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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第4章 夫婦の部屋と学院の記憶

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氷の侯爵令嬢

ルシアンは、セレネから贈られた海色の宝石付きの万年筆を見下ろしていた。


 二度目の万年筆だ。


 そう気づいた時、燭台の火が揺れ、机に落ちていた影が細く伸びた。目を閉じるとふと思い出すのは、冬の王立学院の廊下だった。


 王立学院の石の廊下は、いつも冷えていた。窓の外では細かな雪が降り、図書塔の尖った屋根や礼拝堂の古い石壁に、朝から少しずつ白い粉を積もらせている。授業を終えた生徒たちが足早に通り過ぎるたび、濃紺の制服の裾が揺れ、王冠と十字を組み合わせた金の紋章が、冬の光を受けて淡く光った。吐く息は薄く白く、革靴の音は石壁に当たって短く戻ってくる。乾いた雪の匂いと、図書塔から流れてくる紙とインクの匂いが混ざる季節だった。


 生徒会室は、中央棟の二階、図書塔へ続く渡り廊下の手前にあった。大きな窓が三つあり、昼でも暖炉を使わなければ指先がかじかむ。壁際には各寮から上がってきた報告書が積まれ、机の上には封蝋の欠片、乾いた羽根ペン、出欠記録、遅れた馬車便の一覧が乱れずに並べられていた。薪の焦げる匂いが紙の匂いの上に薄く重なり、窓硝子には、外を通る生徒たちの影が時折ぼやけて映った。


 ルシアンは、生徒会長の机に向かい、届いた書類へ署名を入れていた。生徒会長など面倒な役目だと思ったことは何度もある。だが、寮同士の揉め事を規則に沿って処理し、教員が後回しにする細かな不正を正し、証言と記録を突き合わせていく作業は、いずれ王族として国の仕事を担う時にも無駄にはならないはずだった。少なくともこの学院の中では、紙に残された事実と、人の口から出た言葉を並べれば、乱れたものをある程度まっすぐに戻せると考えていた。


 濃紺のジャケットの袖口には金の刺繍が走り、胸には学院の紋章が留められている。窓から入る白い光が金糸の上を滑るたび、書類の端に細かな反射が落ちた。ルシアンは万年筆の胴軸を指で支え、署名の最後を払う。黒に近い深藍の軸に、金の細い輪飾りが入った、飾りの少ない万年筆だった。


 それは、秋に迎えた誕生日にセレネから渡されたものだった。


 その日、彼女は学院の小さな談話室に、細長い箱を持ってきた。窓の外では、庭園の楡の葉が黄ばんでいて、茶卓の上には冷めかけた紅茶と、ほとんど手をつけられていない焼き菓子の皿が置かれていた。箱の内側には、同じ型の万年筆が二本並んでいた。どちらも同じ深藍の軸で、金具の位置も、胴の太さも変わらない。王族のために作られた一点物ではなく、上等な店に置かれる既製品の一つだと、見れば分かった。


「祖母からいただきました」


 セレネはそう言って、二本のうち一本を取り上げた。白い指は迷わず、箱の左側に収まっていた方を選ぶ。特別な意味があるようにも、ないようにも見えた。


「私は一本で足りますので」


 そこで言葉は一度途切れ、ほんの少し遅れて、彼女はその万年筆をルシアンの方へ差し出した。


「誕生日ですので」


 祝いの熱も、照れも、社交辞令の甘さもなかった。幼い頃から何度も同じ茶卓を挟み、銀の匙が磁器に触れる音や、砂糖菓子を勧める大人たちの声の間で向かい合ってきた相手なのに、彼女はいつも、感情の置き場所だけをどこか別の棚にしまっているように見えた。紅茶に砂糖を入れないことも、焼き菓子の皿を勧められれば一つだけ取ることも知っている。だが、その海色の瞳が何を見ているのかは、向かいに座っていても掴めない。


 礼を言うと、セレネは浅く頷いただけだった。黒髪の先が肩の上で少し揺れ、白い指が残った一本の万年筆を箱へ戻す。贈り物をしたという顔ではなかった。ただ、必要なものを必要な場所へ移したような手つきだった。


 そのセレネは今、生徒会室の窓際で貸出記録を確認している。女子制服の濃紺のジャケットには金の装飾が控えめに入り、白いブラウスの胸元には青い宝石のブローチが留められていた。紺と白のプリーツスカートの裾には細い金の線が走り、黒いタイツと革靴が、雪明かりを受ける床の上で小さく音を立てる。長い黒髪は結われず背に落ち、冬の光に触れる部分だけが青みを帯びて見えた。


 廊下では、時折、氷の侯爵令嬢などと囁く声を聞く。ルシアンがその名を耳にするたび、セレネはたいてい本を読んでいるか、記録を見ているか、誰かの言葉の中に混じった小さな食い違いを拾っていた。冷たいというより、余計な反応をしないだけにも見える。けれど、その余計な反応がないことを、周囲は時々ひどく恐れる。


「セレネ」


「はい、殿下」


「昨日の寮間の揉め事、記録はまとまったか」


「机の右側、青い紐で綴じたものです。証言が二つ食い違っています」


 彼女は一度もこちらを見ずに答えた。ルシアンは右側の書類へ手を伸ばす。


「どこが」


「片方は雪が降る前に相手を見たと言い、もう片方は靴底に雪がついていたと言っています」


「……よく見てるな」


「記録に書いてあります」


 当然のように返され、ルシアンは万年筆の先を紙の上で止めた。書類の余白に、小さな黒い点が残る。彼女はいつもこうだった。こちらが問いを投げる前に、必要な場所へ紙を置き、誰も気に留めなかった行を示す。見ているものは同じはずなのに、拾っているものが違う。


 その時、扉が控えめに叩かれた。生徒会の雑用を頼みに来る下級生なら、もっと軽く入ってくる。教員なら、叩く前に名乗る。ルシアンが顔を上げると、扉の向こうから少し掠れた声がした。


「失礼します。生徒会に、探し物の相談をしたいのですが」


「入れ」


 扉が開き、ひとりの男子生徒が入ってきた。濃紺の制服はきちんと着ているが、袖口は何度も洗われた布のように柔らかくなっている。金の刺繍も、王侯貴族の子息たちが身につけるものほど鮮やかではない。茶色の髪は少し癖がついて額に落ち、顔立ちは目立たない。廊下ですれ違えば、次の角を曲がる頃には輪郭が曖昧になるような生徒だった。


「名は」


「テオ・メルツです。三年、北寮所属です」


 テオは背筋を伸ばして礼をした。緊張はしているが、取り乱してはいない。指先だけが制服の袖口を掴み、布地に浅い皺を作っていた。


「探し物とは」


「万年筆です。昨日の午後から見つかりません。寮と教室と図書塔は探しました。礼拝堂にも届け出はありませんでした」


 ありふれた相談だった。学院では、筆記具や手袋や本がよくなくなる。盗難のこともあるが、大半は置き忘れか取り違えだ。特に冬は外套や手袋で荷物が増え、授業の移動も慌ただしい。ルシアンは記録用紙を引き寄せ、万年筆を持ち直した。


「最後に使った場所は」


「図書塔の閲覧席です。昨日の三限後、古語の課題を写していました。そのあと講堂へ移動して、寮に戻ってからないことに気づきました」


「特徴は」


 ルシアンがそう問い、紙面へペン先を落とそうとした時、テオの視線が止まった。最初は机上の書類を見ているのかと思った。だが違う。彼の目は、ルシアンの指先にある深藍の万年筆へ吸い寄せられていた。雪明かりのせいで、金具の細い輪飾りが薄く光る。テオは一歩だけ前へ出かけ、すぐに自分の立場を思い出したように足を止めた。


 喉が動く。唇が一度閉じる。言葉を飲み込もうとして、飲み込めなかったような顔だった。


「どうした」


「……それです」


「何」


「その万年筆です。殿下、それ、自分のです」


 ルシアンの指が止まった。ペン先に残ったインクが、紙の余白へ小さく滲む。暖炉の薪が炉の奥で崩れ、赤い火が一瞬だけ明るくなった。


「これは俺のものだ」


「も、申し訳ありません。殿下のものを疑うつもりではありません。ただ、その色と、金具の形が、あまりにも同じで」


「同じ型の品はある。これは以前、誕生日に贈られたものだ」


 ルシアンは窓際へ視線を向けた。


「セレネ」


「はい」


「これを俺に渡したのはお前だったな」


 セレネは貸出記録を閉じ、こちらへ歩いてきた。黒髪が背で静かに揺れ、青いブローチが白いブラウスの上で小さく光る。彼女は万年筆を一瞥し、淡々と答えた。


「ええ。祖母からいただいた二本のうち、一本を殿下へお渡ししました」


 テオの顔に戸惑いが広がる。彼はもう一度、深く頭を下げた。


「申し訳ありません。本当に、同じに見えたんです」


「顔を上げろ。お前の万年筆について確認する」


 ルシアンは声を荒げなかった。王族の机にあるものを自分のものだと言うには、相応の理由が要る。言い間違いで済ませるには、テオの目はまだ万年筆から離れきっていなかった。


「お前の万年筆も、この型か」


「はい。黒に近い青の軸で、金具が二本入っています。少し古いですが」


「名や印は」


「ありません」


「では、どうやって自分のものと見分ける」


 テオは袖口を掴む指に力を込めた。布の皺が深くなる。


「握るところの近くに、小さな傷があります。祖父が使っていた頃からのものだと、母が言っていました」


「祖父?」


 問い返すと、テオはそこで初めて、わずかに目を伏せた。


「祖父の形見です。学院へ入る時、母が持たせてくれました。家には高価なものはありませんが、それだけは昔から大事にしまってあって」


 声は整っていた。泣き出しそうではない。けれど、唇の端が乾いて白くなっている。何度も同じ説明を頭の中で繰り返してから来たような話し方だった。


「傷の位置は正確に覚えているか」


「軸の下の方です。握る時に、指が当たるあたりに」


「この万年筆にはない」


 ルシアンは自分の万年筆を光へかざした。使い始めてから季節は少し過ぎているが、深い傷はない。机や鞄で擦れた細かな跡はあっても、テオが言うような古い傷ではなかった。


 テオはその表面を見ようとして、すぐに視線を下げた。


「……はい。近くで見れば、違うのだと思います。ただ、見えた瞬間に」


「見つけたと思ったか」


「はい」


 冬の光が窓辺で白く揺れた。セレネは机の端に立ったまま、万年筆とテオの手元を交互に見ていた。責めるでも慰めるでもなく、ただ見る。細い指は記録紙に触れず、青いブローチの下で制服の影がわずかに動いた。


「昨日、図書塔でお前の近くにいた生徒は」


「同じ古語の課題をしていた生徒が何人かいました。南寮の上級生が二人と、レイフォード伯爵家のドミニク様が少し離れた席に。ほかにもいましたが、全部は覚えていません」


 ルシアンは記録用紙にその名を書き留めた。ペン先が紙を擦る音が、細く耳に残る。


「分かった。届け出は受理する。図書塔と講堂、北寮の管理担当に確認を入れる。同じ型の万年筆を見ても、相手へ直接詰め寄るな。取り違えなら手順で戻る」


「はい。ありがとうございます」


 テオは頭を下げた。顔を上げる時、その視線はもう一度だけルシアンの万年筆に落ちた。欲しがる目ではなかった。確かめようとしている目だった。だが、確かめるためのものを自分の中に十分持っていないようにも見える。


 セレネが、低く言った。


「……形見、なのですよね」


 テオは瞬きをした。


「はい」


「そうですか」


 それだけだった。問い詰めるでも、説明するでもない。けれどルシアンの指は、万年筆の胴軸を押さえたまま止まった。セレネの視線はテオの顔ではなく、彼が握りしめた袖口に落ちている。白い指が、机の角に触れる寸前で止まっていた。


「セレネ」


 ルシアンが名を呼ぶと、彼女はようやくこちらを見た。


「……失くした、にしては」


 続きはなかった。海色の瞳はいつもと同じように静かで、その言葉がどこへ向いているのか、すぐには掴めない。テオは不安そうに二人を見比べたが、セレネはそれ以上何も言わなかった。


「今日はもう一度、図書塔の席を確認しておけ。こちらでも聞き取りをする」


「はい。失礼します」


 テオは深く礼をし、生徒会室を出ていった。扉が閉まると、廊下の足音が遠ざかる。硬い靴音は渡り廊下へ向かう角で響き方を変え、やがて雪に吸われるように薄くなった。


 ルシアンは机上の万年筆を見下ろした。深藍の軸に、金の輪飾り。飾りの少ない既製品。セレネが秋に差し出した箱の中には、同じ型の万年筆が確かに二本並んでいた。だから、テオのものと似ていてもおかしくはない。


 それでも、セレネの短い言葉が耳に残った。


 形見、なのですよね。


 万年筆を探している者の目と、大切なものを見つけた者の目。その二つが、テオの中で少しだけ重なりきっていなかった。


 ルシアンは椅子から立ち上がり、窓際へ歩いた。石床の冷たさが靴底から伝わる。窓の外には、薄く雪をかぶった中庭が見えた。テオが鞄を抱えて歩いている。肩を少し縮め、礼拝堂へ向かう道を一度見てから、図書塔の方へ足を向けた。探し物を続けるつもりなのだろう。彼の歩幅は急ぎすぎず、けれど立ち止まるには落ち着きが足りなかった。


 その少し離れた回廊で、別の男子生徒が教員に呼び止められていた。濃紺の制服は乱れなく整い、襟元の白い布もまっすぐだった。教員の問いに短く答え、通りかかった下級生が礼をすると、自然に頷く。過不足のない所作だった。その顔には見覚えがあった。先ほど記録用紙に書き留めた名と、ようやく結びつく。


 教員が去った後、彼の視線が中庭を横切った。長くはない。テオが図書塔へ入るまでの、ほんの短い間だった。だが、その目は雪景色ではなく、テオの背を追っていた。テオが扉の向こうへ消えると、彼は手袋を嵌めた指で袖口を整え、何事もなかったように回廊を歩き出す。


 ルシアンは窓硝子越しに、その姿を見ていた。冷えた硝子に近づいた呼吸が、薄く白く映る。手の中の万年筆の金具だけが、指の体温でわずかに温んでいた。


「あの男が、なぜ」


 低く漏れた声に、セレネが近くへ来た。彼女は窓の外を追わず、ルシアンの手元にある万年筆へ視線を落とした。暖炉の薪が炉の奥で小さく崩れ、紙とインクの匂いの中に、焦げた木の匂いが濃く混ざる。雪はまだ、図書塔の屋根にも、中庭の石畳にも、音を薄くしながら降り続いていた。


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