ひとつの部屋
昨夜、ルシアンは柔らかな黒髪の彼女を腕の中に抱きしめて眠った。
灯火を落とした寝室には、洗い立てのリネンと、まだこの部屋に馴染みきっていない木の匂いが残っていた。そこに、セレネの髪から漂う淡い香油の香りが重なる。腕の中にある体温は静かで、細い呼吸が胸元に触れるたび、ルシアンの中で張りつめていたものが、少しずつほどけていった。
もう、朝になる前に別々の部屋へ戻らなくていい。
そう思ったことまでは覚えている。けれど、その先は曖昧だった。眠れない夜をいくつも越えてきたはずの身体は、安心を覚えた途端、抵抗する間もなく深く沈んだ。セレネを抱きしめた腕の力だけは緩めないようにしていた気がする。だが、黒髪が頬に触れていた感触も、香油の淡い匂いも、眠りに落ちる直前には、ひとつの柔らかな夜の中へ溶けていた。
目が覚めて、ルシアンはぼんやりと天蓋の内側を見上げていた。
薄い朝の光が、寝室の窓から斜めに入り込んでいる。夜のうちに閉めたはずの厚い帳は端だけが細く開き、そこから差す光が寝台の布を淡く照らしていた。しばらくして、腕の中が軽いことに気づく。
隣には、誰もいなかった。
寝台の片側は、完全に冷たくなっているわけではない。枕には黒髪が触れていた跡がわずかに残り、掛布の端も、彼女が出ていった形のまま緩く沈んでいる。
先に起きたのか。
それだけのことだ。分かっている。だが、目を覚ました時に隣で眠っているセレネを見るつもりでいた自分に気づき、ルシアンは片手で額を覆った。
少し前まで、別々の部屋へ戻ることが当たり前だったはずだ。それなのに、たった一晩で、身体の方が先にこの部屋を覚え始めている。
ルシアンは身体を起こし、寝台を出た。朝の冷えが足裏からゆっくり上がってくる。寝室を出る時、扉の金具が小さく鳴った。
続き間には、まだ新しい部屋の匂いが残っていた。磨かれた床、移されたばかりの机、昨夜整えられた燭台、火の入っていない暖炉。その中で、セレネは窓辺に立っていた。
背を向けたまま、テーブルに置かれた本の頁をめくっている。
黒髪はまだ完全には結い上げられていない。肩から背へ流れ、朝の光を受けた表面だけが青みを帯びて細く光っていた。淡い灰青の部屋着は、普段の礼装よりずっと緩く、袖口が手首のあたりで柔らかく落ちている。社交の場で整えられた姿でも、夜に彼の理性を試すような薄い布でもない。寝室から出てきて、そのまま朝の本を手に取っただけの姿だった。
ルシアンは足を止めた。
落胆していた胸の奥に、別の熱がゆっくり満ちていく。セレネは手の届かない場所へ戻ったわけではない。自分より少し早く目を覚まし、同じ部屋の窓辺で、古い記録の頁を繰っている。
ただそれだけの光景が、ひどく愛おしかった。
ルシアンは足音を抑えて近づいた。
セレネは振り返らない。気づいていないのか、気づいていてそのままにしているのか、彼には分からない。ただ、窓から入り込む朝の光が、彼女の睫毛の影を頬へ短く落としているのを、近づくたびにはっきり見た。
手を伸ばせば届く距離で、少しだけ止まる。
昨日までなら、ここで声をかけたかもしれない。何を読んでいる、とか、早いな、とか。けれど、その前に腕が動いていた。
ルシアンは背後から、セレネの肩越しに両腕を回した。強く引き寄せたわけではない。ただ、彼女の身体の前で自分の腕を緩く重ね、黒髪の流れる肩口へ顔を近づける。髪からは、昨夜と同じ淡い香油の匂いがした。朝の冷えを含んだ部屋着の布越しに、彼女の体温がゆっくり伝わってくる。
セレネの指が、頁の端で止まった。
ルシアンは黒髪を避けるように顔を傾け、部屋着の襟から少しだけ覗いた首筋へ唇を落とした。触れたのは一度だけ。短く、確かめるような口づけだったのに、セレネの指先が頁を押さえたまま動かなくなる。
紙が小さく鳴った。
「……ルシアン」
声は小さく、言い終えたあとも、頁を押さえる指が動かなかった。
ルシアンはその小さな反応を見て、腕の力をほんの少し緩める。
「早いな」
ルシアンが言うと、セレネは本の頁へ視線を落としたまま答えた。
「目が覚めてしまいました」
「起こしたか」
「いいえ。起こすのが、もったいなくて」
ルシアンは彼女の肩越しに手元の本を見下ろす。革の表紙は古く、縁が少し擦れている。王都の測量、古い水路、橋梁の修繕記録。昨夜、右側の書斎へ移したばかりの一冊だ。
「何を読んでいた」
「……あなたの本棚にあったものです」
「よりによって、それか」
「窓の位置から、庭の勾配が見えましたので」
「朝から見るものが、それか」
「気になりました」
ルシアンは彼女の手元へ視線を落とした。昨日まで自分だけのものだった棚から選ばれた本が、セレネの指先に押さえられている。それを咎める気など最初からない。むしろ、その光景の方が、妙に胸の奥へ残った。
セレネの肩の力が、ほんの少し抜ける。
それを感じても、ルシアンは腕を解かなかった。
今の彼女は動かない。頁を押さえたまま、彼の腕の中にいる。
「読みづらくないか」
「少し」
「なら本はあとにしたらどうだ?」
セレネはわずかに瞬きをし、ほんの少しだけ首を傾ける。黒髪がルシアンの頬に触れた。
「……では、あとで読みますね」
「ああ、そうしてくれ」
ルシアンは彼女の手元へ指を伸ばし、開いた頁に栞を挟んだ。紙が静かに閉じる。その拍子に、セレネの指先が彼の指へ軽く触れた。
セレネはわずかに目を伏せる。
「ルシアンがいる時は、本を読まない方が良いですか?」
「読むなとは言わない」
ルシアンは閉じた本に視線を落としたまま、少し声を低くした。
「でも、俺の相手も少しはしろ」
セレネはすぐには答えなかった。閉じた本の上で、彼女の指先がルシアンの指へそっと重なる。
それから、彼女はくすりと小さく笑った。
「……はい」
その返事があまりにも素直で、ルシアンの方が一瞬、言葉を失った。
朝の光の中で見るセレネの笑みは、夜に見せる揺らぎとも、事件の中で見せる鋭さとも違っていた。ほんの小さなものだ。すぐに消えてしまうほど淡い。けれど、触れていた指先の温度が、しばらくルシアンの手に残った。
セレネが本を机に戻したのは、少し後だった。
彼女は栞を挟んだまま表紙を撫で、丁寧に本を置く。ルシアンが腕を解くと、セレネは振り返り、彼を見上げた。近い距離で見る海色の瞳には、窓の光が細く入っている。寝起きのままのルシアンの髪を見たのか、彼女の視線が一度、額のあたりで止まった。
「髪が、少し乱れています」
「寝起きだからな。お前が先にいなくなったせいだ」
「私のせいですか」
「隣にいると思って目を覚ました」
言ってから、思ったより素直に出た声に、ルシアンは少しだけ口を噤んだ。だがセレネは視線を逸らさなかった。朝の光を受けた海色の瞳が、ほんの少しだけ揺れる。
「起こさない方がいいと思いました。よく眠っていらしたので」
「……よく眠ってたか」
「はい」
セレネは静かに頷いた。
「昨夜、明かりを落としてから、すぐに」
「そんなに早かったか」
「早かったです」
責める声ではなかった。むしろ、大事なものを確かめるように、彼女はルシアンの顔を見ていた。
「でも、少し安心しました」
「安心?」
「ルシアンが、ちゃんと眠れたので」
その一言は、朝の光より静かに胸へ入ってきた。
ルシアンは返す言葉を探した。昨夜、セレネを腕に抱いたまま、張りつめていたものが切れたように眠りに落ちたことを思い出す。あれは疲れていたからだけではない。腕の中に彼女がいて、朝になっても別々の部屋へ戻らなくていいと分かったからだった。
「お前がいたからだろ」
低く返すと、セレネの睫毛が一度だけ伏せられた。
「そうですか」
「ああ。だから、起きた時にいないと困る」
セレネは少しだけ目を伏せたまま、くすりと小さく笑った。声に出すほど大きな笑いではない。けれど、朝の光の中で口元がやわらかくほどける。
「困らせるつもりはありませんでした」
「なら、次からは隣にいろ」
「……はい」
静かな返事だった。けれど、今度はすぐに目を逸らさなかった。
ルシアンはその返事を聞いて、ようやく手を離した。離した指先に、黒髪の冷たさと彼女の体温が少しだけ残る。
「それで、俺の髪は?」
「直してもいいですか」
「……少しだけな」
「はい。少しだけ」
セレネが手を伸ばし、額に乱れた金髪をそっと整えた。指先は慎重で、触れている時間は短い。けれど、その名残が額に残って、ルシアンはすぐに視線を戻せなかった。
「寒くないか」
「大丈夫です」
「その大丈夫は、当てにならない」
「今朝は本当に大丈夫です。先ほどまで、ルシアンが抱きしめていましたので」
その言葉があまりに静かに落ちたので、ルシアンは返事を忘れた。
セレネは何もなかったように袖口を直している。けれど、耳の下にかかる黒髪の隙間から、白い肌が朝の光を受けているのが見えた。表情はいつも通りでも、言葉の置き方だけが少しずつ変わっている。
「……そういうことを、朝から言うな」
「事実です」
「事実でもだ」
低く返すと、セレネはほんのわずかに口元を緩めた。
二人で露台へ出ると、秋の朝の冷えた匂いが頬に触れた。乾いた石と、葉の裏に残った露と、遠くの厨房から届く焼きたてのパンの香りが薄く混じっている。
セレネは手すりに指を置き、ルシアンはその隣で同じ庭を見た。言葉がなくても、今朝はそれで足りた。
ルシアンは隣に立つセレネを見た。朝の光が、彼女の黒髪に細く残っている。
ひとつの部屋で迎える朝が、もう始まっていた。




