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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第4章 夫婦の部屋と学院の記憶

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対の青

「お誕生日おめでとうございます、ルシアン」


 朝食の席に着いたセレネが、銀のティーポットから立つ湯気の向こうで、静かにそう告げた。星見宮の小さな食堂には秋の朝日が斜めに差し込み、白いクロスの上には焼きたてのパンと果実、淡い琥珀色の紅茶が並んでいる。窓の外では、庭木の葉先に残った露が細く光っていた。


 ルシアンは一瞬だけ返事を忘れた。今日で二十歳になる。王族としてなら、もっと重く受け止めるべき節目なのだろう。父王の前で祝辞を受け、兄たちや貴族たちに囲まれ、第三王子として相応しい顔をしていなければならない日だ。だが、朝の卓を挟んでセレネに名を呼ばれた瞬間、その事実はひどく穏やかな形で胸へ落ちた。


「朝からそんな顔をするな」


「顔、ですか」


「ああ。今日は一日、落ち着かなくなる」


 セレネはわずかに瞬きをした。表情は大きく動かない。けれど、紅茶のカップへ指を添える動きが、普段より少しだけ丁寧だった。


「誕生日ですので」


「そういうところだけ律儀だな」


「必要なことだと思いました」


 ルシアンは小さく笑い、パンへ手を伸ばした。十九歳から二十歳へ変わったという実感よりも、同じ部屋で朝を迎え、同じ卓で食事をしていることの方が、ずっと大きかった。


 朝食が終わると、星見宮には夜会へ向けた支度の気配が満ち始めた。侍従が礼装を運び込み、仕立て師が袖口や襟元を確かめ、侍女たちは花や香の瓶を整えていく。ルシアンは続き間で王族の正装に袖を通した。深い群青の礼装だった。外套の縁には金糸で細かな星が縫い込まれ、胸元の白い胴衣には淡い青と金の刺繍が走っている。襟飾りに嵌められた宝石は、王家の瞳を思わせる空の青と夕日の金を抱いていた。第三王子の誕生日にふさわしい装いだ。


 だが、ルシアンが気にしていたのは自分の礼装ではなかった。


 セレネの支度は別室で進んでいる。どんなドレスかは、まだ見ていない。ただ、朝から侍女たちが妙に慎重に布箱を運んでいたことだけは覚えている。


 支度を終えたルシアンが小広間で待っていると、隣室の扉が静かに開いた。先に侍女が一礼し、その後ろから、セレネが姿を見せる。


 ルシアンは言葉を失った。


 彼女のドレスは、王家の青を纏っていた。深い藍を基調に、胸元から肩へかけて淡い青が重なり、袖には透ける薄絹が落ちている。裾へ向かうにつれて夜空のように色が深まり、その上を金糸の星が静かに流れていた。黒髪には、ルシアンの胸元の星章と対になる小さな飾りが留められている。青と金が、黒髪に沈む。海色の瞳はドレスの青を受け、いつもより深く見えた。


 婚約者として王家の色を纏う。それだけなら、不自然ではない。だが今の装いは違う。ルシアンの礼装と、明らかに対になっていた。同じ青、同じ金、同じ星の意匠。並べば、誰の目にも分かる。セレネは、自分の色を纏っている。その事実が胸の奥を掴んだ。


「……よく似合ってる」


 ようやく出た声は、思ったより低かった。セレネは一度だけ目を伏せる。


「ありがとうございます」


 ルシアンは彼女の髪に留められた星章へ視線を移した。触れそうになって、まだ侍女たちが控えていることを思い出す。伸ばしかけた指を外套の留め具へ戻し、わずかに息を落とした。


「今日は目立つぞ」


「ルシアンもです」


「俺は主役だからな」


「では、正しいと思います」


 淡々とした返事だった。だが、セレネの指先がドレスの縁をほんの少し押さえる。その小さな動きが、ルシアンの目に残った。


 王城の大広間には、日が傾く前から灯火が入っていた。高い天井から吊られた燭台の炎が、磨かれた床に金の揺らぎを落としている。柱の間には秋の白い花と常緑の枝が飾られ、楽師たちの弦の音が、着飾った貴族たちの衣擦れに混じっていた。


 ルシアンは第三王子として祝賀を受けた。父王へ礼を取り、正式な祝辞を受け、貴族たちの挨拶へ一つずつ応じる。形式は身体に染みついている。相手の爵位、家の立場、かけるべき言葉。間違えることはない。だが、視線は何度も隣へ戻った。


 セレネは公の場に相応しい距離で彼の隣に立ち、完璧な所作で礼を返している。ここではルシアンを「殿下」と呼ぶ。朝の食堂で名を呼んだ声とは違う、整えられた声だった。


 貴族たちは、すぐに気づいた。祝いの言葉を述べる夫人の視線が、ルシアンの胸元からセレネの髪飾りへ滑る。別の貴族が礼を取るわずかな間に、背後で低い囁きが交わされた。何を話しているのかまでは聞こえない。けれど、青と金の衣装を並べた二人を見ているのだろうことは分かった。ルシアンは杯を持つ指へ少し力を込める。以前なら、そう見られることに言い訳を探していたかもしれない。王族として必要な装いだ、婚約者として当然の距離だ、と。けれど、もうそんな言葉を用意する気はなかった。


「二十歳か。早いものだな、ルシアン」


 レオニスが近づき、穏やかな声で言った。隣にはリリアーナが寄り添っている。


「ありがとうございます、レオニス兄上」


 ルシアンが礼を返すと、レオニスの視線が一度だけセレネへ流れた。青と金のドレスを見て、彼はわずかに目を細める。


「……揃いか。よく似合っている」


「恐れ入ります」


 セレネが静かに礼を取る。リリアーナはその姿をあたたかく見つめていた。


「とても素敵です、セレネ様。青が、よく映えています」


「ありがとうございます、リリアーナ様」


 装いの相談に乗ったことがあるのだろうか。ルシアンはそこまで尋ねなかったが、リリアーナの表情には、ただの賛辞ではない親しさがあった。


 少し遅れて、フェリクスとミレイユも現れた。フェリクスはルシアンを見るなり、楽しそうに笑う。


「おめでとう、ルシアン。とうとうお前もこういうことをするんだな」


「兄上」


「隠す気もないらしい」


「うるさい」


「褒めてるんだけどなぁ」


 ミレイユがフェリクスの袖をそっと引いた。丸眼鏡の奥の緑の瞳が、セレネの袖の刺繍へ向く。


「星の刺繍、とても細かいですね。灯りで色が変わって見えます」


「ありがとうございます」


 セレネが静かに答える。フェリクスはまだ何か言いたげだったが、ミレイユに促されて一歩引いた。


 ルシアンは否定しなかった。以前の自分なら、即座に切り返していたかもしれない。だが今は、その気も起きなかった。


 夜会が終わる頃には、広間の灯火も少し低くなっていた。祝賀の列が解け、貴族たちが順に退がっていく。最後の挨拶が終わったあと、セレネの呼吸がわずかに深くなったのをルシアンは見た。


 すぐに隣へ立ち、腰へそっと手を添える。公の場で不自然にならない程度の距離。それでも、彼女が隣にいることを確かめるには十分だった。セレネは何も言わない。ただ、自然な動作として受け入れ、そのまま彼と歩き出した。


 星見宮へ戻る回廊には、夜の冷えが薄く入り始めている。窓の外には秋の星が淡く散り、石床に落ちる灯りは広間よりずっと控えめだった。人影が少なくなるにつれ、ルシアンは腰へ添えた手へ少しだけ力を込めた。


「疲れていないか」


「少しだけです」


「お前の少しは、いつも実際より軽い」


 きつく言ったつもりはない。セレネも反論しなかった。夜会の間、彼女はほとんど休んでいない。祝いを受けるルシアンの隣で立ち続け、貴族たちへ礼を返し続けていた。表情には出さないが、歩幅がほんの少し小さくなっている。


「寄りかかっていい」


「歩けます」


「知ってる。でも、今はそうしてほしい」


 セレネの視線が前へ戻る。腰へ添えた手を避けることはなく、わずかに歩幅を合わせるように隣へ寄った。その小さな受け入れだけで、ルシアンの胸は静かに緩んだ。


 星見宮の部屋の前で侍女たちが礼をして退がる。扉が閉まると、外の足音が遠ざかっていった。続き間には、低く落とされた灯火だけが残っている。昼のうちに整えられた花瓶には秋の白い花が挿され、窓の外では庭が夜の色に沈んでいた。


 ルシアンは腰へ添えていた手に、もう片方の腕を加えた。


「ルシアン」


「お疲れさま」


 膝の裏を支え、青と金のドレスごと慎重に抱き上げる。薄絹の裾がふわりと揺れ、黒髪が肩から流れた。セレネの手が彼の肩へ添えられる。拒むためではなく、姿勢を保つための動きだった。


「歩けます」


「知ってる」


 ルシアンは少しだけ笑った。


「もう下ろす。でも、少しくらい俺に甘やかされてくれ」


 セレネはすぐには返さなかった。海色の瞳が近い。広間の灯火を受けていた時よりも、今の方がずっと静かに見える。ルシアンはそのままソファへ向かい、彼女をそっと下ろした。ドレスの裾が乱れないよう整え、足元の小さなクッションを引き寄せる。


「痛むところはないか」


「ありません」


「本当だな」


「本当です」


 セレネの返事はいつも通り淡々としている。だが、膝の上に重ねた指先は、少しだけ力が抜けていた。


 ルシアンはソファの前で身を屈めたまま、彼女の手を取った。指先は少し冷たい。広間では何度も触れたいと思った。祝いの言葉も挨拶も途切れず、結局まともに二人きりになる時間はなかった。


「ルシアン?」


 呼ばれて顔を上げる。海色の瞳が近い。


 ルシアンはそのまま身を寄せ、頬へ短く唇を触れさせた。驚かせるつもりはなかった。ただ、ようやく二人だけになれたことを確かめたかった。セレネは目を瞬いた。けれど離れようとはしない。


「お疲れさま」


 低く告げると、セレネの指が彼の手を少しだけ握り返した。


 ルシアンは卓上の茶器へ向かった。侍女が用意していた湯差しにはまだ温もりが残っている。紅茶を淹れ直し、熱すぎないことを確かめてからセレネへ差し出した。


「飲めるか」


「はい」


 セレネは両手でカップを受け取る。白い指先に少しずつ温度が戻っていくのを見て、ルシアンはようやく自分の外套を外した。金の星章が小さく鳴り、椅子の背へ掛けた青い布が灯火の下で静かに沈む。


「今日は私が祝う側です」


 カップを手にしたまま、セレネが言った。


 ルシアンは彼女の隣へ腰を下ろす。


「祝ってくれただろ」


「まだ、何もできていません」


「朝に言った」


「あれだけでは足りません」


「夜会でも隣にいただろ」


「それは、婚約者としてです」


「俺には十分だった」


 セレネがこちらを見る。ルシアンは、彼女の髪に留められた星章へ視線を移した。青と金が黒髪に沈み、灯火を受けて小さく光っている。


「俺は今日、お前と一緒にいる時間が一番嬉しかった」


 飾らない声だった。


「だから、今は少しくらい甘やかさせてくれ」


 セレネは黙ったまま彼を見る。やがて、カップを持つ指がわずかに動いた。


「……少しだけです」


「ああ」


 ルシアンは満足して頷く。


「それでいい」


 セレネは紅茶を一口飲んだ。湯気が白い頬の前を淡く流れる。ルシアンはその横顔を見ていた。広間で誰もが見ていた青と金のドレスも、今は彼の部屋の灯火の中にある。人の目に晒されていたものが、ようやく自分の手の届く距離へ戻ってきた気がした。


「ドレス」


 ルシアンが言うと、セレネはカップを置いた。


「はい」


「本当に似合っていた」


「先ほども聞きました」


「何度でも言う」


 セレネはわずかに目を伏せた。頬に色が差したわけではない。けれど、黒髪の影に隠れた耳のあたりへ、ルシアンの視線が留まる。


「今日は、ルシアンの誕生日ですから」


 小さな声だった。


 ルシアンは返事をすぐには返せなかった。それだけしか言わないところが、セレネらしい。けれど、朝、支度を終えた彼女を見た瞬間から感じていたものは、その一言で足りた。夜会で貴族たちの視線を受けるたび、否定したくなかったもの。自分の色を纏ったセレネが、隣にいた。ただそれだけで、今日の祝賀は満ちていた。


 ルシアンはそっと手を伸ばし、彼女の指先に触れた。セレネは逃げない。少しだけ指を開き、彼の指を受け入れる。


「来年も」


 言いかけて、ルシアンは口を閉じた。まだ早い言葉だったかもしれない。けれど、セレネは彼を見上げていた。


「来年も?」


「……隣にいろ」


 それだけを言うと、セレネはしばらく黙った。灯火が海色の瞳へ細く映る。


「はい」


 静かな返事だった。


 その声だけで、ルシアンは十分だった。


 しばらくして、セレネがカップを置いた。立ち上がろうとして、ドレスの裾へ指をかける。その小さな動きを、ルシアンは見逃さなかった。


「どうした」


「渡すものがあります」


 ルシアンは彼女を制するように手を伸ばした。


「立たなくていい」


 セレネの視線が卓の奥へ向く。ルシアンもつられてそちらを見た。灯火が、まだ手つかずの小さな影を卓上へ落としている。


「まだあるのか」


「はい」


 セレネは静かにそう言った。


 ルシアンはセレネの手を握ったまま、卓の奥へ視線を向けた。灯火の端で、まだ知らない贈り物の影だけが静かに沈んでいた。


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