「話を通していただき、感謝します。レオニス兄上」
「不備があれば戻す」
「分かっています」
「なら、行け」
退室する時、背中に灰色の視線が残った。扉が閉まる直前まで、カイルは一言も発しなかった。だが、あの目はしばらく忘れられそうにない。セレネとの兄妹関係がどのようなものか、ルシアンにはまだ分からない。ただ、少なくとも、妹を軽く扱う男を許す目ではなかった。
話は通った。




