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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第4章 夫婦の部屋と学院の記憶

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二度目の万年筆

「まだあるのか」


「はい」


 セレネは静かに頷いた。星見宮の部屋には、低く落とした灯火だけが残っている。卓の上では、手をつけていない細長い包みが、茶器の影に半分だけ隠れていた。深い青の布に白い細紐がかけられている。夜会の喧騒はもう遠く、窓の外の庭からは、葉擦れの音だけが細く届いていた。


 ルシアンはセレネの手を握ったまま、その包みへ視線を向けた。今日という一日だけで、もう十分すぎるほど受け取っている。朝の祝いの言葉も、青と金を纏って隣に立った彼女の姿も、夜会のあとに素直に甘やかされてくれた時間も、全部、望んでいた贈り物だった。けれど、セレネが何かを用意してくれているなら、大切に受け取りたかった。


「立たなくていい」


 ルシアンは彼女より先に手を伸ばした。包みを取ると、布越しに細い箱の形が分かる。重すぎはしない。だが、中身が安物ではないことは、指に伝わる硬さと、丁寧な包み方だけで知れた。


「開けていいか」


「はい」


 白い紐を解く。青い布を開くと、細長い箱が現れた。蓋を持ち上げた瞬間、黒に近い深い色の軸が灯火を吸い込んだ。


 万年筆だった。


 派手な装飾はない。金具は抑えた色で、指に触れる部分の作りも無駄が少ない。日々の書き物に使うものとして、よく考えられている。王族へ贈る品として十分な格はありながら、飾り棚にしまい込むためのものではなかった。


「いつも、書きものをされていますので」


 セレネは短く言った。


「特務隊の記録にも、公務にも使えるかと思いました」


「実用的だな」


「はい」


 それ以上、セレネは説明しない。だがルシアンは、箱の中の万年筆から目を離せなかった。軸の上部に、小さな宝石が一粒だけ嵌め込まれている。灯火が触れると、その石は静かに青を返した。王家の空色ではない。もっと深く、わずかに緑を含み、光の底に水の気配を残す色だった。


 ルシアンは万年筆を箱から取り上げる前に、セレネを見た。


 海色の瞳は、灯火の角度ひとつで色を変える。夜の水面のように沈み、朝の光の中では澄み、今は小さな宝石と同じ深さで静かに光っていた。


 ルシアンはゆっくり万年筆を取り上げた。指に馴染む重みがある。宝石は小さい。けれど、一度気づいてしまえば、そこから視線が離れなくなる。


 ほんの数時間前まで、セレネはルシアンの青と金を纏っていた。王家の色。彼の礼装と対になる星の意匠。それを周囲の目に晒しながら、彼女は当たり前のように隣に立った。そして今、彼の手の中には、セレネの色がある。


「セレネ」


「はい」


「この石」


 言いかけて、ルシアンは口を閉じた。問う必要はなかった。偶然だと答えられても、信じる気にはなれない。セレネはただ彼を見ている。否定もしない。肯定もしない。けれど、その沈黙だけで十分だった。


 ルシアンは万年筆を片手に持ったまま、空いている手で彼女の指を取った。


「礼を言う」


「贈り物ですから」


「それだけじゃない」


 それ以上は言葉にならなかった。ルシアンは身を屈め、セレネの額へ口づけた。短く、急がずに。セレネは逃げない。彼女の指が、彼の手の中でほんの少しだけ動いた。


「今日、一日。隣にいさせていただきました」


 セレネが静かに言った。


 ルシアンは額を離し、近い距離で彼女を見る。


「それは俺が一緒にいたかっただけだ」


 言ってから、少しだけ口を噤んだ。あまりにも素直に出た。


 セレネはすぐには答えなかった。海色の瞳が彼を見上げる。夜会で見た宝石よりも、手の中の石よりも、その目の方がずっと深い。やがて、重ねられた指がほんの少しだけ彼の手を握り返した。


「……では、同じです」


 声は小さかった。それだけだった。だが、その短い返事が、ルシアンの胸へゆっくり沈んでいく。セレネは多くを語らない。好きだとも、嬉しいとも、甘い言葉を重ねることもしない。それでも、今の一言に彼女が何を込めたのか、分からないふりはできなかった。


「大事に使う」


「無理に使わなくても」


「使う」


 低く言い切ると、セレネの口元がほんのわずかに緩んだ。朝の湯気の向こうで見たものと同じ、小さなほどけ方だった。


 ルシアンは万年筆を掌の上でゆっくり回した。ほどよい重みがあり、軸の表面は滑らかだ。黒に近い深い色は、光を強く返さない。その分、海色の宝石だけが小さく息づくように見えた。


「これは、どこで見つけた」


「王都の工房です」


「よく見つけたな」


「少し、探しました」


 「少し」としか彼女は言わない。けれど必要だと思えば、セレネは黙って手間をかける。その手間を、自分から口にすることはない。


 ルシアンは胴軸へ指を滑らせた。途中に、ごく細い継ぎ目がある。装飾ではない。回せば外れる作りだ。古い型の万年筆に時々ある構造で、インクの補充や内部の手入れをしやすいように作られている。


「昔は、こういう万年筆が多かった」


「学院の頃ですか」


「ああ。生徒会にいた頃にな」


 言ったあと、セレネの視線が万年筆へ落ちた。彼女はしばらくその継ぎ目を見ていた。


「……万年筆の件が、ありましたね」


 その一言で、ルシアンの指が止まった。


 セレネは説明を足さない。けれど、それで通じた。


 二年ほど前のことのはずなのに、記憶の中の王立学院は、今いる星見宮の部屋よりもずっと遠くに見えた。午後の光が生徒会室の古い窓枠を白く縁取り、机の上には処理を待つ書類が幾つも重なっていた。乾きかけたインクの匂いと、使い込まれた木机の擦れた艶まで、万年筆の継ぎ目に触れた指先からゆっくり戻ってくる。


 あの頃、ルシアンは生徒会長だった。規則と成績と、学院で起きる小さな揉め事を正しく処理できると信じていた年頃だ。隣には、すでにセレネがいた。今より少し幼い顔立ちで、けれど海色の瞳だけは変わらない。誰も気づかない違和感を見つけては、短い言葉で零す少女だった。


 その頃、ルシアンは一度、万年筆を贈られたことがある。


 今手にしているものよりずっと質素な、飾り気のない一本だった。艶を失いかけた黒い軸には宝石もなく、金具もところどころ擦れていた。それでも、差し出した手がひどく丁寧だったことを覚えている。


 灯火が揺れる。手の中の新しい万年筆の宝石が、小さく海色を返した。


 その色を見ていると、記憶の奥にあった生徒会室の午後が、今の部屋の灯火へ静かに重なった。学院の制服を着たセレネと、青と金のドレスを纏った今のセレネ。二つの姿はまるで違うはずなのに、海色の瞳だけは変わらない。


 あの頃、自分はまだ知らなかった。


 隣にいた少女が、こんなふうに自分の誕生日を祝い、自分のために万年筆を選び、同じ部屋の灯火の下で静かに座っている未来を。


 ルシアンは万年筆を卓へ置いた。傷つけないよう、箱の上へ丁寧に戻す。それから、もう一度セレネの手を取った。


「セレネ」


「はい」


 海色の瞳がこちらを向く。


「今、少しだけ」


 言葉を探すように息を吐いた。うまく言おうとすれば、きっと違うものになる。だから余計な形を与える前に、そのまま口にした。


「幸せだと思った」


 セレネは目を瞬いた。驚きはそれだけだった。笑いもしない。茶化しもしない。ただ、彼の言葉をそのまま受け取るように、静かにこちらを見ている。


 ルシアンは彼女の頬へ指先を添えた。


「もっと触れてもいいか」


 問いかけると、セレネの睫毛が一度だけ伏せられた。長くはない沈黙のあと、彼女は小さく頷く。


「……少しだけです」


 そう言いながらも、セレネは一度も離れなかった。ルシアンの袖に触れていた指は、そのまま布を軽く掴んでいる。許すだけの手ではない。彼の方へ向けられた、静かな願いのように見えた。


 ルシアンは彼女の手を引き寄せ、指先へ口づけた。夜会の間、何度も触れたいと思った手だった。青と金のドレスの上で静かに重ねられ、礼を返し、杯を受け取り、最後まで乱れなかった指。その指が今は、彼の手の中でわずかに力を抜いている。


 ルシアンはセレネを抱き寄せた。黒髪が肩へ流れ、細い身体が腕の中へ収まる。セレネは抵抗しなかった。むしろ、彼の上着を掴む指へ少しだけ力がこもる。呼吸が近くなる。髪からは、夜会の花と香油が混じった淡い匂いがした。


 額へ口づけると、セレネは静かに目を伏せた。それだけで十分だったはずなのに、離れる気になれない。


「少しだけじゃ、足りないな」


 低く漏らすと、セレネは彼の胸元に触れたまま、小さく目を上げた。否定の言葉はない。代わりに、掴んでいた上着の布が、ほんの少しだけ引かれる。その小さな動きだけで、ルシアンには応えになった。


「……セレネ」


 名前を呼ぶと、海色の瞳が細く揺れた。


 ルシアンは強く抱き込まないように気をつけながら、それでも離したくない分だけ腕を回した。青と金の薄絹が彼の袖に触れ、灯火の中で小さく光る。セレネはその腕の中で、わずかに身を寄せた。


 そのまま、しばらく言葉はいらなかった。


 ルシアンはやがて、彼女の額へもう一度だけ口づける。セレネの指はすぐには離れなかった。その名残を指先で受け止めてから、彼は少しだけ身体を離す。


 卓上の万年筆へ視線を戻した。黒い軸の中で、海色の宝石が灯火を拾っている。


 学院時代の万年筆。


 そして今、セレネの手から受け取った万年筆。


 二度目の万年筆だ。


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