二人だけの部屋
それで翌日からすべて動くはずだったが、そこへルシアンの二十歳の誕生日に向けた公務が挟まった。準備、前倒しの謁見、各家からの挨拶、祝賀に関わる調整。星見宮の居室変更に必要な手続きも、警備の組み直しも、思ったほど早くは進まない。
その間も、二人の距離が遠ざかったわけではない。
公務を終えたあと、ルシアンはセレネの部屋へ行くことがあった。逆に、セレネが彼の私室を訪ねてくる夜もある。事件資料を広げることもあれば、ただ同じ長椅子に腰を下ろし、肩が触れる距離で本を読むだけのこともあった。暖炉の火が落ちる頃、セレネが眠ってしまえば、ルシアンは黒髪が頬にかからないよう指先で避け、毛布を肩まで引き上げる。朝になる前、彼女を起こさないよう自分の部屋へ戻ることも、もう珍しくなかった。
越えていない線はある。
それを守っているからこそ、形だけ別々の部屋に戻ることが、かえって現実に追いついていない気がした。
セレネは、それでも何も急かさなかった。移動の話題が出れば「分かりました」とだけ言い、読みかけの頁へ栞を戻す。こちらが苛立つほど静かに待つところが、また彼女らしかった。
その静けさに甘える気はなかった。だから公務が切れた日から、ルシアンは使用人長と侍従長を呼び、警備配置を組み直し、星見宮の夫婦の部屋を開けさせた。
古くは王族の婚礼後に使われてきた区画だ。普段から手入れはされていたが、人が暮らしていない部屋には、どこか乾いた木と布の匂いが残っている。そこへ、今日、二人の荷が入った。
「殿下」
呼ばれて、ルシアンは目を上げた。
廊下には、もう先ほどまでの慌ただしさは残っていなかった。荷を抱えた使用人の列は途切れ、床石に長く伸びていた朝の影も、いつの間にか窓際へ寄っている。最後の箱を運び終えた侍従が、扉の脇で深く頭を下げていた。
「主な荷の移動は完了いたしました。細かな配置は、セレネ様の侍女方と確認しながら進めております」
「……分かった。下がっていい。何かあれば呼ぶ」
「承知いたしました」
使用人たちが一礼して去っていく。扉が静かに閉じると、夫婦の部屋には、まだ新しく動かされた家具と布の匂いが残った。
中央には、二人で使う寝室がある。湯殿へ続く扉と、衣を掛けるための小部屋もそこに近く、まだ火の入っていない燭台の金具が、窓から入る光を細く返していた。その寝室を挟むように、左手にはセレネの書斎、右手にはルシアンの書斎が並んでいる。
ルシアンはまず、自分の書斎の方を見た。事件簿の入った革箱、地図筒、武具の手入れ道具、王族特務隊の報告書。どれも見慣れたものだ。それなのに、寝室の向こう側にセレネの書斎があるだけで、部屋全体の意味が変わって見えた。
半開きの扉の先には、セレネの書物が棚へ収められ、黒檀の小さな書見台と銀の筆記箱が机の上に置かれている。彼女の膝掛けが椅子の背に掛かり、淡い色の栞が一冊の本から細く覗いていた。ルシアンの事件簿と彼女の書物が同じ棚に並ぶわけではない。けれど、中央の寝室を挟んで、二人の仕事場が同じ区画の中に収まっている。
自分の書斎の隣ではない。
帰る場所の内側に、セレネの書斎がある。
ただそれだけのことに、ルシアンはしばらく動けなかった。
露台へ続く扉の硝子には、傾き始めた陽が映っている。星を見るために造られた細い露台は、夜になれば王城の屋根越しに広い空を望める。今はまだ夕方に届く前で、秋の光が窓枠の金具や机の角に柔らかく残っていた。
背後で、衣擦れの音がした。
振り返ると、セレネが寝室の入り口に立っていた。黒髪はいつも通り整えられ、深い海色の瞳が部屋の中をゆっくり見渡す。使用人がいるあいだは少し距離を置いていた彼女が、今は何も言わず、ルシアンの方へ歩いてくる。
彼女の手には、薄い本が一冊あった。古い革表紙の角が少し擦れている。セレネはそれを自分の書斎の机へ置き、指先で表紙の位置を整えた。それから、ルシアンを見た。
「……ルシアン」
二人きりになってからの呼び方だった。
たったそれだけで、廊下も書類も公務区域のインクの匂いも、少し遠ざかった。ルシアンは返事をする前に、彼女の指先を見た。緊張しているようには見えない。けれど、表紙に触れたままの指が、ほんの少しだけ革の縁を押さえている。
「ああ」
声が低くなりすぎた。ルシアンは咳払いをしそうになり、やめる。
「今日から、ここだ」
「はい」
「足りないものがあれば言え」
「十分です」
「本当にか。お前の本なら、まだ俺の書斎まで侵略できる量があるだろ」
セレネは少しだけ瞬きをした。それから、ほんのわずかに口元を和らげる。笑みと呼ぶには淡い。けれど、ルシアンには十分だった。
「必要があれば」
「必要にするな」
返した声が、思ったより低くなった。
短いやり取りのあと、言葉が途切れた。途切れても、居心地の悪さはなかった。セレネは窓辺へ歩き、露台へ続く硝子扉の向こうを見る。夕日が黒髪の輪郭を細く照らし、彼女の横顔を淡い金で縁取った。レヴァンティスの夜のような熱はない。潮の湿りも、血の匂いもない。ただ、乾いた石と新しい布と、まだ火の入っていない暖炉の薪の匂いがする。
ルシアンは彼女の隣へ立った。触れるほど近くはない。けれど、手を伸ばせば届く距離だった。
「別々の部屋には戻らない」
セレネは外を見たまま、静かに頷いた。黒髪の先が肩の上で少し揺れる。その小さな動きだけで、ルシアンの胸の奥が、ゆっくり落ち着いていく。
夕暮れの光が、中央の寝室を挟んだ二つの書斎へ静かに伸びていた。片方にはセレネの書物と銀の筆記箱があり、もう片方にはルシアンの事件簿と地図筒がある。そのあいだに、二人で眠る部屋があった。
セレネの影が、床の上でルシアンの影へ重なる。
もう、別々の扉へ戻る必要はなかった。




